20世紀的脱Hi-Fi音響論(特別編)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「モガモボったらモノラルだってば」では、おいらが村で一番と思い込んでいたら、古き良き時代よりちょっぴり新しい音楽を、骨董品にしないアールデコ・モノラルを思案しながら、戦前のモダニズムをプレイバックするオヤジをモニターします。

モガモボったらモノラルだってば
【おいらが村で一番と思い込んでいたら】
【古き良き時代よりちょっぴり新しい音楽を】
【骨董品にしないアールデコ・モノラルを思案】
冒険は続く
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。



【おいらが村で一番と思い込んでいたら】


二村定一の歌う「洒落男」の一節に、「青シャツに真っ赤なネクタイ、山高シャッポにロイド眼鏡、ダブダブなセーラーのズボン」とあるが、実はこれが今どきの我が輩のトレンドである。何って? 老人の通勤服問題である。
すでに2000年代からクールビズと称してノーネクタイが浸透しはじめていたが、2020年のコロナ禍以降は少子高齢化の煽りで気楽な職場を目指したビジカジスタイルが板に付いて、今やスーツ人口は半減してTシャツにジーンズ、スニーカーで通う人も多く、ネクタイを締める人は100人に1人ぐらいだろうか。で、私はというと2023年に転職して、それまでの工場務めから、一気に東京駅の丸の内界隈を通り過ぎて会社に行く普通のサラリーマン生活に突入した。少し前までアルミボディの現代的車両だった丸の内線も、丸くてレトロなかわいい車両に変わって、個人的には好きである。

丸くてレトロな味わいのある丸の内線

杉浦非水の東京震災復興に関するポスター(1929-30):この頃は銀座線のみ

困ったのが通勤するときの服装である。もう五十も半ばを過ぎて完全な白髪になっている素老人に、ビジカジを気取るようなことも難しい。まず、若者が好むカジュアルな服は、筋肉もあり背筋も伸びている若者にはラフな柔らかさが出るが、老人が着るとただの皺くちゃのボロ雑巾である。特に猫背で垂れさがる首元は皺を隠せないので、襟からはみ出てヨレヨレに見えてどうしようもない。ユニクロなどシンプルな装いの通じるのは40代までだと悟っておこう。さりとてイギリスやイタリアの高級スーツを揃えるお金もなく、ようやくたどり着いたのが1890~1910年ぐらいまでのオールド・アメリカンのスタイルである。
下の写真は凄い年取ったオッサンにみえるかもしれないが、誰もがおおよそ30代前半。当時は人生50年と言われた時代で寿命も短かったので、大人の風格はかなり早めから意識して整えており、女性のアラサーと同じ感覚で男を磨くようにしていた。今の感覚で言うと40半ばも過ぎて白髪を染めている頃に相当するのだが、これは50歳を過ぎてもそのままの服装でいけるようなモノだった。今は逆で、60歳を過ぎてもアラフォーの健康体を意識している状況で、老いを整える手段を失っているように思える。別に老人が老人らしくコスチュームしてもいいじゃない? 白髪を染めるかわりに帽子を被る、少し派手めのネクタイを締める(オレはネクタイが好きなんだアピール)、それが19世紀風の自然体で老いを整える手段だった。

休日のサイクリングでも、世紀の強盗団も、みんな胸を張って生きていた?

当時のアメリカの多くの人は、イギリスの輸入物は手が届かないので、フランス移民の職人が手がけていたのだが、デニム(仏ニーム産の綿織物)もそうした経緯から派生した労働服である。とは言っても私の場合は、労働者階級が古着を買い集めたようなブロークンなジャケパン・スタイルなのだが、口髭をたくわえ、山高帽かハンチング帽、デニムベスト、ニットタイを付ければ、パーツごとにはカジュアルな製品なのに、クラシック感のわく出で立ちに変装できた。そう、私のサラリーマン服は古き良き時代からやってきた紳士を気取るコスプレなのだ。カジュアルに逃げるのではなく、忘れられた格式でグイグイ攻める方向に転じたのだ。



 

