20世紀的脱Hi-Fi音響論(特別編)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「ステレオじゃないオーディオの選択 」は、昔日のジュークボックスからはじき出される音にモヤモヤするオヤジをモニターします。

ステレオじゃないオーディオの選択
【ヒットチャートに飽き足らない】
【後に引けないステレオ進化論】
【オヤジをときめかせるJensenサウンド】
【21世紀にモノラルを美味しく戴く】
冒険は続く
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


ステレオじゃないオーディオの選択

【ヒットチャートに飽きたらない】

放っといても昭和100年がやってきた。
大御所の演歌歌手の前口上に必ず付いてくる「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉通り、世の中の音楽産業は時事の売れ行き=ヒットソングで成り立っている。そう思っていた時期が私にもありました。実はこの「歌は世につれ、世は歌につれ」はNHK紅白歌合戦の司会者から生れ出たのだと言われるが、いつしか「時代が変わっても歌い継ぎたい歌がある」というふうに、普遍的な感動を呼び起こすものへと使われ方が変わってきた。しかし、大きな流れとして、世情を詠んだ歌というのが世に溢れていて、その中から選びに選んだのがこの曲、ということになるのだろう。そういうクリティカルパスチョイスは「万葉集」「古今和歌集」など中世の頃からあって、今でも解説書など事欠かないのだから、100年も経てば十分に古きを尋ねることで味わいも増してくるのだろう。

昭和のオリンピック景気に湧いた流行歌の数々

懐かしい昭和のアンサンブル・ステレオ

そういうのをクラシック(古典)というのだが、どうもクラシックと言うと、イギリスの貴族たちがヘンデルやコレッリを愛するあまり18世紀末にコンサート組合(the Consert of Ancient Musiks)を結成したことが由縁なだけあって、西洋のオーケストラ曲などを想起するらしく、哀愁帯びたギターで伴奏する歌などはそう呼ばれたくないし、そもそも現役の歌手が100年も200年も前に物故した音楽家と一緒の列に加わるなど、あまり想像したくないのだろう。そもそも芸能人は芸術家ではない、その人ならではのパフォーマンスが観衆を湧きたたせるオーラを放っていると言えるのだ。一方では「昭和100年」という重みは増すばかりで、かつての流行歌もクラシックと呼ばれていい時代に突入している。ちょうどシューベルトの歌曲がギター伴奏だったのに、グランドピアノの伴奏でコンサートホールで聴くようになったのと同じである。

左:シューベルトの家庭音楽会を訪問するベートーヴェン?(Otto Nowak, 1901)
右:アメリカ南部のジョグ・バンド(Frederic Ramsey Jr. 1950年代)


しかし、20世紀に入って導入されたレコードという物は、その場その時にしか聴けなかった一期一会の機会に対し、時空を超えた音楽の鑑賞を可能にした。そのレコードを再生する電気機器がオーディオというのだが、それはいつしかコンサート会場での音を再現するのを最高の状態だとし、ステレオと呼ばれるようになった。今ではオーディオ機器はステレオしか製造していないので、全てステレオと呼んでいる。少し前ならコンポーネント・ステレオと呼ばれていた物だ。

昭和のサントリパイ=品質に間違いのないコンポーネント・ステレオ選び
1980年代にピークを迎えたバブル前の国産オーディオ機器

だが、20世紀に残された録音を見渡すと、実はコンサート的な音の広がりがない録音が少なくない。もちろん繰り返し聴いて感動を呼び起こす名演奏に絞った結果でもそうなのだ。それはステレオ録音以前のモノラルだったり、ラジオやテレビでの放送を目的に収録されたために直接音が主体のバランスだったり、せっかくステレオを購入したのに音場感の薄い録音に出会うと残念に思うらしい。このため、少し前ならモノラル=猫またぎ(猫も跨いで通る小さい雑魚)のように思われていたし、モノラル期にヒットした往年の流行歌もステレオで再録音することが多かった。こうして「ステレオの時代」は、オーディオの技術革新の御旗の下に、常に新しい音楽を提供するべきものと運命づけられてきたのである。

日本国内における音楽メディア売上枚数の推移(日本レコード協会統計)



10年置きに録音もジャケも進化するカラヤンのLPと同時代のポップスター&流行歌手

しかし、新しく購入するレコードについては、まだ未知の部分が多い。アルバムなどはシングルカットされない80%は、買って聴いてみなければ分からないことが多いのだ。このため、ラジオやテレビで今話題の楽曲を選ぶのが無難なことが多い。つまりヒットしている歌について、何が良いのか流行を追うのが一番手っ取り早いのだ。しかし流行にはマンネリがある。そしてマンネリ化した楽曲は、いつしか音楽ジャンルという古い時代の思い出という檻に閉じ込められ、ミュージシャンの存在は大衆の記憶から忘れられていくのである。しかしその理由の多くは録音されたメディア(シェラック盤、LP盤、CDなど)の違いで分断され、意外なことにステレオ装置も同じような運命を辿っているのだ。例えば、レシーバー(FMチューナー付きステレオアンプ)、シスコン(同じデザインで統一された機能別の単体オーディオを山積みにしたステレオセット)など、業界用語そのものが死語になっていて、今でも大切にして聴いている人は、蓄音機を所有する人と同じくらいの人口だろう。


常に進化し続けるHi-Fi機器は流行の荒波に呑まれて行く運命にある
服なら着替えればいいがステレオは買うにも捨てるのにも勇気がいる


では、レコードそのものはどうかというと、実のところ、その頃に何が大衆を惹きつけたのか、そういうエッセンスが記録されている。ミュージシャンが感じたその時代の空気というべきか、時代を生きた証言のようなものが、ダイレクトな感情のまま残されているのだ。マリー・アントワネット妃の奇抜で斬新な衣装デザインを手がけたローズ・ベルタンは「新しいものとは忘れられたものに他ならない」という名言を残した。クラシックというのは本来、忘れられた古いものを新しく再現する技法のことを言うのだ。なので、昭和100年を迎えた21世紀にふさわしいオーディオとは、常に新しい録音を目指すのではなく、古きをたずねてもなお新鮮なまま再生する技術であるべきだ。




【後に引けないステレオ進化論】


鏡の国のアリスに出てくる「赤の女王」が吐いた名言に「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というのがあって、いわゆる進化論とは生物学の必然なのだとする立場である。しかし、同じ生物学でもリンネやファーブルという植物や昆虫の研究者は、むしろ適応可能な範囲において多様性を誇ることで、種の保存に務めているという。つまり、進化よりも遥かに早いスピードで変容するというのだ。1872年にこのセリフを吐かせたルイス・キャロルは、産業革命も最高潮に差し掛かった英国において、進歩主義のみが正義とされた時代、まさにダーウィンが進化論を発表しそれが行き過ぎた思想だとして懐疑的な眼差しが向けられ、フロイトが精神分析により心の性の問題を取り上げる以前の、つかの間の抵抗であったように思われる。何よりも不思議の国のアリスの好評により、ヴィクトリア女王から続編の執筆を要請された、その返礼ともいえるナンセンスなキャラクターを現出させたのだ。それが大英帝国の鏡であるというのは、子供心にも分かる時代の空気のようなものだったと言えよう。

赤の女王「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない

しかして、オーディオ誌がピカチュよろしく「オーディオの進化」という宣伝は、オーディオ業界の戦略として正しいのかどうか、私なりに考えてみた結果、現在のオーディオ理論は1950年代のHi-Fi理論から進化していない、という結論に至っている。つまり、レコード産業がはじまった20世紀初頭から1950年代までの半世紀の間のオーディオ技術の開発過程から、その後の理論的なものの進展はほとんど起こっていないのだ。


◆ ◆ ◆


メディア規格の春秋戦国時代
オーディオの進化の過程をたどると、それは凡そレコードそのものの再生方式の転換に集約される。ラッパ録音から電蓄への変化はかなり小さいものだったが、影響の大きかったのがラジオとの競合である。つまり電蓄にできて蓄音機にできないのは、同じ機器でラジオの再生ができるかどうかだった。LP盤への変化はHi-Fiの定義に関わる大きな変化があったが、レコードプレイヤーから78回転が消えるまでに10余年の歳月を必要としており、結局はステレオ録音という武器を手にして、1960年代にようやくSP盤の製造を終わらせることができたのだ。


エルヴィスのデビュー盤は78回転盤だった

しかしながら、ステレオの普及もさらに10年を要し、世界的にFMステレオ放送が本格化した1970年代に入って、ようやく全ての録音がステレオへと移行するようになった。FMステレオ放送を聴くにはチューナーが要る、さらにステレオ録音を聴くにはスピーカーが2個要る、などと様々な情報が錯綜して、一番売れたのがFMチューナーとアンプを一体化したレシーバー、その次にカセットデッキであった。レシーバーにはステレオヘッドホン端子が付いていたので、意外に1970年代はヘッドホンの売れ行きが好調だった。一方では、マルチトラック録音によるスタジオ稼働率の著しい向上もあり、電子楽器も交えたレコード制作に無限の可能性が生まれた一方で、ミュージシャンが一堂に会するスタジオ・セッションという方法がほぼ壊滅的になっていった。この頃からカセットテープとラジオを合体させたラジカセが流行ったが、録音できるのはラジオからだけで、テレビの音声はできない仕組みがとられた。小遣いでシングル盤を買えない大多数の小中学生にとって、歌謡番組の録音はテレビの前にラジカセを置いてマイクから行うため、家族一同沈黙しながら聴き続けないと逆ギレして怒られる始末である。なので、土曜の午後にはじまるヒットチャートに自分の好きな歌手が出るかは、かなり命運を掛けた内容だったといえる。

1970年代のシチュエーションに合わせて拡がる音響機器

1970年代のステレオは夢に満ちていたか?(レシーバー、ヘッドホン、カーステ)

サウンドステージを発明したBBCでのステレオ音場のスケールダウン実験(1970年前半)

デジタル録音の旗手となったCDについても、LP製造が一旦停止されるのに1990年まで掛かっており、パッケージメディアの規格の移行には、かなり慎重な手続きが行われてきたと言えるだろう。その後に5.1chサラウンドやSACDなど、規格の変更を試みたものの、もはや進化への希望は薄く、2ch再生のままネットオーディオに移行したといえよう。その際に求められたのは、オーディオの高品質化ではなく、iPodのような携帯性の進化であり、それはカセットテープを使ったウォークマンのような携帯プレーヤーから既に始まっていたことである。今では本格的なオーディオ機器の筆頭はヘッドホンであり、それと引き換え2×10倍以上のコストの掛かるスピーカーとアンプの製造は、もはや昭和に流行った昔日の思い出のようなものである。


CDが一番輝いていたデジタルオーディオ時代の到来


DVDの普及でテレビと一緒に家電として売られたBOSEシアターシステム
音楽も機器もインターネットでの販売に特化したiPod


これらの音響機器の歴史を振り返ると、その時にヒットした音楽も一緒に想像できるだろう。かつては蓄音機→ステレオ→CDプレーヤーという風に、メディア規格の変更による買い替え需要に支えられたオーディオ機器の春秋時代は、今やリマスターという名のもとにデジタル音声に集約され、そのレガシー遺産をどのように継承するべきなのか、リプロデュースする機器の再構築を迫られていると言える。
私がオーディオという言葉を使う場合、ミュージシャンの在りし日の姿をスピーカーで拡声して再現する、昔ながらの音楽再生を意味している。常に新しい情報を求める進化ではなく、メモリアルな意味でのレコードの再生を目指しているのだ。私のモノラルHi-Fi再生機器への希求は、20世紀に残された膨大な音楽情報を有効に取り扱うための議論の先にあるのだ。

◆ ◆ ◆


1960年代までモニタースピーカーはフラットでも広帯域でもなかった
以上のように、SP盤復刻、Hi-Fiモノラル、初期ステレオ、マルチトラック録音、デジタル録音と5世代に渡る録音を同じステレオ装置で聴きとおすのは容易ではない。そもそも記録メディアが違うし、その再生装置も違うのだ。懐メロと歌謡曲の線引きはSP盤かドーナッツ盤かのコレクターの棲み分けである。このためデジタル化された録音のアーカイブは肉体を失った亡霊のような感じに捉える人も多い。しかし、録音機材と再生機器のミスマッチは、録音スタジオのメートル原器とも言われたモニタースピーカーでさえ起こりえた難題だった。



電気録音開始時に開発されたクレデンザ蓄音機(1925):これが最後のアコースティック蓄音機となった
アルテック604Eで演奏をプレイバックするクリームのメンバー(1967):試聴はモノラルで行っていた
アビーロードスタジオに導入されたB&W 801 Matrix(1980):ミキサーは1960年代末のまま


例えば、ビートルズの後期作品の始まりとなったホワイトアルバムの収録中に事件が起きた。マルチトラック録音の利便性を活用して、メンバーがトライデント・スタジオで別働隊を組んで「ヘイ・ジュード」のセッションをアセテート盤(テープの規格違いではない)にトラックダウンしたところ、それをアビー・ロードで聴くとひどく高域が足らないことに気が付き、関係者でかなり揉めたという。
「レコーディング・ザ・ビートルズ」に記載されているケン・スコットの述懐では、トライデント・スタジオでは素晴らしいサウンドだったのが、アビー・ロードで聴くと凶悪な音に変わったので、ジョージ・マーチンに「これはどういうことかな?」 と録音の不備について問いただされた。スコット:「ええと、昨日聴いたときは目を見張るようなサウンドだったんですけど」、マーチン:「昨日は目を見張るようなサウンドだったって、キミはどういうつもりなんだね?」そこで戻ってきたポールが気転を効かして言った「ああ、そうだな。ケンはここのサウンドがクソみたいって思ってるんだ。」一同:「なんてこった」と言いながら(コントロールルームの)階段を下りてヒソヒソ相談しはじめたので、ケン・スコットはもうこれで死んだと思ったらしい。
結果的には録音はOKとなり、問題はアルテックのモニターに原因があるということが判り、イコライザーで補正することで事なきを得た。この件があって、アビーロード・スタジオは1968年に全モニターをLockwoodに変えることを決定した。アビーロードスタジオはこのとき初めて、ミキシング作業でのモニタースピーカーのフラットネスの重要性に気付いたと言えよう。

アルテック604Bの特性、アビーロードスタジオでのビートルズ


左:トライデント・スタジオ(1967)、右:アビー・ロード Studio3でのピンク・フロイド(1968)
共にトライデント社カスタムメイドのミキサーとロックウッド社のモニターを使用


ピンク・フロイド「狂気」(1972年6月-1973年1月)のミキシングでは、アビーロードスタジオにはJBL 4320が既に導入されていながら、さらにモノラルチェック用にオーラトーン5cまで持ち込んでいる。様々な意味でプログレの最前線にあったのだが、英国のほとんどの若者が依然としてAMラジオとモノラル卓上プレーヤーで聴いているという実情を、よく呑み込んだ賢い選択ができる人でもあった。同様なことはザ・フーのロジャー・タウンゼントも、自宅の卓上プレイヤーで楽曲をチェックしている。


アビーロードスタジオで「狂気」をミキシング中のアラン・パーソンズ
メインモニターのJBL 4320の他にミキサー中央にモノラルチェック用のオーラトーン5cが置かれる


Auratone 5Cと周波数特性(1970~80年代にAM放送とFM放送のクロスチェックをしてた)

自宅でレコードのチェックをするRoger Daltrey(1960年代後半)

HMV製の電蓄に付属していたEMI 92390型ワイドレンジユニット

さらにモータウンのボブ・オルーソンの証言によると、スタジオのプレイバックはアルテック604Eだったが、多くの東海岸のエンジニアは「本当の音決め」のためにテープを自宅に持って帰り、AR-3aのような家庭用Hi-Fiスピーカーでバランスを取り直していたという。ご存じの通り、AR社のスピーカーは高域を落とした特性を「ノーマル」としており、フラットは高域が過剰なものとしていた。モータウンの編集ルームは、演奏時のコントロールルームとは別室にあり、そこではAR-3aがステレオで、Altec 604Eがモノラルで置いてあった。今でいうマスタリングのはしりのようなものだが、EMIではまだそういうことは行われていなかったと言えるだろう。ちなみに、良く見るとこのAR-3aはウーハーが上側、つまり上下逆さまに置かれており、後のJBL 4310のレイアウトはこれを真似たのではないかと思われる。

1960年代後半のモータウンのミキサー室
Studer C37 8chオープンリールでダビングしながらミックスダウン
両脇に逆さ置きのAR-3a、中央にAltec 604Eモノラル



アコースティック・リサーチ社の東海岸サウンド(高域がロールオフしている)


これらの事実を照らし合わせるなら、1960年代までのステレオ録音では、フラットで広帯域というHi-Fi録音の前提は大きく崩れていることが分かるだろう。これは1970年代半ばにマルチトラック録音が標準化されると、重低音から超高域の再生能力がサウンドステージを立体的に表出する必須条件として加わってくるのだが、実はサウンドステージを取り除けば、普通にモノラルでの試聴に支障はないのだ。考えてみれば当たり前で、コンプレッサーとリバーブをパスすれば、ノイマン製のコンデンサーマイクからテープ録音機まで、1950年代の録音と何ら遜色ないのだ。天ぷらのコロモだけ食べて中身を推定するこが難しいの同じように、素材の本来の味はコロモを剥がしてみると一目瞭然である。


◆ ◆ ◆


デジタル録音は本当にアナログ臭い技術
2020年時点でCDというパッケージメディアも40年の歳月を経ており、新しいフォーマットも生まれそうな感じなのだが、高音質メディアとしてのSACDも、昔のアナログテープのリマスターで効力を発揮して、ロートルなオーディオマニアにはウケが良いが、私個人はCDの44.1kHz/16bitで十分である。しかし、既にCD売り上げはジリ貧で、インターネットでのサブスク音源が次世代のデフォルトになるのだろうが、MP3からDSDまで幅広い音質が存在するため、ソフトとハードの釣り合いがアンバランスなままだ。正直言ってハイレゾ対応のオーディオ機器で1960年代以前の録音というのはノイズを増やす要因でしかない。

そのCD規格なのだが、基本的にはアナログ指向の強いメディアだと認識している。規格としてデジタルだったのは録音機とCDメディアだけで、電気信号の増幅はアナログ方式のまま、マイクやスピーカーという空気振動と電気信号を変換する装置は何も変わっていないからである。その理由は規格を立ち上げる1970年代末の段階で、音楽配信に最も影響のあったメディアはFMラジオであり、50~15,000Hzという1950年代の音声規格のままであるという以外に、2kHz以上から徐々に増えていく三角ノイズ(砂の嵐と呼ばれるもの)で高域が霞んでいくため、CD規格での事前のヒアリングでは、多くの録音エンジニアは15kHz以上は楽音として必要ないという回答だったという。それでも可聴域20kHzにこだわって策定したのが44.1kHz/16bitというフォーマットだった。

B&W実装前後のアビーロードスタジオ(1980年)前面のコンソールはビートルズ解散直後に新調したもの



FM放送時代のモニタースピーカーNHK 2S-305、BBC BC1、JBL 4320(いずれも10kHz以上は曖昧)

ところが初期のCDに使われていたデジタルフィルターは、20kHzまでの信号をギリギリまで伸ばそうとした結果、パルス成分を与えるとプリ&ポストエコーというリンギングを伴う高周波ノイズが付随してくる癖があった。これは楽音とは関係のないギラギラ、ザラザラした音で、パルス音が混み入ってくるに従い増えていく。よくデジタル録音のザラついた音質は、16bitの分解能の限界によりギザギザが出るのだと可視化されているが、事態はもっと醜悪で、ずっとノコギリのようなギザギザが混ざって再生されていたのだ。このデジタルノイズは、FM放送では三角ノイズに阻まれて気にならない音だったのである。

左:1980~90年代に多かったシャープロールオフ・デジタルフィルターのポスト&プリエコー
右:FM放送のプリエンファシス特性(2kHz付近から出力をイコライジングして送信)


これに加えて規格策定時には必要ないと言っていた20kHz周辺の音について、多くのオーディオメーカーは意地でも再生できなければならないとデジタル対応機器にシフトしていき、本当は要らなかったデジタルノイズまで増幅して聴こえるようにしてしまった。アナログレコードの製造をやめた1990年頃には、イギリスを中心にした高級スピーカーが世界中に売られ、20kHzに強いリンギングを起こすハードドーム・ツイーターを搭載して、デジタルノイズの帯域で聴覚を麻痺させる作戦に出るようなった。加えて超重たい低能率なウーハーを使用した結果、小型ブックシェルフでもスピーカーの価格の2倍以上する超弩級アンプでないとスカッピンな音になり、満足な低音が出ないという大飯ぐらいだった。つまり、デジタルっぽいメタリックな音というのは、デジタル録音そのものの音ではなく、アナログ部分で演出された音だったのだ。


1990年代の高級ハードドームツイーターを搭載したスピーカーの周波数特性(20kHz付近に激しいリンギング)
同インパルス応答(左:入力、右:出力):高周波でのリンギングが激しく乗っている


もうひとつのCDがもたらした問題は、携帯CDプレーヤーが広く使われるようになって、電車のなかでシャカシャカ鳴らす人が増えたことである。これは若者に多いと言われたが、根本的には電車内の騒音に負けないサウンドでないと、イヤホンで聴いても詰まらないということになる。


そもそも人間の耳はラウドネス曲線にあるように、生物として中高域に敏感に反応するようにできているのだが、これは外耳の形状からくる共振周波数で、外耳の長さは25mm~30mmとされ、開管(通常の試聴)とした場合の共振周波数は、3kHzと9kHzにピークを生じさせ、この周波数を敏感に聞き取るようになる。これはオープン型ヘッドホンをフラットに再生したときのもので、1995年にはDiffuse Field Equalizationという名称で、国際規格IEC 60268-7とされた。つまり、ダミーヘッドで測定したヘッドホンの特性を、一般の音響と比較する際には、聴覚補正のカーブを規定したのだ。

B&K社のダミーヘッド4128C HATSとDiffuse Field Equalization補正曲線

一方で、これをカナル型イヤホンで耳を閉鎖した場合、外耳の共振は閉管となり、6kHzと12kHzにシフトする。これを1990年代に流行ったインナーイヤ型に置き換えると、耳に堅く押さえつけると閉管、緩く付けると開管ということにな、緩く付けると6kHzが弱く聞こえ、堅く押さえつけると2kHzの音が凹んで聞こえる、という変な現象が起きてしまう。つまり、インナーイヤ型でも良い音で聞こえるためには、3kHzと6kHzをウマく補完するようなトーンが良いことになるのだ。
実はこの特性をもったヘッドホンが、1989年に開発され、日本のスタジオで良く使われていたSONY MDR-CD900STである。モニター用なので、誰もがフラットで正確だと疑わなかったのだが、Diffuse Field補正後では、見事に3kHzと6kHzにディップがあり、これを+6dB持ち上げないとフラットに聞こえない、というギミックな仕掛けのあることが判る。これはSONYの責任というよりは、1995年のDiffuse Fieldが公になる以前の開発であり、聴覚補正なしの生の測定結果をもとにアレンジした結果であると思われる。

左:SONY MDR-CD900STの特性(DF補正後)、右:これを反転させた特性(参考)


一方で、こうしたサウンドの変化がJ-POPに大きな革命をもたらし、いわゆるミリオンセラーのシングル盤が一気に増加した。1980年代が12曲だったのに対し、1990年代には100曲以上のミリオンセラーを連発する黄金時代を迎えたのだ。この時代はバブル崩壊の時期と重なっていたが、それにも負けない「輝き」を、日本の音楽シーンにもたらしたというべきだ。電車のシャカシャカ音をたてる高校生が増えたのもこの時期だった。そして圧倒的に売れる携帯CDプレーヤーの台数と反比例して売れ行きの下がったオーディオ業界の死滅が、音楽業界の衰退より先に訪れたのだ。


これらの要因を加味すると、オーディオ業界がアナログ最盛期の超弩級ステレオ機器から急激に縮小した原因は、多くの人がCDでの音楽鑑賞について、むしろ過大な期待とともに、大きな誤解を生んできたことに気付くだろう。それがオーディオメーカー、レコード業界の双方から発せられたビジネスモデルによるものだということも理解されよう。では、この1990年代のたった10年間に起きたビジネスモデルに添っていない音楽はどうなるのだろう? 実は90%以上の音楽はそんな勝手なルールには添っていないのだ。そして残された歴史的な録音を楽しむ術を正しく伝承していくことが、これからのオーディオ機器には求められるのである。これらの理由により、私は自宅のオーディオ機器の進化を止めてしまったのだ。






【オヤジをときめかせるJensenサウンド】


さて昭和に半分骨をうずめて生きているオヤジにとって音楽とは、ダイレクトに心をゆさぶるサウンドである。古い録音をセピア色に染めるような音ではなく、まさしく半世紀以上も前にマイクで録ったミュージシャンの音を、今この時に実況ライブで聴いているという実態感のあるサウンドである。先にオーディオの歴史は常に発展していると思われているが、実は変わりないのが音楽が人間のコミュニケーションの手段として存在していることである。このため、録音を漠然と聴いているだけでは意志疎通を図ったとは言えない。むしろ、録音に記録されたミュージシャンのパフォーマンスに心躍らせ感動するまでいかなければ、本当の意味でのHi-Fi(高忠実度)な再生とは言えないのだ。

私は40年近くもこの難問にぶち当たり、悩んできたのであるが、ようやく答えらしきものがみえてきた。それはどの時代の録音においても、ミッドセンチュリーのHi-Fi初期のモノラル・オーディオが一番適しているということである。考えてみれば当たり前の話で、録音方式がデジタルになった21世紀に入ってもなお、音楽の録音はマイクとテープ録音機という基本的なものは変わっていないのだ。むしろオーディオ機器のほうが変化が大きいため新旧の録音で違和感が生じるのである。このため私は、自宅でのオーディオ機器の進化をあえて止めてしまったのだ。

50年以上経っても変わらずマイク1本の前に歌声を響かせるのは人間そのものだ

しかし、私が望むモノラル・オーディオというものは既に半世紀以上も前に根絶してしまって、どのオーディオ・メーカーでも現在は製造していない。あっても小型ラジオやモノラルLP用のカートリッジという周辺機器で、一貫したシステムとしてのモノラルは存在しないのだ。オーディオ店に行っても古い録音のCDを持ち出した時点で嫌な顔をされるし、ビンテージ機器の専門店はまともなCDプレイヤーを持っていない。なので、現代のデジタル音源をモノラルで音楽鑑賞するためのオーディオ・システムは、自作も含んで自ら試行錯誤しなければいけないのだ。そして一番の難所はモノラル・スピーカーの構築である。
何よりもステレオがダメなのは、ステレオ・スピーカーで聴くモノラル録音は音が悪すぎる。仮想音像の牢獄に閉じ込められて音が飛び出てこないし、何よりも音色がドンヨリして小康状態になっている。その理由は、ほぼ100%のステレオ・スピーカーがマルチトラック録音で編集された仮想サウンドステージを再生するのに適したデフォルメをしているからである。音場感や定位感を出すためにパルス波に過敏に反応するツイーターを使い、その反面、重低音を出すために重たいコーン紙を足枷にはめた低能率なウーハーなど、肝心なボーカル域を犠牲にする仕組みでがんじがらめになっている。なので、重低音も超高域もない古い録音を聴くと、ボーカル域の反応の悪さが目立ってしまうのだ。
勘違いしやすいのは、それがオーディオ製品の不備であって、録音の不備ではないことだ。「録音が悪い」というは、買いなおしの効きにくいオーディオ機器を擁護するための言い訳でしかない。実際はステレオ機器の設計と録音の仕様が合わないと、同様に音も悪く聞こえるのだ。

◆ ◆ ◆

ということで、録音の新旧に惑わされない汎用性のあるモノラル・オーディオを構築するために、モノラルスピーカーの仕様について考えてみたのだが、個人的には1970年代のモノラル・ラジカセ以上のものが思い当たらない。それでAM放送もFM放送も楽しめたし、洋楽の最新情報はFEN東京の「アメリカントップ40」「ウルフマンジャック」、そして金曜深夜に小林克也さんがパーソネルを務める「ベストヒットUSA」で、いずれもモノラル音声だったが、そこで流れる最新情報は音質など関係なく心に突き刺さってきた。しかし、そこからステレオを買った途端にモノラル音声との相性の悪さに気付いたのだが、とはいえ、レコードやCDを聴くにはステレオ装置でなければ聴けなかったので、ラジオでは聴けない古い録音もステレオ装置で我慢して聴いていたのだが、どこか納得のいかないモヤモヤが残っていた。



少年マンガ誌でたくさん広告は出ていたがお小遣いでは買えなかったラジカセ
1980年代に洋楽の情報が最も豊富だった「ベストヒットUSA」と「ウルフマンジャック」


しかし、AMラジオはともかく、1980年代のテレビはモノラルだったが、あるのはメディアと音響家電の違いだけで、別に違和感なく聴いていた。その秘訣を辿ると、1950年代のウォール・オブ・サウンドに行き着くのだ。

一般にウォール・オブ・サウンドはステレオ録音の一大流派と見なされているが、エコーをたっぷり利かせて広がりのある音場感を出すとか、サウンドが壁一面にマッシブにそそり立つとか、色々と言葉のイメージだけが先走っているが、実は当人のフィル・スペクターは、1990年代に入って自身のサウンドを総括して「Back to MONO」という4枚組アルバムを発表しモノラル録音へのカミングアウトを果たした。実はウォール・オブ・サウンドの創生期だった1960年代は、モノラルミックスが主流で、これに続いて、ビートルズのモノアルバムが発売されるようになり、その後のブリティッシュ・ロックのリイシューの方向性も定まるようになる。さらに言えば「少年少女のためのワーグナー風ポケット・シンフォニー」という表現も、当時の若者で流行していた携帯ラジオでも立派に鳴る録音ということであり、1960年代の少年少女たちは電池駆動できるトランジスターラジオを、トランシーバーのように耳に充てて聴いていた。ウォール・オブ・サウンドを立派なステレオでこそ真価が発揮できるなんて言うひとは大きな勘違いである。

初期のトランジスターラジオの聞き方はトランシーバーのように耳にあててた(ヘッドホンへと発展?)