これだけ揃えてもすべて日本製。どこにでもダンディズムは潜んでいるのだ。


Men's clothing & fablics in the 1890s

19世紀末のオールドアメリカンの紳士服というのは、1930年代のサラリーマン服に遮られてなかなか分かりにくいのだが、この本はヴィンテージ生地の色見本をカラー印刷したというもの。イラストではカットはそれなりに忠実だと思うが、ファブリック本来の上品な模様の細かさや色合いのコントラストが誇張されていて、ともすると品の悪いゲテモノと勘違いしやすい。この本はそうしたオールドタイムへの憧れを正気に戻すための、ちょっとしたアイテムである。直接は役に立たなくても、手元に置いておくと、例えば何でもない日本製生地のテーラードジャケットが、それなりに忠実に造られていることに気付くだろう。


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脱サラの真逆の方向へと突き進んでいる内に、3年の歳月が過ぎ去り、休日の過ごし方を考えているうちに、ようやく1930年代のアールデコのスタイルに近づいたのだ。もともとアマゾンなどで1000円前後で通販しているニットタイが、普段のお店には置いていないような派手目のデザインで、それに模様のハッキリしたハンチング帽を被るだけでも十分にモボっぽいのだが、最近になってクレリックシャツ(英語だとWhite collar shirtもしくはClub collar shirt)なるものに目覚め、これでようやくアールデコの世界に突入したのだ。とはいえ、これも襟や袖をシャツ本体と切り分けて付けていた時代(シャツは今のTシャツと同じインナーとして扱い)の名残で、ブルックスブラザーズ社のボタンダウンも同じ理由で、ポロ競技用に襟を固定するように開発されたシャツのひとつだ。
ある日、保険屋のおばちゃんと契約変更の打合せを自宅でやったとき、寝巻姿だとあまりに失礼なので、ネクタイとジレを着て対応したら、「めかし込んでどうしたんですか?」「これから昼食に出かけるのでついでに着替えたんです」「どの行き着けの店?」「近所のスパゲッティ屋ですが」「???(会話終了)」という具合で、何というか妻に内緒で時化込もうという勘ぐりまで与える異常事態に陥っていたらしい。でもこれだけ気張った色付けでも、老人が着るとシックに落ち着くし、まだまだレイヤードできそうな感じもある。やはりこれは先人の遺した当代一流のコスプレ衣装なのだ。

英国ドラマ「ピンキーブラザーズ」でもお馴染みのクレリックシャツ(1920~30年代)



少し彩のあるハンチング帽とニットタイ(チラ見させたクレネックシャツ)

1930年代のESQUIRE誌のStewart Heidgerdによるイラスト(黒や紺など誰も着てない)
サイクリング、ゴルフ、モータースポーツ…どこでもスーツで決め込んでいた?

第一次世界大戦が終結した1917年以降、はスペイン風邪(インフルエンザ)の大流行もあってか、一部のプチブルが謳歌したベルエポック風の紳士淑女の価値観は著しく低下し(チャップリンに茶化され)、欧米を中心として世界全体がモダニズムという近代化の嵐が吹き荒れた。逆にいえば、石油、鉄鋼といった資源を手にしないと、近代化は成し遂げられないため、それを巡る利権争いのために、国ごと武装化するという事態に突き進んだのだ。日本でのモダニズムは庶民の文化として「洋~」(洋服、洋食、洋酒、洋楽、洋画、洋館、洋間…)というかたちで広がった一方で、国家としては軍国化とも足並みを揃えている。例えば、軍備の機械化は欧米並みを目指しながら、洋の付く舶来品は贅沢の元だと抑制したのである。流行歌をみても、昭和初期のエログロナンセンスから昭和10年代の軍歌一辺倒への急変は、日本の歌謡史を戦前と戦後に分ける事態となっている。では欧米諸国はどうかというと、前衛芸術は内容の如何によらず政治的態度を迫られたと言えよう。例えば、イタリア未来派の芸術家たちは、初期はモータリゼーションと工業化を礼賛して、ダダイズムと接触してやや暴力的な(今風に言うと反社的)な傾向をみせたが、やがて戦時体制に入るとファシズムに取り込まれていった。逆にバウハウスは労働者寄りの健全なスタイルにも関わらず、教授陣にロシアなどの移民が多かったこともあり、退廃芸術のリストに上がり解体の憂き目をみている。芸術家が世事に惑わされず夢想している暇など無くなったのだ。その反転が工業デザインということになるが、職人=デザイナーの地位が正しく認識される意匠権は、より年月の経った20世紀後半までお預けとなり、模造品か芸術品かの違いでしか認識されない状況が長く続いた。