これがどう1980年代とつながるかというと、電波で流れる音楽上の骨格は1960年代のトランジスターラジオとほとんど変わっていないのだ。その証拠に1980年代のヒット曲はテレビCMで聴くのがまず最初であり、さらにヒットした後にFMラジオでフルコーラスを聴くという順序だった(多くのニューミュージック系のシンガーソングライターはテレビ出演を断っていた)。アメリカではMTVだったものが、日本ではテレビCMという立て付けになるのだが、これらは短いサビの部分だけだったにせよ、小さいブラウン管テレビに付属しているモノラルスピーカーからでも立派に聴こえていたのである。これが偽物だとか、古い規格だとか文句を言う人などいなかったのは、不思議といえば不思議だが、テレビという媒体は常に事実に基づいているという信心あってのものだといえる。逆に、この報道性という常にアップデートされる音楽シーンから切り離して音楽を評価しようとすると、途端にボキャブラリーが貧しくなっていく。この歴史評価の壁を突き抜けるのが、流行の変化が激しいステレオ装置では難しいのだ。


いわゆる卓上型テレビ。スピーカーはチャンネル下に申し訳なさそうに収まっていた

ヒットソングを送り出すために、録音スタジオでいかにテレビ音声にキャッチアップするのに心配りしていたかということは、当時スタジオで定番のサブモニターだったオーラトーン5cの特性をみると判る。規格上は50~18,000Hzだったが、実効では150~8,000Hzであり、それでもキャッチーなサウンドを保持し、バランスの崩れないミックスが必須だった。現在でも1980年代のギガヒットとして歴史に名を残すマイケル・ジャクソン「スリラー」でさえ、オーラトーン5cでバランスを整えた結果MTVでの成功につながった。CD規格の前のヒアリングでも、15kHz以上の周波数は楽音として必要ないというのが、大半の録音エンジニアの意見だった。CDが規格化される時点で、まさか20kHzに溜まるデジタルノイズがこれほど問題になるとは誰も心に留めていなかったのだ。

Auratone 5Cと周波数特性(AM放送とFM放送のクロスチェックをしてた)


こうした予備知識をもとにラジカセを租借吟味すると、ラジカセのスピーカーはAM放送とFM放送とのコンパチ仕様のため、ウーハーは単独でAM放送の音声100~6,000Hzを再生できるエクステンデッドレンジ・スピーカーを使っており、ツイーターはその上の8~15kHzを受け持っているに過ぎなかったのだ。これは大型ステレオラジカセでも同様で、ラジカセの広告を見ても「うなる重低音、さえわたる高音」なんて宣伝文句に踊らされていたのが実に惜しい。実際にこの組み合わせは、1950年代に真空管FMラジオが生まれた頃からの仕様で、家電製品では当たり前の伝統芸でもあったのだ。


1970年代の日本のFMラジカセの周波数特性(基本はAMラジオ音声)とNYラッパーの必需品


1980年代初頭のバブルラジカセだって中身はこの通りだが、ストリート音楽はここから派生した

では、このエクステンデッドレンジ・スピーカーをグレードアップさせたオーディオ機器は本当に存在したのかというと、実は1940年代末にSP盤からLP盤に入れ替わる過度期に、JBL D130をはじめ多くのユニットが存在していたのだ。ただし、30cmを超える大口径なのに100Hz以下はロールオフするし、20cmフルレンジのように高域も伸びてない、中途半端な規格として、1950年代末にはHi-Fiオーディオ用としては新しく開発されなくなっていった。つまりラジカセを造ったオーディオ技術のバックボーンは、進化したステレオの系統ではなく、退化していった系統に属するのだ。


1950年代を彩る歴代エクステンデッドレンジ・スピーカー

では、これらの大口径エクステンデッドレンジはどこで使われていたかというと、エレキギターのアンプだとか、アセテート盤録音機や移動式映画館の拡声器だとか、業務用の音響機器が中心であったが、一番使われたのは同じ業務用でもレストランやバーのような商業施設でお馴染みのジュークボックスである。そのジュークボックスで最もシェアを誇っていたのが、JBLやAltecではなく、Jensen社の12インチユニットである。これは現在、ギターアンプ用ユニットして製造されているが、間違いなくモノラル時代のジュークボックスのレジェンドである。それは往年のロックスターたちもリスペクトする音響機器として優秀な機能性をもっていたのであって、ラジカセからステレオ装置に移行する前に購入を検討すべきオーディオ機器の筆頭だったのだ。しかしスピーカーの構成をみると、当時から見てもHi-Fi理論から免脱するギミックな組み合わせである。これはジュークボックスを置く商業店舗での効果的なサウンドを各メーカーが目指した結果であり、無響室での測定で決めたスペックに沿っていないことは注目すべきだと思う。


Rock-ola TempoII Seeburg KD Wurlitzer 2500
mid:2x12inch Jensen
high:1xHorn Jensen
low:2x12inch Jensen Utah
high:2x8inch Jensen Utah
mid:1x12inch Jensen
low:1x12inch Magnavox
high:1x7inch Magnavox


大物ミュージシャンがリスペクトしてやまないモノラル界のゴッドファーザー


以上のエクステンデッドレンジ・スピーカーで奏でられた100~8,000Hzのサウンド、つまりAMラジオ、ラジカセ、ジュークボックスという系統をみると、それが一貫した血族で結びあわされていることに気が付くであろう。それは録音規格のすげ替えではなく、単純に音響性能をグレードアップさせる方法だったのだ。つまり、従来は蓄音機、ラジオ電蓄、ステレオ、携帯プレーヤーというふうにパラダイムシフトしながら買い換えていたオーディオ進化論は、単なる潰しあいの戦国時代を業界全体の戦略として演出しているに過ぎなかったのだ。その被害は旧時代のミュージシャンやエンジニアに向けられているのである。

時代に関係なくシチュエーションに合わせ音響規模を変化させる本来のオーディオ機器

時代を経て変化する音響機器と変わらぬ女性の魅力

◆ ◆ ◆

ちなみに私がJensen C12Rを中心に組んだモノラルシステムは、1960年代初頭に製造されていたジュークボックス Rock-ola Capriを参考にしている。それまで使用していたホーンツイーターからコーツイーターに置き換わったタイプで、この後Jensen社がスピーカー事業から撤退したため、これがJensenスピーカーを使った最後のモデルとなった。現在ギターアンプ用として売られているJensen エクステンデッドレンジ・スピーカーは、イタリアのSica社のライセンス製造である。このため新品で安価に手に入る希少な大口径フィックスドエッジ・スピーカーということになる。


私の組んだモノラル・システム




1960年代初頭のジュークボックスRock-ola Capri (Jensen C12R+コーンツイーター)
左:ジュークボックスと一緒にポーズをとるレイ・ディヴィス(キンクス)(1984)
右:マイク・マックギア(ポール・マッカートニーの弟)(1974)


Jensen C12Rのような大口径フィックスドエッジ・スピーカーの叩き出す音が凄い理由について述べると、30~38cmの大口径にも関わらず、ともかく波形の繰り出しと引き際が非常に鋭いのだ。これは後面開放箱に入れることで空気抵抗がなく軽いという以外に、フィックスドエッジが機械バネの役割を果たし、インパルス応答もストンと落ちていくのだ。通常のウーハーはこれと違って、バスレフ箱でドーンと余韻が残るし、それ以前に出音がツイーターより数ms出遅れるのが普通だ。これは重低音に足元を引きずられて、砂に埋もれたように足並みが重たくなっているのだ。その代わり、Jensen C12Rの周波数特性はカマボコ型であるのだが、200Hz辺りの中低域から即応する躍動感は、疑いなくスピーカーにも筋力というものがあるのだと信じさせるに足るものである。

インパルス応答もストンと落ちるJensen C12Rの波形再生能力

現在では希少な大口径フィックスドエッジ・スピーカーJensen C12R

裏蓋を取って後面解放!

しかし、1940年代のフィックスドエッジ・スピーカーが、なぜにこれほどまでに古い音楽を狂おしく鳴らせるのか? それは生まれ落ちたときからその運命にあったのだといえよう。当時はスウィングジャズ全盛期で、JensenのPAスピーカーは、ボーカルやギターがジャズオーケストラのホーンやドラムに負けないように、俊敏にマイクの音を拡声する使命のもと開発されたのだ。今となっては100~8,000Hzという高域も低音も出ない中途半端な仕様のように思うだろうが、これこそ音楽を拡声する本質的な機能を有していたと言えるのだ。その後にJensen社の工場があったシカゴからはエレキ化されたシカゴブルースが生まれ、ロックへと広がっていったのは知られる通りである。

初期のPAはジャズオーケストラに混ざってボーカルやギターの拡声に使用された(1940年代)


ストリートからコンサートホールまで、1960年代までのライブのPAはギターアンプのみが主流

Jensenのエクステンデッドレンジ・スピーカーはその再生能力が買われて、1950年代のジュークボックスで採用されたのだが、ジュークボックスはレコードチェンジャーが主要な機能であるためか、その音響的な機能性について知る人はほとんどいなかった。オーディオ業界ではむしろ亜流と見なされたのだ。しかし、デジタル時代に本当に必要だったのは、広帯域でフラットな再生能力ではなく、マイクの音をそのままステージで拡声するPAスピーカーの機能性だったのだ。その過度特性はまさにデジタルを凌駕するものである。あらためて生音と互角に対決した原初的なPAシステムに注目してみてはどうだろうか?




【21世紀にモノラルを美味しく戴く】


上記のような、古ぼけた仕様のモノラル・システムで何を聴くの? これは当然な疑問である。しかし答えは「あらゆる音楽」である。そのためには、多少のは自分の好みに合わせた味付けをしてあげたほうがいい。
まず断っておきたいのは、私はCDでしか音楽を聴いていない。それ以前に持っていたレコードもカセットテープもやめてしまった。このため以下は、デジタル世代における20世紀の録音アーカイブの取扱説明書と言っていいだろう。

◆ ◆ ◆


世の中
にあってモノラル録音よりもステレオ録音のほうが圧倒的に多いのに、モノラルでの試聴を勧めることを不思議に思う人も多いだろうが、実は私はステレオ録音をミキサーでモノラルにミックスしなおして聴いている。
ステレオ信号のモノラル合成の仕方は様々で、一番単純なのが2chを並行に結線して1chにまとめるもので、一般的には良く行われてきた。しかし、この方法の欠点は、ホールトーンの逆相成分がゴッソリ打ち消されることで、高域の不足した潤いのない音になる。多くのモノラル試聴への悪評は、むしろステレオ録音をモノラルで聴くときの、残響成分の劣化による。
次に大型モノラル・システムを構築しているビンテージ・オーディオ愛好家に人気があるのが、プッシュプル分割トランスを逆に接続して、2chをまとめる手法で、巻き線の誤差のあたりが良い塩梅におさまると、まろやかなモノラルにできあがる。しかし、これもプッシュプル分割用トランス自体が戦前に遡る古い物しかなく、そのコンディションもまちまちで、当たりクジを引くまで1台5~10万円もするトランスを取っ換え引っ換えしなければならず、普通の人にはお勧めできない。
最後に私が実践しているのは、ミキサーの2chの高域成分をイコライザーで互い違いにレベル差を出して合成することで、昔の疑似ステレオの逆をいくやり方である。逆疑似ステレオ合成方式とでも名付けておこう。これだと情報量が過不足なくまとまって、高域の潤いも失われない。

ところが、モノラルからデジタルへと4~5世代の幅広い時代の録音のサウンドが百花繚乱にブレるのは、周波数特性がフラットなスピーカーで聴くとそうなのであって、2kHz以上の高域が-3dB/octでロールオフする特性で聴くと、時代毎のサウンドポリシーの違いはそれほど顕著ではなくなる。え?!と思うだろうが、実はコンサートホールの響きがそうなのである。ここでトリビアが発生するのであるが、昔から録音の基準はフラットに万遍なく楽音を収録する(つまりマイクの音をストレートに収める)ことにあるのだが、再生側ではコンサートホールと同じく高域がロールオフするように設定しなければ、正しいバランスで鳴らないことになる。このことは当時よく行われたレコードコンサートを思い浮かべると判るのだが、レコードの音がフラットに調整されていても全体の響きはロールオフしていることとなる。なので狭い部屋でも試聴位置では高域がロールオフしてないと具合が悪いのだ。そのかわりに、ダイムコヒレント特性は綺麗な1波形に整うことで、音の遠近感を伴う時系列的な錯誤が起こらない。


コンサートホールの周波数特性の調査結果(Patynen, Tervo, Lokki, 2013)

左:自宅のモノラルシステム全体の周波数特性(試聴位置でコンサートホールの響きに近似)
右:インパルス応答(出音が綺麗な1波形に整っている)


私はステレオもモノラルで聴くためにミキサーを噛ましている。ヤマハの卓上ミキサーMG10XUは、カラオケ大会でも使える簡易PA用だが、心臓部となるオペアンプは自家製チップを使いノイズレベルが低く音調がマットで落ち着いてるし、3バンド・イコライザー、デジタル・リバーブまで付いたオールインワンのサウンドコントローラーである。ヤマハのデジタル・リバーブは24bit換算の精緻なもので、リマスター時点でかけて16bitに落とすよりずっと自然なニュアンスで艶や音場感を調整できる。

ヤマハの簡易ミキサーに付属しているデジタルリバーブ(註釈は個人的な感想)

MG10XUのデジタル・リバーブは、世界中の音楽ホールの響きをを長く研究してきたヤマハならではの見立てで、簡易とは言いながら24bit処理で昔の8bitに比べて雲泥の差があるし、思ったより高品位で気に入っている。リバーブというとエコーと勘違いする人が多いのだが、リバーブは高域に艶や潤いを与えると考えたほうが妥当で、EMT社のプレートリバーブ(鉄板エコー)は1970年代以降の録音には必ずと言っていいほど使われていた。残響時間とドライ・ウェットの調整(大概が30~40%の間で収まる)ができるので、録音状態に合わせてチョちょっといじるだけで聴き映えが変わる。
1番目のホール・リバーブNo.1は、アメリカンなマットなテープ録音の雰囲気をもった音色で、よりシリアスでマッシブな力感を出したいとき、低域のリズム感を犠牲にすることなくニュートラルに整えることができる。
2番目のホール・リバーブNo.2は、ヨーロピアンな艶やかさと潤いのある音色が特徴で、クラシックなどで音がソリッド過ぎると思ったときに掛けると、雰囲気良くまとまる。
実はこれらのリバーブの後段にローファイなサンスイトランスを噛ましているのがミソで、ちょうどリバーブと磁気飽和したときの高次歪みがうまいことミックスされることで、楽音とタイミングのあった倍音が綺麗に出てくる。正確な再生というよりは、楽器のような鳴らし方が特徴的だ。

ちなみにジュークボックスにリバーブを入れた例にはRock-ola社のRiverba Soundがあり、正体はギターアンプにも使われているスプリング・リバーブである。これはまだステレオ盤自体が珍しかった1960年代初頭に、モノラルでもそれらしく音の広がりを演出するために、リバーブ・ユニットを後付けできるようになっていた。原音主義とは大きく隔たった実用主義がロカビリーとR&Bを牽引していたのだ。

1960年頃からRock-olaのジュークボックスに取り付けられたReverba Soundユニット


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さて、ある程度味付けの練習が終わったら、100年に渡る時空を超えた音楽の旅に出かけよう。これだけ広い録音方式であるにも関わらず、聴こえるのはミュージシャンの情熱そのものである。
ちなみに私はオーディオ優秀録音でよく取り上げられる、モノラル時代のモダンジャズと、マルチトラック録音のクラシックはあまり聴かない。それ用のオーディオセットはプレミア価格で世間で幅を効かせているからだが、逆にそれ用ではニュートラルに聴こえない録音が80%ほど占めているのだ。どっちを選ぶかは自明であり、以下はその愛聴盤の一端である。
デジタル時代に入り、録音方式の違いを超えてデジタルアーカイブ化が進んでいるが、SP盤は金属原盤に遡ってデジタルリマスターされ、デジタル録音は真空管機材を併用するなど、録音スタジオの中では各々の良い部分をハイブリッドに織り交ぜる多様性が生まれてきている。ユーザー側のHi-Fiオーディオにおいても、そうした折衷的なスタイルの取り組みがあって当然であるが、ピュア・オーディオによくある原音主義がジャマをしている。素直に音楽に耳を傾ければ、その当たり前が理解できるものと思うのだ。

SP盤・アセテート盤の復刻 (1925-50)
1925年に開始された電気録音だが、音声の編集などできないダイレクトカット、一発勝負の演奏である。長時間の録音が可能になったのは、1934年に米プレスト社が開発したアセテート盤録音機で、欧米諸国のラジオ局ではほぼ標準の仕様となり、1950年代半ばまで使用された。従来の復刻盤は、針音の多いシェラック盤が主流だったが、最近では金属原盤まで遡ってリマスターされたものも出てきて、1950年代の録音と遜色のないHi-Fiな音で聴けるものも増えている。
私の愛聴盤は、アコースティック楽器によるジャズとブルース、流行歌にまぎれたジャズ歌謡、それとクラシックの演奏史で古典として残したい録音である。
ジャンゴ・ラインハルト/初期録音集(1934~39)

ジャズ・ギターの分野では知らぬ人のいないミュージシャンだが、初期にホーンやドラムを使わないストリングだけのフランス・ホット・ファイヴを組んで、欧米各地を旅して演奏していた。フランス系ロマ人という民族的背景をもつ理由からか、神出鬼没のようなところがあり、録音場所もフランス、イギリス、アメリカと多岐に渡り、なかなかディスコグラフィの整理が難しいミュージシャンの一人ともいえる。これまでも最晩年にローマでアセテート盤に吹き込まれたRCA盤「ジャンゴロジー」でわずかに知られるのみでなかなか復刻が進まなかったが、この英JSPの復刻CDは、音質も曲数もとても充実しており、スウィングジャズ全盛の時代にギターセッションを浸透させた天才ギタリストの魅力を十二分に伝えている。
Good time Blues(1930~41)

戦前のジャグ・バンドを中心に、大恐慌を境に南部からシカゴへと移動をはじめた時期のジューク・ジョイント(黒人の盛り場)での陽気な楽曲を集めたもの。バケツに弦を張ったベース、洗濯板を打楽器に、水差しをカズーにしたりと、そこら辺にあるものを何でも楽器にしては、大恐慌を乗り越えようとたくましく生きた時代の記録だ。よくブルースがロックの生みの親のような言い方がされるが、ロカビリーの陽気さはジャグ・バンドから引き継いでいるように思える。ソニーが1988年に米コロムビアを吸収合併した後に、文化事業も兼ねてOkeh、Vocalionレコードを中心にアメリカ音楽のアーカイヴを良質な復刻でCD化したシリーズの一枚。
歌うエノケン大全集(1936~41)

浅草でジャズを取り入れた喜歌劇を専門とする劇団「ピエル・ブリヤント」の記録である。この頃はカジノ・フォーリーを脱退後、松竹座に場所を移して、舞台に映画にと一番油の乗っていた時期となる。映画出演の多かったエノケンなので、SP盤への録音集はほとんど顧みられなかったが、こうして聴くとちゃんと筋立てのしっかりしたミュージカルになっていることが判る。「またカフェーか喫茶店の女のところで粘ってやがんな…近頃の若けぇもんときた日にゃ浮ついてばかりいやがって…」とか、電話でデレデレする恋人たちの会話を演じた「恋は電話で」など、時事の話題も事欠かないのがモダンたる由縁である。録音が1936年以降なので、「ダイナ」や「ミュージック・ゴーズ・ラウンド」の最新のジャズナンバーのダジャレを交えた替え歌(サトウハチロー作詞)が収録されているのもご愛敬。
シナトラ・ウィズ・ドーシー/初期ヒットソング集(1940~42)

「マイウェイおじさん」として壮年期にポップス・スタンダードの代名詞となったフランク・シナトラが、若かりし頃にトミー・ドーシー楽団と共演した戦中かのSP盤を集成したもので、RCAがソニー(旧コロンビア)と同じ釜の飯を喰うようになってシナジー効果のでた復刻品質を誇る。娘のナンシー・シナトラが序文を寄せているように、特別なエフェクトやオーバーダブを施さず「まるでライブ演奏を聴くように」当時鳴っていた音そのままに復活したと大絶賛である。有名な歌手だけに状態の良いオリジナルSP盤を集めるなど個人ではほぼ不可能だが、こうして満を持して世に出たのは食わず嫌いも良いところだろう。しかしシナトラの何でもない歌い出しでも放つ色気のすごさは、女学生のアイドルという異名をもった若いこの時期だけのものである。個人的には1980年代のデヴィッド・ボウイに似ていなくもないと思うが、時代の差があっても変わらぬ男の色香を存分に放つ。
マーラー交響曲4番/メンゲルベルク&ACO管(1939)

むせかえるロマン主義的な演奏で知られるメンゲルベルクの演奏でも、特に個性的なのがこのライブ録音で、フィリップスから1962年にオランダとアメリカでLP盤が出たものの、1960年代のマーラー・ブーム以降は急速に忘れられていった。
一方でメンゲルベルクはマーラーが生前最も信頼していた指揮者で、4~7番は総譜の校正を共同で行ったり、同じ曲を2人で午前と午後で分けて演奏して互いの解釈を聴き比べたという逸話も残っている。おそらくマーラーの死後に全曲演奏会を遂行した最初の指揮者だったかもしれず、1904~40年までに約500回もマーラー作品を演奏したという記録が残っている。
個人的にはこの手の録音でもFM放送並の音質で鳴らせるようになったため、むしろコンセルトヘボウの木質の響きに年季の入ったニスのような艶やかさがあり、アールヌーボーのガラス細工を見るようなモチーフをデフォルメした造形性もあり、総じて世紀末の象徴派絵画のような表現様式を色濃く残しているように感じる。その作り物めいた雰囲気は、ブリューゲルの「怠け者のの天国」に見るような、この世で思い描く楽園の虚構性も突いていて、中々に辛辣な一面も持っていると思うのだ。
ロジンスキ/クリーヴランド管 コロンビア録音集

コロンビアレコードがソニー傘下にはいって、一番幸福だと思えるのが古い録音のデジタル・アーカイヴである。詳細は分からないが金属原盤から復刻したと思わしき鮮明な音で、本当に1940年代初頭の録音なのかと思うほどである。しかしLPでもあまり出回らなかったマイナーなアーチストを丁寧に掘り起こし、文字だけなら数行で終わるようなクリーヴランド管の原点ともいうべき事件に出会ったかのような驚きがある。録音として優秀なのは「シェヘラザード」だが、個人的に目当てだったのは初演者クラスナーとのベルクVn協奏曲で、英BBCでのウェーベルンとの共演では判りづらかったディテールが、最良のかたちで蘇ったというべきだ。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集/ケンプ(1951, 56)

ケンプの弾くベートーヴェンで有名なのはファンタジーの表出に秀でたステレオ録音のほうだが、ここでは戦前のベルリン楽派の強固な造形性を代表する演奏としてモノラル録音のほうを挙げる。ほとんどの録音年が1951年というのが微妙で、この時期に生じたSP盤からLPへの切り替えに遭遇して、やや不利な立場にあるように思う。人によってはベーゼンドルファーの音色だからくすんでいるとか、色々な憶測が立っているが、ハノーファースタジオなのでハンブルク・スタインウェイだろうと思う。セッションもコンサートホールのように開かれた音響ではなく、むしろ書斎で小説を読むような思索的な表現が目立つが、最近になってモノラル録音の再生環境が整ってきたので、この録音が室内楽的な精緻さをもつ点で、ポリーニに負けないスタイリッシュな演奏であることがようやく理解できるようになった。例えばブレンデルが評したように、当時のケンプはブレンデルがコメントしたように「リストの『小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ』をミスタッチなしで録音することに成功した最初のピアニスト」という新即物主義の筆頭でもあったのだ。逆の見方をすれば、ここでやり尽くすことはやり尽くしたので、後年のロマン派風情にシフトしたのかと思うくらいである。
磁気テープによるモノラル録音 (1950-65)
磁気テープによる録音は、1940年末にドイツのAEG社が開発したマグネトフォン録音機により始まったが、ノイマン製のコンデンサーマイクと共に欧米諸国に行き渡ったのは1950年代に入ってからのことである。途中で遮ることなく録音でき、さらにテープカットによる編集も容易ということで、クラシック、モダンジャズなど長尺の楽曲で早くから使用されるようになった。一方で、ポップスでは1960年代後半までモノラル録音がデフォルトであったが、そのことが明らかになったのは21世紀に入ってからのことである。逆に言えば、それまでモノラル録音をまじめに再生しようとする方法がポップスにはなかったことになる。
私の愛聴盤は、クラシックでもモノラルに向かないと言われるオーケストラ作品の名録音、作曲家と親密な関係にあった演奏、それとロカビリーを中心としたポップスの数々である。ジュークボックスを手本とした私のモノラル・システムなら、本来はロカビリーと日本の流行歌がストライクゾーンなのであるが、べつに暴投した球でも何となくヒットに持って行ってしまうのが強味だと思っている。
ベートーヴェン「田園」/フルトヴェングラーVPO(1952)

戦前は運命と悲愴のみで知られた指揮者だったフルトヴェングラーも、戦後に行われたこのVPOとの全集チクルス(2,8番が未収録)によって、一気にベートーヴェン解釈のランドマークへと評価が変わった。英雄と第七、第九は言わずと知れたロマン派解釈の到達点で、フルトヴェングラーの代表盤でもある。
その一方であまり人気のない田園を選んだのは、まさしくこれこそ「ウィーン・フィルの田園」と呼べる特質を備えている美演だと信じて疑わないからだ。おそらくシャルクやクリップスのような生粋のウィーンっ子が振っても同じような結果になったであろうと思われるが、フルトヴェングラーが無作為の作為でそれを良しとしたことが重要なような気がする。一般的には、ワルターやベーム、あるいはE.クライバーのほうに、より能動的な造形の方向性が見出せるだろうが、そうではない純粋な血筋のみがもつ自然な情感がこの録音には横溢しているのだ。フルトヴェングラーが戦時中も必死になって護りたかったものが何かということの答えのひとつかもしれない。
チャイコフスキーSym.4&6、ドヴォルザーク チェロ協奏曲、シューマンSym.4/アーベントロート ライプチヒ放送響(1949-56)

このCDの収録順序で、ドヴォコン、チャイコ4と、アーベントロートの演奏のなかではややマイナーな楽曲を先に選んでいるが、それは今回のリマスターのなかで発掘された成果であることは間違いない。それは冷戦における不遇を嘆くような暗雲立ち込めるようなものではなく、むしろライプチヒ放送響がバイエルン放送響やケルン放送響と並ぶか、それ以上のヴィルトゥオーゾ・オーケストラとしての側面を十全に発揮しているからだ。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、これまた渋いヘルシャーを迎えての純ドイツ産のカッチリした演奏だと予想したが、もちろんボヘミアの郷愁なんてものはないものの、戦略を練ったうえで大きく到着点を見据えた流麗なメロディーの扱いに加え、重い甲冑を着てなお衰えない突進力というべきその勢いに終始圧される感じだ。東ドイツのオケだから渋いという思い込みはさっさと捨てて、演奏そのものに集中して聴くべきである。
チャイコフスキー4番では、アレグロに移ったときにテンポを落とさずなんて安全運転をせずに、さらにアクセルを踏んで畳み掛けるギリギリのラインを攻めてくる。それがラプソディー風のこの楽曲の本質をとらえているのだからやはり只者ではない。マーラーの世紀を乗り越えた今だからこそ聴くべき演奏である。
ブラームス:P協奏曲1番/バックハウス&ベーム VPO(1953)

同じウィーンフィルのデッカ録音でも、ワルターやC.クラウスなどと比べてみると、指揮者に要求に応えるウィーンフィルの柔軟性がよく判ると思う。ベームとのブラームスはグラモフォンでの協奏曲2番の録音が有名だが、ここでの筋肉質で柔軟な音楽運びは、働き盛りのベームの姿が刻印されている。同様のインテンポながらきっちり楷書で決めた交響曲3番も結構好きだが、負けず劣らずシンフォニックなのにピアノとのバランスが難しいピアノ協奏曲1番での中身のぎっしり詰まったボリューム感がたまらない。
バックハウスもステレオ収録の協奏曲2番が唯一無二の演奏のように崇められるが、賢明にもルービンシュタイン&メータ盤の枯山水のようになることは避けたと思われる。この楽曲自体がブレンデルをして、リストの弟子たちが広めたと断言するほど真のヴィルトゥオーゾを要求するし、バックハウスもまたその位牌を引き継ぐ思い入れの深い演奏と感じられる。
蛇足ながら、このCDも鳴らしにくい録音のひとつで、SACDにもならず千円ポッキリのバジェットプライスゆえの低い評価がずっとつきまとっている。一方で、こうした録音を地に足のついた音で響かせ、なおかつ躍動的に再生するのが、モノラル機器の本来の目標でもある。ただドイツ的という以上のバランス感覚で調整してみることを勧める。
モーツァルトP協奏曲9番&23番/ハスキル&ザッヒャー

まるで天使の奏でるハープのように軽やかで天衣無為な指使いが特徴の聖女ハスキルの名演である。唯一のステレオ録音となったマルケヴィッチ盤のほうが有名だが、このモノラルでのセッションも捨てがたい。ザッヒャーの小回りの利く指揮ぶりが効を奏して、そして何よりもウィーン響のギャラントな風情が作品にぴったり寄り添っている。
ウィーン・コンチェルトハウスSQ:ハイドン四重奏曲集(1957~59)

録音は良くないのになぜか惹かれて聴き続けている録音である。墺プライザーはORF(オーストリア放送協会)のアルヒーフをほぼ独占的に販売してきた実績がある一方で、今でもモニター環境にアルテック604Eをはじめヴィンテージ機材を用いており、結果的には高域の丸いカマボコ型のサウンドをずっとリリースし続けている。これもオーディオ環境をモノラル録音用に見直すことで、ベコベコの輸入LPをせっせこ集めていた時代を思い起こさせる艶やかな音が再現できた。この四重奏団の録音は米ウェストミンスターでの鮮明な録音のほうが知られ、墺プライザーのほうは再発されないまま記憶のかなたにあるものの、ウェストミンスター盤が余所行きのスーツケースを担いだビジネスマン風だとすれば、プライザー盤は地場のワインを片手に田舎の郷土料理を嗜んでいるようなリラックスした風情がある。もともとウィーンの甘いショコラのようなポルタメントが魅力の演奏だが、同郷のよしみのような息の合った機能性も兼ね備えた点がなければ、ハイドンらしい襟を正したユーモアは伝わりにくかっただろう。
ラフマニノフ:交響曲2番/オーマンディ&フィラデルフィア管(1951)

作曲家から絶大な信頼を得ていたオーマンディならではの王道をゆく演奏で、まだマイナーだった楽曲を真正面から突破しようとする気概に溢れた演奏である。作曲当時はシベリウスよりもずっと評価の高かった楽曲だが、重度のトラウマを乗り越えてゆく自叙伝的な趣もあり、それが世紀末を越えた観衆の心に響いたのかもしれない。やはりマーラーと同じ時代の産物なのだ。一方で、1950年代のアメリカは世界中の経済を一手に収めた黄金期にあり、こうしたノスタルジックな楽曲がそのまま受け入れられるわけもなく、オーマンディ盤もいちよ作曲家に直談判したうえで、カットした改訂版を収録している。しかしこの演奏の奥深さは、着の身着のままで亡命してきた移民たちを援助し続けてきた、ラフマニノフの深い愛情を知る人たちによる、作曲から半世紀後に描いた新たなポートレイトのように思える。人生の成功ばかりを讃えるのではない、この楽曲の面白さを伝える点で、ターニングポイントとなっているように思える。
パーシー・グレインジャー:グリーグ没後50周年演奏会(1957)

ドイツと隣国のデンマークでもほぼ同じ時期にFM放送が導入されたが、録音技術も一緒にドイツから導入したと考えるのが妥当である。オーストラリアの国民楽派、と言ってもイギリス民謡を愛した牛糞派に属するパーシー・グレインジャーだが、ピアノのヴィルトゥオーゾとしても一角の名を残す人で、ここではゲスト出演してグリーグのピアノ協奏曲と自作を披露している。最晩年のグリーグと面会し、以後の作曲活動について方向性を決めたほどの影響を受けたというので、実はグレインジャーにとってもグリーグとの出会いの50周年記念なのである。グリーグの協奏曲では、初っ端から壮大なミスタッチで始まるが、そんなことは些細なことと何食わぬ顔で豪快に弾き切り、どのフレーズを切り取っても絶妙なテンポルバートで激情をもって高揚感を作るところは、19世紀のサロン文化をそのまま時間を止めたかのように、自身の内に大切に取って置いた生き様と関連があるように思える。後半の茶目っ気たっぷりの自作自演は、カントリーマンとしての誇りというべき余裕のあるステージマナーの一環を観る感じだ。
ショスタコーヴィチ&プロコフィエフ チェロ・ソナタ
ロストロポーヴィチ/作曲家&リヒテル(1956)

ショスタコーヴィチは28歳のときの若い頃の、プロコフィエフは59歳の晩年の作品で、どちらもソ連を代表する作曲家の比較的マイナーな曲だが、純粋な器楽曲としてよくまとめられた内容をもっている。ともかくショスタコーヴィチの透徹したピアノ伴奏が作品のモダニズムをうまく表出しており、限られた構成でもシンフォニックな味わいと陰鬱な感情とのバランスが完璧に取れている。プロコフィエフのほうは、童話を孫に読んできかせるような優しい表情が印象的で、雪解け期の情況を反映しているように思える。昔に海賊盤LPで聴いて印象に残ってた録音だが、1990年に正規盤としてCDで出たのを購入したが音質の差は歴然としている。
バルトーク「管弦楽のための協奏曲」/フリッチャイ RIAS響(1957,53)

初演がアメリカの作品だけあって、同じハンガリー系のライナーやショルティがシカゴ響を振ったステレオでの名演が続く本作のなかにあって、ドイツ系オケを振ったこの録音は長らく忘れられた存在だった。しかし最終楽章の筋肉質な機能性を聴くと、マッシブな響きや正確なパッセージだけでは語り尽くせない、もっと根源的なバーバリズムの血沸き肉躍る饗宴が繰り広げられる。低弦のリズムのアクセントがきっちり出ないと、この面白さは判りづらい。
ストラヴィンスキー自作自演集(1954-55)

晩年の隠居先にしたヴェネチアとほど近い、スイス・イタリア語放送局に招かれての自作自演プログラム。戦後に世界中を駆け巡り、老年になっても録音機会の多かった作曲家だが、3大バレエばかり選ばれる大舞台とは違い、ここでは中期の新古典主義の作品をまとめて演奏している。リハーサルではフランス語を使いながら、アクセントを丁寧に指示しつつ、自らの音楽言語を組み上げていく様が聴かれる。結果は、イタリアらしい晴れ晴れとした色彩感のあるアンサンブルで、ブラックの静物画のように、デフォルメを巧く使ったキュビズムにも通底する、明瞭なフォルムが提示される。これはアメリカでの緑青色の冷たい雰囲気とは全く異なるものだ。招待演奏のときのような燕尾服ではなく、ベレー帽を被る老匠の写真は、どことなくピカソに似ていて微笑ましい。
ジョン・ケージ:25周年記念公演(1958)

ジョン・ケージ45歳のときにニューヨークの公会堂で開かれた、作曲活動25周年記念コンサートのライブ録音。友人で画家のジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグらが企画したという、筋金入りのケージ作品だけのコンサートだった。さすがに4'33"は収録されいないが、ファースト・コンストラクションIII(メタル)、プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュードなど、楽器構成に隔たりなく前期の作品がバランスよく配置されたプログラムである。公会堂でのコンサートは夜8:40から開始されたにも関わらず、聴衆のものすごい熱気に包まれた様相が伝わり、当時の前衛芸術に対するアグレッシブな一面が伺えて興味深い。
エラ&ルイ(1956)

言わずと知れたジャズシンガーの鏡のような存在で、スタンダード中のスタンダードである。これで変な音が鳴るなんてことはまずない。ひねくれた録音を好む私も、時折オーディオ店に行くときがあるのだが、そのとき必ず持参するCDである。それも大概はお店の人を安心させるためだ。しかし、サッチモおじさんのダミ声とトランペットが意外に引っ掛かるときがあって、そこでつぶさにチェックしてたりするし、エラおばさんの声のスケール感というのも出そうで出ないときもある。そういう機器は何となくスルーしよう。
Cruisin' Story 1955-60

1950年代のアメリカン・ポップスのヒット曲を75曲も集めたコンピで、復刻音源もしっかりしており万人にお勧めできる内容のもの。ともかくボーカルの質感がよくて、これでオーディオを調整するとまず間違いない。それとシンプルなツービートを主体にした生ドラムの生き生きしたリズムさばきもすばらしい。単純にリトル・リチャードのキレキレのボーカルセンスだけでも必聴だし、様々なドゥーワップ・グループのしなやかな色気を出し切れるかも評価基準になる。
ザ・ビートルズ/Live at the BBC(1962-65)

ビートルズが煩雑にライブ活動をしていた頃、BBCの土曜枠で1時間与えられていたスタジオライブで、これを切っ掛けに国民的アイドルにのしあがった。曲目はアメリカのR&Bやロカビリーのカバーが中心で、理由がレコード協会との紳士協定で販売されいるレコードをラジオで流してはいけないという法律の縛りがあったため。このためアメリカ風のDJ番組をやるため、国境の不明確な海洋の船から電波を流す海賊ラジオが増えていったというのは良く知られる話だ。ここでのビートルズは、若々しさと共にパフォーマンス・バンドとしての気迫と流れるような熟練度があり、いつ聞いても楽しい気分にさせられる。それとリボンマイクで収録した録音は、パーロフォンのようなデフォルメがなく、自然なバランスでバンド全体のサウンドが見渡せるように収録されている。ちなみに写真のメンバーが全てスーツ姿なのは、衣装ではなく当時のBBCへの立ち入りがネクタイを締めてないと許可されなかったから。
ジス・イズ・ミスター・トニー谷(1953~64)

問答無用の毒舌ボードビリアンの壮絶な記録である。同じおちゃらけぶりはエノケンにルーツをみることができるが、エノケンがいちよ放送作家のシナリオを立てて演じるのに対し、トニー谷は絶対に裏切る。この小悪魔的な振る舞いを、全くブレなくスタジオ収録してくるところ、実はすごく頭のいい人なのである。50年経っても古さを感じさせない芸風は、まさにソロバン勘定だ。こればかりは幼い娘も喜んで聴く。
昭和ビッグ・ヒット・デラックス(昭和37~42年)

日本コロムビアと日本ビクターが共同で編纂したオムニバスで、レコード大賞ものなども外さず入っていながら、モノラルがオリジナルのものは、ちゃんとモノラル音源を収録している点がポイント。青春歌謡にはじまり、演歌、GSまで網羅して、個性的な歌い口の歌手が揃っており、ボーカル域での装置の弱点を知る上でも、この手の録音を再生するためのリファンレンスとして持っていても良い感じだ。
Presenting the Fabulous Ronettes(1964)

ウォール・オブ・サウンドの開祖フィル・スペクターの代名詞となったガールズ・グループの初アルバムである。当然ながらモノラルでのリリースであるが、これを部屋いっぱい揺るがせるかは、あなたのオーディオが成功したかを示す試金石でもある。難しいのは、A面のナンバーの録音で音が混み入って縮退(残響音の干渉で音圧が下がる現象)を起こすタイミングで、ちゃんとリズムがダイナミックに刻めているかである。成功した暁には、ベロニカの声がかわいいだけの歌姫ではなく、コール&レスポンスでバンド全体を鼓舞するリーダーとなって君臨していることが判るだろう。こんなことは、アレサ・フランクリンのような本格的なゴスペル歌唱を極めた人にしか許されない奇跡なのだ。多分、後世で起こった「音の壁」に関する誤解は、厚塗りで漠然としたワーグナー風の迫力だけを真似した結果だと思う。音離れよくフルボディでタイミングをきっちり刻めるオーディオを目指そう。
オーティス・レディング/シングス・ソウル・バラード(1965)

レディングの歌い口はとても独特で、言葉を噛みしめ呻くように声を出すのだが、その声になるかならないかの間に漂うオフビートが、なんともソウルらしい味わいを出している。スタックス・スタジオは場末の映画館を改造したスタジオで、そこに残されていた巨大なAltec A5スピーカーで、これまた爆音でプレイバックしていた。このため拡販を受け持っていたアトランティック・レコードから「ボーカルの音が遠い」と再三苦情が出たが、今となっては繊細なボーカルをそのまま残した英断に感謝しよう。
フランス・ギャル/夢見るシャンソン人形(1965)

ヨーロッパ中の新人歌手の登龍門ともなっていたユーロ・ヴィジョン・ソング・コンテストで優勝したのを受けてのアルバム化だったが、ゲンズナブールの変態趣味が炸裂した歌詞であったにも関わらず、舌足らずのアイドル歌謡どストライクを突いて世界的なヒットとなった。フランスはダンスミュージックとは無縁だと思われがちだが、ディスコはフランス発祥であることを知らない人は意外に多い。私も子供の頃みた映画「サタデーナイトフィーバー」で知ったくらいで、その頃はすでにコテコテの漫才のようにリーゼントヘアとホワイトスーツが全てを語っていたように、前身のゴーゴーやソウルダンスと共にアメリカ発祥だと勘違いしていた。しかし、ここで聴けるキレのいいドラムは、当時のヌーベルバーグ映画「死刑台のエレベーター」の延長線にあるものだし、そこにゴダール映画「気狂いピエロ」にでも出てきそうな美少女とくれば、ポップだが危険な匂いのする不思議な時代性を感じ取ることができるだろう。
アナログ・ステレオ録音 (1955-85)
同じアナログテープによるステレオ録音でも、真空管ミキサーでの一発録りの時代と、ソリッドステート化したマルチトラック録音とで大きく異なる。前者の真空管ミキサーでの収録は、比較的ダイレクトな音をエコーチェンバーの音を混ぜて音場感を調整するようなものだったが、マルチトラック録音になってからコンクレッサーとリバーブの多用が目立ち始め、8kHz以上に多いアンビエント成分がないとドライで痩せた音になる。これに合わせたアナログ最盛期のステレオスピーカーで聴くモノラル録音があまりに酷いので、ステレオしか聴けなくなったと言う人が多いが、音場感の定義が曖昧だった1960年代のステレオ録音ともそれほど相性が良いわけではない。これはモノラルにして聞き直すと音像そのものにクローズアップするので、違いはそれほど大きいものでなくなるのだ。
私の愛聴盤は、新古典主義のクラシック作曲家の自作自演、マルチトラック以前の直球勝負のソウル、ファンク、ハードロックの録音、マルチトラック録音の柔軟性を活かしたポップス・アルバムである。
プーランク自作自演集(1957,59)

プーランク自身がピアノ伴奏をした室内楽曲集で、オーボエとファゴットのための三重奏曲(1926)から晩年の傑作フルートソナタ(1957)まで、フランス勢の演奏家に囲まれて和気あいあいと演奏している。この時代のプーランクは、作曲人生の集大成とばかりオペラの作曲を手掛け、そちらの録音のほうも結構いい感じで残っているのだが、個人的にはパリの街中にあるアパルトマンをふと訪れたようなこのアルバムの親密な雰囲気が好きである。プーランクのピアノは、米コロンビアでのストイックなピアノ独奏とは違い、ペダルを多用した緩い感じのタッチで、少し哀愁を帯びた表情が何とも言えず愛くるしい。ちなみにさり気なく飾ってあるジャケ絵は、ホアン・ミロがカンタータ「仮面舞踏会」(1932)のこの録音のために描いてくれたオリジナルデザインである。
デュリュフレ:レクィエム/作曲家&ラムルー管(1959)

エラートの場合、ミシェル・コルボが大量に古今東西のレクイエムを録音していることから、どうしても影に埋もれがちだが、この自作自演は第二次世界大戦を生き延びた人たちの思いに溢れた演奏となっているように思える。ともかく最初の序唱でグレゴリオ聖歌が流れるなか、徐々に感極まって世界終末の審判のラッパの音が鳴り響くとき、その時代の人が感じ取った救いの意味が深く胸に突き刺さるのである。それは単なる戦争の終結ではなく、人間のもつ残虐性が様々な形で露わになった20世紀において、これを根源的に浄化できるのは、天から下されるただひとつの力でしかないという恐るべき選択を願っているからに他ならない。ほぼ同じ時代にトスカニーニがヴェルディのレクィエムで見せつけた暴力性と一種のカタルシスとは違うかたちで、デュリュフレの本来の曲想からかなり拡張されたかたちで示される。大オーケストラだから大味で力で押しまくるというのではなく、この作品が置かれたコンテンポラリーな時事が重なって響き合っている様子が記録されている。
ブリテン:セレナードほか/作曲家&ピアーズ(1963)

20世紀のイギリス音楽を代表する作曲家のひとりブリテンのテノール独唱曲だが、いずれも盟友ピーター・ビアーズのために書かれたといっても過言ではないほど、精神的な結び付きが強い演奏である。英文学の学者が多い日本において、こと歌曲となるとドイツ語に大差を付けられるのだが、このような400年に渡る詞華集ともいえる立派な作品があるのだから、大いに宣伝してしかるべきだが、なかなか巧くいかないものだと思う。
保守的な書法ゆえ、ケンブリッジ大の現代曲の講義で「牛糞派」と揶揄されたが、作曲家本人はことのほかこのニックネームが気に入ったらしく、他の同僚とよくこの話で盛り上がっていたという。このジャケ絵でも、オールドバラ音楽祭の合間に、草原を二人で仲睦まじく歩く姿など、なんとも優雅で絵になる光景である。
モンポウ:ピアノ作品集

19世紀末から20世紀後半までに生きたスペインの作曲家だが、フォーレのピアノ作品に魅了されて以後、いわゆるアヴァンギャルドの道は歩まず、20世紀初頭から作曲スタイルを全く変えずに引きこもってしまった人である。その沈黙の深さは晩年に残した自作自演のピアノ曲に現れており、スペインのもつ神秘性を最もうまく表現している。孤独で瞑想的というと、音楽表現にはむしろ向かないように思うが、それを自然とやってのける偉大な精神の軌跡でもある。
グリーグ:抒情小曲集/エミール・ギレリス(1974)

ギレリスの師匠のネイガウスは、第一次大戦前にウィーンやベルリンでゴドフスキーに入門して研鑽したピアニストで、シマノフスキー、スクリャービンと同じ時代に生きた人でもあった。
ギレリスは1950年代に西側デビューしたとき、鉄のカーテンの向こうからきた鋼鉄のピアニストという異名をもったが、1970年代に入るとそのレッテルを返上するかのように、師匠譲りのリリシズムと構成力のバランスのとれた演奏を録音するようになった。グリーグは、そういう意味ではコンサート・プログラムには乗りにくいものの、19世紀末の穏やかな時間の流れを伝えるレコードならではの素晴らしい体験を残す名盤である。
そして何よりも、スウェーデンのカール・ラーションの家族画をあしらったジャケ絵が、この演奏の全てを物語っている。淡い水彩画に浮かぶ画家の妻の姿は、浮世絵を彷彿とさせる大胆な構図で大輪の花に囲まれ、ふと振り向いたときの幸せそうな表情を見事に捉えている。これがハンマースホイの絵だったら、全く別な印象をもったことだろう。
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集/シェリング&ヘブラー(1978~79)

色々なバイオリニストが挑戦するなかで、可もなく不可もなしだが、噛めば噛むほど味が出るという全集が、このコンビのものだと思う。1980年のレコード・アカデミー賞録音部門にも選ばれた盤だが、クレーメル/アルゲリッチの録音以降は急速に忘れられていったのが何とも惜しい。グリュミオーやシュナダーハンがモノとステレオで2回入れているのに対し、シェリングはルービンシュタインと一部を録音したきりなかなか全集録音をしなかった。
この録音の特筆すべきは室内楽に求められる家庭的で内面的な調和である。ウィーンとパリで研鑽しながら国際様式を身に着けた二人の出自も似通っており、ベートーヴェンのヴァイオリン曲にみられる少し洒脱な雰囲気が熟成したワインのように豊潤に流れ込むのが判る。モーツァルトの演奏で名が売れてる反面、なかなかベートーヴェン録音にお声の掛からなかったヘブラーが、待ってましたとばかり初期から後期にかけての解釈の幅などなかなかの好演をしており、バッハの演奏でも知られるシェリングの几帳面な解釈を巧く盛り立てている。
パレストリーナ:ミサ「ニグラ・スム」/タリス・スコラーズ(1983)

システィーナ礼拝堂での聖歌隊の歌唱方法を「アカペラ」と呼び、ルネサンス様式おポリフォニーを「パレストリーナ様式」というのは、まさに大量に書かれたパロディ・ミサの手法が完成の域に達したからだろうと思う。多くの作曲家がミサ曲を何かの慶事に合わせて委嘱~献上される機会音楽と捉えていたのに対し、パレストリーナだけは自身の作曲技法を表わすために作曲した。キリストと教会の婚礼や処女懐胎を象徴するような雅歌の一節を歌ったジャン・レリティエールのモテットをもとに、ミサ曲に編曲しなおしたこの作品も例に漏れず、ポリフォニーでありながら明確な旋律の綾、少しロマンテックな和声終止形を繰り返すなど、後の対位法の手本ともなったもので埋められている。これらは15世紀のポリフォニーがゴブラン織のような音のモザイクだとすると、テーマに沿った構図をもつタペストリーへの変化のようにも受け止められ、それがイタリア的な造形美へと理解されるようになったとも言える。
この録音はタリス・スコラーズの自主製作レーベルであるGimellの初期のもので、やや高域寄りだがどこまでも澄んでいる音の洪水が、まるでステンドグラスに射しこんだ朝日のように黄金色にたたずんでいる。

ソロ・ムンク(1965)

「左手で4分音をさぐるピアニスト」と呼ばれた孤高のジャズ・ピアニスト セオニアス・ムンクの3度目のソロ・ピアノ・アルバムだが、米コロンビアに移籍した後のムンクは、ビバップ最前線にいたリバーサイド時代の緊張感が一気に抜けて、何となく聞き逃している感じがしないでもない。だが、このアルバムのシュールな飛行機乗りの姿とヘタウマなピアノにはいつ聴いても心が癒される。おそらくムンク自身が患っていた躁鬱との関連もあるのだろうか、何か手を動かしていないと落ち着かない気持ちを抑えて、黙々とピアノに向き合って自問自答しているように感じるのだ。自分のやってることが上手くいかず心が折れそうになるとき、何となく手にするアルバムである。
シュープリームス/ア・ゴーゴー(1966)

まさに破竹の勢いでR&Bとポップスのチャートを総なめしたシュープリームスだが、このアウトテイクを含めた2枚組の拡張版は、色々な情報を補強してくれる。ひとつはモノラルLPバージョンで、演奏はステレオ盤と一緒なのだが、音のパンチは攻撃的とも言えるようにキレキレである。これはBob Olhsson氏の証言のように、モノラルでミックスした後にステレオに分解したというものと符合する。もうひとつは、ボツになったカバーソング集で、おそらくどれか当たるか分からないので、とりあえず時間の許す限り色々録り溜めとこう、という気の抜けたセッションのように見えながら、実は高度に訓練された鉄壁な状態で一発録りをこなしている様子も残されている。可愛いだけのガールズグループという思い込みはこれで卒業して、甲冑を着たジャンヌダルクのような強健さを讃えよう。
ジェームズ・ブラウン/SAY IT LIVE & LOUD(1968)

録音されて半世紀後になってリリースされたダラスでのライブで、まだケネディ大統領とキング牧師の暗殺の記憶も生々しいなかで、観衆に「黒いのを誇れ」と叫ばせるのは凄い力だと思う。ともかく1960年代で最大のエンターテイナーと言われたのがジェームズ・ブラウン当人である。そのステージの凄さは全く敬服するほかない。単なるボーカリストというよりは、バンドを盛り上げる仕切り方ひとつからして恐ろしい統率力で、あまりに厳しかったので賃金面での不満を切っ掛けにメンバーがストライキをおこし、逆ギレしたJBが全員クビにして振り出しに戻したという伝説のバンドでもある。長らくリリースされなかった理由は、おそらくこの時期のパフォーマンスが頂点だったということを、周囲からアレコレ詮索されたくなかったからかもしれない。ステージ中頃でのダブル・ドラムとベースのファンキーな殴打はまさしくベストパフォーマンスに数えられるだろう。
アレサ・フランクリン/レディ・ソウル(1968)

もはやこの興奮状態を何に喩えることができるか分からないくらい、男も女も、ロックもソウルも、全て飛び越えてしまった感じがする。参加ミュージシャンもいつものメンバー以外に、ジョー・サウス、スプーナー・オールダム、エリック・クリプトンなど、この頃アトランティックが開拓していたロック系の人も交えることで、新たな領域に踏み込んだというべきだろう。この混沌としていながら、ひとつの情熱へとまとめ挙げる力こそが、他の人にはない彼女のカリスマである。当時のロックバンドによくあったスポットライトの取り合いのようなチマチマした競り合いではなく、ある高みに向かって全員が昇りつめようと必死にもがいている状態でも、彼女の声のお導きによってなぜか全員がスッと空中召喚されたかのような、不思議な感覚に襲われる。
レッドツェッペリン/BBCセッション(1969,71)

バンドとしてデビューしたての頃の血の噴き出るような壮絶なセッションである。BBCはポップスのFMステレオ放送解禁にあたり、それまで海賊ラジオで活躍していた名物DJを集めて、その人脈を辿ってはレコードになる前の新曲をリークするという手法をとっていた。これはその一環であるが、当時は世界配信するために非売品のラッカー盤として出回ったといういきさつがあり、単なるスタジオライブというより、きっちりしたセッション録音の体裁をとっている。
演奏のほうは、真剣で居合を切るような、アウトビートでの引き算の美学が極まっており、まるで大地を揺るがすダイナソーのような畏怖を感じる。それは本来ブルースマンが持っていた精神的な緊張感だったのだが、それを電気的に拡声して恐竜のように巨大化してしまうには、細心の注意と瞬発的な筋力とが共存していなければ難しい。それだけ、叩き出す音のラウドさと無音のときの緊張感が等価で扱われているのである。
トワ・エ・モア ベスト30(1969-73)

とかく歌謡フォークと揶揄されながらも、ボサ・ノヴァのテイストをいち早く取り入れた洒脱な雰囲気が魅力のデュオ。この60年代とも70年代ともとれない、時間が止まったような隙間感覚が、後に70年代風と呼ばれるアンニュイな場所を切り開いたのは、全くの偶然だったのだろうか? 流行に押し流されやすい音楽シーンで、立ち止まることの意味を教えてくれる稀有な存在でもあった。このベスト盤は、シングルAB面をリリース順に並べて収録しており、アルバムとは違ったアナログっぽい音質を伝えている。
み空/金延幸子(1972)

歌手の個性があまりにも強いため、プロデュースを細野晴臣さんが買って出て演奏のバックに はっぴいえんど のメンツが参加していることには、あまり言及されない。URCならではのアングラな時間が流れるが、はすっぱな純情とでも言うような、野草のつぶやき声が集められている。時折聞こえるアコギにビブラフォン(木琴)という組合せは、アフリカン・ポップスの先取りでは? と思われるくらいアッケラカンとしていて、自由っていいなとつくづく感じる。
乙女の儚夢(ろまん)/あがた森魚(1972)

この珍盤がどういういきさつで作られたかは理解しがたい。林静一氏のマンガに影響を受けたというが、全然上品にならないエロチシズムは、どちらかというと、つげ義春氏のほうが近いのではないか。音楽的にはフォークというよりは、アングラ劇団のサントラのようでもあるし、かといって明確なシナリオがあるわけでもない。しかし、結果として1970年代の日本で孤高のコンセプトアルバムになっているのだから、全く恐れ入るばかりである。おおよそ、日本的なものと問うと、男っぷりを発揮する幕末維新だとか戦国時代とかに傾きがちであるが、この盤は大正ロマン、それも女学校の世界をオヤジが撫でるように歌う。オーディオ的に結構難しいと思うのは、生録のような素のままの音が多く、いわゆる高域や低域に癖のある機材だと、おかしなバランスで再生されること。もともとオカシイので気づかないかもしれないが…。
ジュディ・シル/BBC Recordings(1972~73)

異形のゴスペルシンガー、ジュディ・シルの弾き語りスタジオライブ。イギリスに移住した時期のもので、時折ダジャレを噛ますのだが聞きに来た観衆の反応がイマイチで、それだけに歌に込めた感情移入が半端でない。正規アルバムがオケをバックに厚化粧な造りなのに対し、こちらはシンプルな弾き語りで、むしろシルの繊細な声使いがクローズアップされ、完成された世界を感じさせる。当時のイギリスは、ハード・ロック、サイケ、プログレなど新しい楽曲が次々に出たが、そういうものに疲れた人々を癒す方向も模索されていた。21世紀に入って、その良さが再認識されたと言っていいだろう。
ベスト・オブ・カルメン・マキ&OZ(1975-77)

ともかくどんな日本人男性ボーカルよりもロックっぽい歌い方をキメてくれるのが、このカルメン・マキ様。しかし、バンドとしての実力は、日本では珍しくプログレの楽曲をしっかりと提供してくれた点にあり、ワーグナーばりのシンフォニックなコード進行、オカルト風の荒廃した詩の世界もあって、ともかく他と全くツルムということのない孤高の存在でもある。デビュー時は寺山修司の秘蔵っ子として登場したが、自分なりの納得できるかたちでこうして表舞台に出てきたのは、自分を信じるということの大切さを教えてくれる。そうこうしているうちに、音速突破とともに空中分解したように解散した。存在自体がロックという感じもある。
FLAPPER/吉田美奈子(1976)

やはりこれもティンパンアレイ系のミュージシャンが一同に会したセッションアルバム。ともかくファンシーなアイディアの音像化は、ケイト・ブッシュの先取りなのでは? と思うほどの多彩さ。ファンシーさの根元は、移り気で儚い少女のような振舞いに現れているが、それをプログレのスタイルを一端呑み込んだうえでアレンジしている点がすごいのである。特に演奏テクニックを誇示するような箇所はないが、スマートに洗練された演奏の手堅さが、このアルバムを永遠の耀きで満たしている。
花ざかり/山口百恵(1977)

ただの歌謡曲と思いきや、宇崎竜童をはじめ、さだまさし、谷村新司、松本隆、岸田 智史など、ニューミュージック系の楽曲を束ねたブーケのようなアルバム。この頃には、ニューミュージックもアングラの世界から這い出て、商業的にアカ抜けてきたことが判る。山口百恵が普通のアイドルと違うのは、女優として語り掛けが真に入っている点で、低めの声ながら味のある歌い口である。1970年代のアイドル歌謡全盛期の只中で、引退する前に大人の女性になることを許された、稀有な存在でもあった。それを支えるのがNEVE卓で録られたサウンドであることには、あまり気にする人はいないだろうが、オーディオマニアとしては要チェックである。
魔物語/ケイト・ブッシュ(1980)

ブリテン島に残るゴシックホラー趣味をそのまま音にしたようなアルバムで、アナログ全盛期の音質とミキシングのマジックに満ちているにも関わらず、その質感を正しく認識されているとは思えない感じがいつもしていた。一番理解し難いのは、ケイト自身の細く可愛らしい声で、少女のようでありながら、どこか大人びた毒舌をサラッと口走ってしまう、小悪魔的なキャラ作りに対し、いかにほろ苦さを加味できるか、という無い物ねだりの要求度の高さである。それは実際の体格からくる胸声をサッと隠そうとする狡さを見逃さないことであるが、それが一端判ると、実に嘘の巧い女ぶりが逆に共感を呼ぶという、このアルバムの真相に至るのだ。同じ共感は、ダンテの神曲に出てくる数々の苦役を課せられた人々が、意外にも現実世界の人々に思い重なるのと似ている。「不思議の国のアリス」の続編とも思える、この世離れした夢想家の様相が深いのは、煉獄のような現代社会でモヤモヤしている人間への愛情の裏返しのようにも感じる。ウーマンリブとかフェミニズムとか、そういう生き様を笑い飛ばすような気概はジャケ絵をみれば一目瞭然である。
アヴァロン/ロキシー・ミュージック(1982)

一介の録音エンジニアだったボブ・クリアマウンテンをアーチストの身分にまで高め、ニアフィールド・リスニングでミキシング・バランスを整える手法を確立したアルバムである。アヴァロンとはアーサー王が死んで葬られた伝説の島のことで、いわばこのアルバム全体が「死者の踊り」を象っている。実際に霧の遥か向こうで鳴る音は、有り体な言い方をすれば彼岸の音とも解せる。しかしこのアルバムを録音した後バンドメンバーは解散、誰しもこのセッションに関してはムカつくだけで硬く口を閉ざしているので、そもそも何でアーサー王の死をモチーフにしなければならなかったのか?と疑問符だけが残った。私見を述べると、どうも恋人との別離をモチーフにしたほろ苦い思いを綴っている間に「愛の死」というイメージに引き摺られ、さらにはイギリスを象徴するアーサー王の死に引っ掛けて「ロックの彼岸」にまで連れ去ったというべきだろう。この後に流行するオルタナ系などのことを思うと、彼岸の地はそのまま流行から切り離され伝説と化したともいえ、この二重のメタファーがこのアルバムを唯一無二の存在へと押し上げている。
当山ひとみ/セクシィ・ロボット?(1983)

アナログ末期のゴージャスで脂の乗ったサウンドも魅力的だが、何と言ってもそのファッションセンスが、20年ほど早かったゴスロリ&サイバーパンクであり、沖縄出身のバイリンガル女子の歌い口もツンデレ風だったり、今じゃアニメで全然フツウ(例えば「デート・ア・ライブ」の時崎狂三(くるみ)とか)なんだけど、どうも当時は他に類例がない。ガッツリしたダンスチューンから、メロウなソウル・バラードを聴くにつれ、アングラシーンを駆け巡ったパンクやデスメタという男性優位の世界観を撃ち抜くだけの力が周囲に足らなかった気がする。
ピアソラ/タンゴ・ゼロ・アワー(1986)

ピアソラが晩年にニューヨークのマイナーレーベルのスタジオに押し入って録音した渾身の一撃。何よりもこの録音に「私の魂を全て注ぎ込んだ」と言うのだから尋常ではない。しかし結果はそれまで民族音楽でもなくアヴァンギャルドでもない中途半端な位置づけから、ピアソラ本人のペルソナが優れていることを証明することとなった。その後の数年間は人生の大団円を飾ったのであるが、これがデビュー盤だと言えばその通りで、リリースされる過去の録音もこの時から遡って根を張るように広がっている。
古いオーディオ店に行くとロックや歌謡曲を聴くこと自体が禁句となってしまうことがあって、そのときにリズムのキレとかを確かめたいときに、このソフトを取り出すことが多い。電子楽器を用いない、パーカッションを含まない、しかしリズムの研ぎ澄まされたナイフで撫でられられるような緊張感を出せるか、そういうところを聴いていたりする。天使のミロンガが美しいだけで終わるようなら、最後まで聴かずに次に移ろう。
デジタル・ステレオ録音 (1985-2020)
デジタル録音そのものは1970年代後半からあったが、肝心のデジタルミキサーが完成する1980年代末までアナログ機器で編集する時代が続いた。そのため純粋なデジタル録音は、録音方式としては1950年後半の初期ステレオと変わりない状況に戻ったのであるが、そこで出てきたのがマイナーレーベルによる古楽器のデジタル録音である。
肥大化したマルチトラック録音が完全デジタル化する決め手となったのは、プロツールのようなパソコンで操作できるシーケンサーが登場して以降であり、テープ編集という作業はなくなり、デジタルデータでトラック編集するほうにシフトしていった。一方で、アナログ時代には当たり前だった、音の艶やかさやシルキーな肌ざわりは、デジタルでは出にくいということも分かり、真空管を使った録音機材も再び注目されるようになった。音の艶は真空管のリンギングであり、シルキーな肌触りはサーモノイズだったりで、かつでは歪みやノイズとして排除した要素が、実は音楽制作にはプラスに働いていたことも分かったのだ。
私の愛聴盤は、古楽器によるバロック音楽の演奏、クラシックの室内楽曲、ポストモダンの現代曲から無国籍のジャズ、ポップスという感じである。
フランス・バロック・リュート作品集/佐藤豊彦(1995)

17世紀パリのバロックといえば華やかな宮廷文化を思い浮かべるだろうが、このアルバムは驚くほど質素で、曲目も「Tombeau=墓碑」をもつものが多い。それを1613年から伝わる南ドイツ製リュートを使って演奏するという、とてもとても渋い企画である。実際の音なんて想像もつかないが、音のひとつひとつに何とも言えない陰りがあって、コアラのような優しい佐藤さんの面持ちとも不思議と重なり合ってくる。楽器がもつ特性を自然にうけとめ、音それ自身に語らせようとする手腕というのは、禅や風水にも似た東洋的な宗教感とも織り重なって、アラブから伝わったというリュートのもつ数奇な運命とも共鳴しているように感じる。
テレマン:6つの四重奏曲/有田・寺神戸・上村・ヒル(1995)

フランスの片田舎にある小さな聖堂でB&K社製の無指向性マイクでワンポイント収録した古楽器の四重奏。イタリア風コンチェルト、ドイツ風ソナタ、フランス風組曲と、国際色豊かなテレマンらしいアイディアを盛り込んだ楽曲だが、使用楽器も1755年イギリス製フラウト・トラベルソ、1691年イタリア製ヴァイオリン、ドイツ製ガンバ(レプリカ)、1751年フランス製クラヴサンと、国際色あふれるオリジナル楽器の競演ともなっており、作品に花を添えている。ともすると標題的な外見に囚われて楽曲構成でガッチリ固めがちなところを、日本人の古楽器奏者にみられる丁寧なタッチで音楽の流れを物語のように紡いでいくさまは、自由な飛翔をもって音を解放するスピリチャルな喜びに満ちている。
Gallo:12 Trio Sonata/Parnassi musuci(1999)

18世紀中頃に活躍したヴェネツィア出身の音楽家 ドメニコ・ガッロのこの作品は、長らくナポリ派のペルゴレージに帰されていたもので、ストラヴィンスキーが「プルチネッラ」の元曲として使用したことでも知られる。まぁそんなふうに思われてもしょうがないほど、前古典派風の洗練された構成をもっており、ガッロ自身も地元のヴェネツィアよりもパリやロンドンで出版されていることから、むしろブフォン論争の解決策を携えた国際派であったと考えるのが適当である。パルナッシ・ムジチはドイツの古楽演奏団体で、同種の室内楽曲を多く録音しており、安定した実力を備えた良い演奏である。
サント=コロンブ2世:無伴奏バス・ヴィオール組曲/ジョルディ・サバール(2003)

有名なガンバ奏者の息子であり、17世紀末から18世紀初頭に活躍したフランスのガンバ奏者が、イギリスに渡ってからの無伴奏組曲という極めてマイナーな作品。20世紀末にダラム聖堂の書庫で自筆譜が見つかったというので、イギリスでのガンバ曲の少なさからみて、音楽史からも取り残されたプライベートな作品かもしれない。これを1697年ロンドンで製作されたガンバを用いて演奏するというもの。楽器としては低音弦の深く力強い響きが優先され、ソロ楽器というよりはオケの通奏低音により効果を発揮するようなものである。その意味ではチェロよりもコントラバスの音色に似てなくもない。それがこの組曲が流れた途端、人生の酸いも甘いも噛み分けた中年男性のモノローグのように朴訥と話し始めるのだから、この楽曲のためにこの楽器があったのではないか?と思えるくらいの説得力をもつ。
フォーレ宗教曲集/La Chapelle du Quebec(1989)

レクイエムのほかになかなか聴く機会のないラテン語モテットを、カナダの団体が小構成の合唱で歌いあげている。作風としては独唱を含む女子修道会寄宿学校などのアマチュア向けの小品であり、生活の安定のため引き受けていたとされる聖マドレーヌ寺院のオルガニストの肩書に相応する質素なものである。そこには教会関係者への音楽のレッスンという副業もさらに呼応していたかもしれない。本職がパリ音楽院楽長に移って以降はこのジャンルでの作曲は途絶えていくからである。そういう意味ではこのモテットたちは礼拝という実用の目的から離れて存在していたと思われ、リスト晩年の宗教曲とほぼ同じような感じに秘め置かれていたといえる。
ここではカナダで広範に広がった聖ウルスラ会との関連で、パリのような大都会とは異なるかたちでフォーレの姿が伝わっていた可能性が伺える。それは単純に大作曲家が身寄りのない兄弟姉妹に向けた平等な眼差しであり、作品そのものの価値とは全く異なるコミュニケーションの豊かさである。「赤毛のアン」の舞台は英語圏のプロテスタント地域だが、ケベック州と隣り合った地域での女子高等教育についての偏見のなさは共通しているのだ。伴奏に用いられているのが、ジャケ絵にある足踏みオルガン「ハルモニウム」で、澄んだハーモニーでさり気なく歌を支えており、家庭的で親しみ深い雰囲気で満たしてくれる。
マガロフ、ワルツを弾く(1990)

20世紀末にソ連が崩壊した後、19世紀末のロマノフ王朝時代を懐かしむように、ロマン派ヴィルトゥオーゾのピアノ演奏が続々と現れた。それも80~90歳のおじいちゃんを捕まえて小品集をおねだりする嗜好である。冷戦時代は唯一無二のロマン派ヴィルトゥオーゾだったホロヴィッツ爺は、初来日時に「ひび割れた骨董」とまで揶揄されたが、このマガロフ爺は78歳にして堅牢そのものの色彩感豊かなピアノを披露してくれる。タウジッヒ編曲「舞台への勧誘」など、ドルチェとスタッカートの音色の繊細な使い分け、青空のように澄んだフォルテの響きなど、デジタル録音のダイナミックレンジの広さを往々に示した名演奏のひとつだと思う。レーベルはデンオンだが仏ADESのライセンスを受けての国内リリースで、録音エンジニアも最も感慨深い録音として挙げている一品である。
ショパニアーナ/福田進一(1999)

ショパンといえば近代ピアノ奏法にとって歴史的転換点となるような存在であり、母国のポーランドはもとより、リスト派、フランス楽派など、ヨーロッパ全般にその影響が及んでいる。そのため、エラール、プレイエル、ベーゼンドルファーなど、現在の鋼鉄製フレームの楽器の音色とショパンのピアニズムとが巧く符合するのである。ここではこうした見方を少し変えて、ショパンのピアノ曲を近代ギター奏法の父タレガが編曲したアルバムを選んでみた。これがなぜ古楽かというと、編曲者のタレガが所有していた1864年製作のギターで演奏しているからで、立派なオリジナル楽器での演奏である。これがまた見事にはまっていて、トレース製ギターの暗く甘い音色が功を奏し、夜想曲などは恋人の部屋の窓の下で結婚を申し込むメキシコのセレナータそのもの。実に静かでエロティックである。
マーラー:交響曲4番(シュタイン編曲:1921年室内楽版)
リノス・アンサンブル(1999-2000)

20世紀初頭にシェーンベルク率いる新ウィーン楽派が、当時の「現代曲」を中心に演奏するために起こした「私的演奏会」のプログラム用に1921年に編曲されたもの。このコンサートのために154作品がレパートリーされたというから、これはまさに氷山の一角に過ぎないのだ。師と仰いだマーラーの没後10年であると同時に、この演奏会の最後の年でもあり、ウィーン世紀末の残り香を漂わせながら、儚い天国への憧憬を画いた作品像が、第一次大戦で崩壊したヨーロッパの亡骸をいたわるような、どこかグロテスクな感覚もある。一般にシェーンベルクの室内交響曲が、マーラーの肥大したオーケストレーションへのモダニズムの反動だと言われるが、この編曲を聴くと最低限の構成で同じ効果のある作品を狙っていたことが判る。なんたってこの頃のシェーンベルクはウィーン大学で作曲の教鞭をとっており、単なる反体制的な芸術家とは違うのだ。論争的になったのは12音技法に走ったときからで、その頃の芸術家としての姿勢が預言的に存在していたかのように描かれるのは、残された作品像を見誤る原因ともなる。カップリングはシェーンベルク編曲の「若人の歌」で、こちらはピアノ伴奏でも十分な歌曲なので、構成の間引き方も自然に聞こえる。
さてこの録音の立ち位置だが、ジャケ絵のアールヌーボーの版画がしっくりくる、耽美にデザインされた調度品のように、室内を満たす感覚がたまらなくいい。
フルート、ヴィオラ、ハープのためのフランス室内音楽(2012)
Talitman, Fregnani-Martins, Xuereb

この構成はドビュッシーのものが超有名で、それが初めてだったようなことを言っている人が多いが、ここはハープ専門レーベルだけあって、デスヴィーニュ、デュポア、ロホジンスキ、ティリエと幅広い世代の楽曲を発掘している。しかし、ラヴェルとの論争の渦中にあったデュポワでさえ、あっちの世界のアンニュイな時間の流れを作り出しているところをみると、そもそも印象派というものさえも不確かな定義なのだと思ってしまう。ともかくフランス風の牧歌的な魅力に満ちたアルバムである。
フォーレ歌曲全集/シリル・デュボワ&トリスタン・ラエ(2020-21)

フランス語の歌曲というと、バリトンでの名演が多く残されているが、これはテノールによる歌唱。フォーレは歌曲を一生涯作曲し続けたこともあり、初期の可憐なサロン風のシャンソンから、高踏派詩人との邂逅、そして晩年の渋く暗い趣きまで、一度に制覇しようとすると、年齢の不釣り合いがどうしても出てしまう。ところがこのデュボワの歌唱は、フォーレ自身のもつ感傷的な優男(やさおとこ)のイメージを、最初から最後まで徹頭徹尾貫いた結果、フランス語の詩のもつ優雅な響きを無垢なままに提示できているように思う。もうひとつは、かつて男気を示すことがダンディズムの掟だった時代から肩の荷を下ろし、ややユニセクシャルなニュアンスをもつロマンスへの方向転換は、21世紀になってようやく認められたもののように思える。
ペルト:アルヴォス ヒリアードアンサンブル、クレーメルほか(1986-87)

漆黒のエンボス加工した厚紙のなかから「ARVOS」の朱文字がうっすら浮かぶ印象的なジャケットで、CDなのに存在感のあるデザインに何かを嗅ぎ取って店頭で購入した覚えがある。つまり現代のデザイナー家具に似た嗜好品としてのコダワリを感じた最初のCDでもあった。
旧ソ連時代のエストニア出身のアルヴォ・ペルトは、ロシアのイコニズムと結びつきあいながら、ティンティナブル様式と称して、鐘の音の余韻を追い続けるような書法で、音が鳴ってるほうが静かになるような絶対的な静寂を生み出している。ルネサンス・ポリフォニーを得意とするヒリアード・アンサンブルの中世的な佇まいと、A.デイヴィス、クレーメルなどの気鋭の現代音楽の推進者を得て、遅ればせながらのデビューCDとなった。
吉松隆:メモフローラ 田部京子&藤岡幸夫(1998)

こちらは極上の新ロマン主義風の作品で、基本的にピアノ協奏曲の体裁をとっているが、そういうジャンル分けなどどうでもいいほど、音楽としての美しさが際立っている。まずは吉松作品の紹介に務めてきた田部京子のリリシズム溢れるピアノで、この澄んだクリスタルのような響きがないと作品が生きてこないような感じがする。それだけ精神的な結び付きの強い演奏で、単なるアルペッジオの連続する箇所でも、作品のリリシズムを外れることがない名演奏を繰り広げる。もうひとつは音楽監督に就任以来マンチェスター管に吉松作品を一推しした藤岡幸夫の目利きのよさで、フランス印象派風のパステルカラーのような管楽器の扱いといい、とても品の良いオーケストレーションを提示している。
ヴィジョン/ヒルデガルト・フォン・ビンゲン feat. リチャード・ソーサー(1994)

12世紀ドイツで活躍したヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌を依り代にして、アメリカ人ゴスペル・ミュージシャンのリチャード・ソーサーがシンセ打ち込みでアレンジした名盤。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンというと、幻視と預言のできた修道女として知られるが、ここではシンセ音を天空からの未知のお告げよろしく巧く表現して、それを呪文のように言葉にすることで現実化するプロセスが提示されている。幻想的というと遥か遠くでボヤっとした印象に捉えやすいが、ここでは特徴の捉えにくい中世聖歌に調性とリズムを与えることで、明確な幻視(ヴィジョン)として認識した世界が展開される。
ジャンル分けで言うと、中世聖歌、ヒーリング・ミュージック、ダンス・エレクトロニカ、何でもアリ。歌い手を務めるエミリー・ヴァン・エヴェラは古楽を専門にする歌手、そしてベネディクト会修道女のジャーメイン・フリッツはアメリカの聖ワルプルガ修道院の院長である。この企画がどういう経緯で持ち上がったかは解説をみても手掛かりがないし、修道女ジャーメインもこの録音が修道院で認可されるか不安に思っていたという。やや思い当たるのはこの1年前にヒリアード・アンサンブルとジャズ・サックス奏者ヤン・ガルバレクがセッションした「オフィチウム」のヒットがあり、ヒリアードEnsとの共演歴があるヴァン・エヴェラを投入して打ち込み音楽とのクロスオーバーな音楽を構想したのかもしれない。
「オフィチウム」と「ヴィジョン」との差は、前者が冷戦後の混沌とした時期に汎ヨーロッパ的な血脈を意識させるものであるのに対し、後者はニューエイジの神秘主義を中世から続く歴史の文脈の中に見出そうとする新しい試みであることが判る。あえてオフィチウムが男性社会、ヴィジョンがフェミニズムという言い方はやめておこう。一方でフォン・ビンゲンの業績を歴史的にどう位置付けていいかなど、なかなかに難しい題材であり、キャリアとしてはかなり堅物な修道院長に参加を願ったというべきか。ここに結びつくのはアメリカに散在する聖ワルプルガの名を関する観想修道会の存在で、自給自足の共同生活を通じてフォン・ビンゲンの時代の開拓精神旺盛な修道精神を明らかにしたかったのかもしれない。そこにも同じヴィジョンという言葉で、観想会の設立意義や参加する人の目標が掲げられている。この修道会の現実主義とニューエイジ思想の間の溝は、30年経った今でも埋まらないまま時間が流れているように感じるのは、この企画を契機にしてなお、両方の特性を具有するアーチストを生み出すための努力が行われなかったことにあると思われる。
スタンダーズ/トータス(2001)

シカゴ音響派と言われた世紀末アメリカのプログレ音楽のひとこま。とはいえ、今どきだと全て打ち込みでもっと複雑なものをやってしまいそうなところだが、そこは生演奏可能なフィジカルな範囲で留まりつつ、クールな情念を注ぎ込むよう心を配っている。ここでのスタンダード=ポップスの定義は、ジョージ・シーガルの彫像作品をポップアートと呼ぶくらい意味のないもののように感じる。トータスを知ったのはベスト・ヒット・USAで、小林克也さんがクールなMTVの新しい潮流のようなことで紹介していた。MTVも成熟してテレビ用プロモーションの焼き直しになりつつあった時代に、何かしらアートなものを捜した結果だろうが、こんなこと覚えている自分も何なんだろうと思う。
Praha/木住野佳子(2003)

ジャズ・ピアニストと言えば、アクロバットなアドリブを思い浮かべるかもしれないが、チェコの弦楽四重奏団とのコラボということもあって、どちらかというとムーディーなアレンジ力で聴かせるアルバムだ。ジャケットが茶色なのでチョコレートのように甘い感じを想像するかもしれないが、冷戦後の東欧の少し陰湿で苦いコーヒーを呑んでいる感じ。この時期の東欧ジャズの怪しい雰囲気のなかに女性ひとりで乗り込んだときの緊張感を知りたい人は、映画「カフェ・ブダペスト」などで予習しておくことをオススメする。音楽が人間同士の心の触れ合いから生まれることの意味を改めて味わうことになるだろうから。
C Minor/ミラバッシ&アンドレィ・ヤゴジンスキ・トリオ(2006年)

イタリアのジャズピアニストとポーランドのトリオが組んだ異色作で、ポーランド側のリーダーはアコーディオンに持ち替えての出演である。およそフランス・ミュゼットのような儚い感じがある一方で、サーカスの曲芸団のような不思議なバランスが異次元に誘う。舌に心地良いがアルコール度の強い酒で知らず知らず深酔いしてしまうような感覚。表面的なノスタルジーを装った辛辣なユーモアが聴き手をすっぽり包んでしまう音楽である。
ECHOSYSTEM/Madaga(2007)

私としては珍しくオーディオチェック用としてもお勧めの一枚で、フィンランド産のラテン・ジャズ・アルバムなんだけど、ダンス・エレクトロニカやクラブミュージックのカテゴリーに属する、というとかなりいい加減な感じに思えるかもしれない。しかしKimmo SalminenとJenne Auvinenの正確無比なパーカッションの切れ味を一度味わうと、ほとんどのオーディオ・システムが打ち込みの電子音との違いを描き分けられないで、良質なBGMのように流しているのに気付かされる。ベースの唸りとリズムのキレまで出ると申し分ない。
ガイガーカウンターカルチャー/ アーバンギャルド(2012)

時代は世紀末である。ノストラダムスの大予言も何もないまま10年経っちゃったし、その後どうしろということもなく前世紀的な価値観が市場を独占。夢を売るエンタメ商売も楽ではない。
この手のアーチストでライバルはアイドルと正直に言える人も希少なのだが、別のアングラな部分は東京事変のような巨大な重圧に負けないアイデンティティの形成が大きな課題として残っている。その板挟みのなかで吐き出された言葉はほぼ全てがテンプレート。それで前世紀にお別れを告げようと言うのだから実にアッパレである。2人のボーカルに注目しがちだが、楽曲アレンジの手堅さがテンプレ感を一層磨きを上げている。
それと相反する言葉の並び替えで、敵対するステークホルダー(利害関係者)を同じ部屋のなかに閉じ込めて、一緒に食事でもするように仕向けるイタズラな仕掛けがほぼ全編を覆ってることも特徴でもある。それがネット社会という狭隘な噂話で作り出された世界観と向き合って、嘘も本当もあなた次第という責任を正しく主張するように筋を通している。個人的には情報設計の鏡というべき内容だと思っている。
それからさらに10年後、2020東京オリンピックで空中分解した1990年代のサブカル・ヒーローとヒロインの宴を肴にして聴くと、役所もテンプレという壮大なフィクション国造りの構造が見えてくる。キスマークのキノコ雲で街を満たせたら、という願いは決して古びることはないと思う。
平凡/ドレスコーズ(2017)

時代はファンクである。それが日常であってほしい。そういう願いの結集したアルバムである。本人いわくデヴィッド・ボウイの追悼盤ということらしいが、真似したのは髪型くらいで、発想は常に斜め上を向いている。というのもボウイを突き抜けてファンクの帝王JBに匹敵するサウンドを叩きだしてしまったのだ。大概、この手のテンションの高い曲はアルバムに2曲くらいあってテキトーなのだが、かつてのJB'sを思わせる不屈のリズム隊は、打ち込み主流のプロダクションのなかにあって、いまや天然記念物なみの存在である。JB'sのリズム隊はラテンとジャズのツーマンセルだったが、一人で演じるのはなかなかの曲者でござる。忍者ドラムとでも呼んでおこう。ジャケ絵は「オーディション」のほうが良いのだが、内容的にはこちらのほうが煮詰まっている。この後の数年間でスタンダード指向へと回帰していくのだが、志摩殿がリーマンの恰好して音楽の引き立て役に扮したいというのだから、アジテーションとも取れる素敵な詩もろとも立派に仕事したといえるだろう。映画人としては、田口トモロヲと共演できるくらいに、リアリストを発奮してほしい。


以上の愛聴盤の数々を聴けば分かるのであるが、どの演奏にもある種のパッションが満ち満ちており、それがどの時代の音楽であろうと変らない感動を与えてくれることである。
進化し尽くしたステレオ装置のルールブックに則ってやっているとこうはいかない。古いSP盤の復刻は高域が詰まったカマボコに聴こえるし、古いテープ録音はヒスノイズまでハッキリ聴こえ、70年代の録音はリバーブを掛けすぎた化粧が濃い音に聴こえるし、そもそも楽器の定位もでたらめだ。80年代のアナログミキサーの音をデジタル化した音は、コンプレッサーで音が潰れすぎて伸びやかさがない。
ところが、これらをミッドセンチュリー・スタイルのモノラル・システムで聴くと、どれも同じ質感でニュートラルに整うのだ。空気の振動を電気信号に変換して記録する限り、遺伝的な器質が同じなのだから当たり前なのだが、オーディオが常に進化しているなんてセールス側に都合のいい嘘など信じないで、ミュージシャンの芸風を正しく拡声するHi-Fiの基本に立ち返るのが一番だ。


さらばステレオ!
※モノラルを愛する人にはこのロゴの使用を許可?しまする




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