クライスラー・ビルディング
タルボ・ラーゴ:T150 C-SS クーペ
アレッシィ:バウハウス・カクテルシェーカー
Knol:ワシリー ラウンジチェア
コスチュームジュエリーを身にまとったココ・シャネル



日本だってモダン:ノスタルジー溢れる「あの頃」の洋風物


消えたモダン東京(内田青蔵 著)

大正末期に現れた「文化住宅」に関する本で、当時の住宅博覧会の資料を中心に、建築学の立場で当時のモガ・モボが目指した文化的生活の何たるかを説き起こそうとしたもの。地方都市に残るモダン建築はあえて避けている印象があるし、主婦之友での製品批評につながる実用主義を和洋折衷として一括りにしている可能性も否めない。
東京都小金井市にある江戸東京たてもの園に移設した当時の文化住宅など、ほどほどにインテリアも揃えて一般公開してある建物もあるので、興味のある人は見学に行くと良いように思う。
杉浦非水 時代をひらくデザイン(愛媛県美術館)

明快な色彩で画く三越呉服店や地下鉄営団線のポスター製作で知られる画家の初の回顧展カタログ。本の装丁からはじめたデザイナーの仕事は、肝心の本の中身のほうで語られがちだが、どの作家にも手を抜くことなく洒脱な理解を示した意味で、文化の只中にあったと感じる。本来は竹久夢二と並べても良い人である。

昭和」モダン 広告デザイン、看板デザイン1920s-30s

「現代商業美術全集」(1928~30)の掲載作品を抜粋した文庫本で、カラー刷りなので1冊1600円+税と意外にお値打ちの高いものとなっている。実際に使われたというよりは、想像の赴くままに描いた見本帳のようなものなので、これが100年近く前のものなのか?と思うぐらいに発想が斬新なものが多い。
「広告デザイン」は印刷ベースなので、まだ驚きは小さいが、看板となると店舗のレイアウトまで総合的にプロデュースしようという野心的な図案まで含まれ、一部はベルリンの映画館ティタニアパラストとおぼしきファザードまで登場したり、街並みの改造ももくろんでいたのではないかと思える感じもする。実際にはル=コルビュジエさえコンペで落選し続けたのだから、モダニストとは社会改造の野心なくしては看板が成り立たないのだと思う次第である。
桑原甲子雄 写真展カタログ(1995)

東京ステーションギャラリーで開催された、1935~86年までの生涯に渡り東京で街頭写真を撮り続けてきた写真家の回顧展カタログである、戦前が4/5、戦後が1/5で、副題に「東京・昭和モダン」とあるように、興味は戦前の1930年代の世相である。例えば、当時のそれまでの服装や仕草は、写真館で衣装を着てポーズを取ることで終始していたが、それは理想であると同時に作り物めいた内容を含んでいるのが常である。しかし桑原氏はフィールドに繰り出て、街のなかを歩くありのままの人物や風景を写真におさめる。常に変化している東京なので、この時期に切り取られた風景は、まだ和服の多い下町の庶民から、江戸川の西側の高級サラリーマンなどの違いも写し取っており、その平等な眼差しは、大空襲で焼野原となった戦後の東京の人々にも向けられているのは、実は驚くべきことなのだ。
日本のアールデコ(末續尭 著)

こちらは日本の商業デザインもしくは工芸品を集めたコレクションだが、時計やラジオのように性能的に実用性の低いアンティークから、化粧品のガラス瓶やマッチ箱の図案など中身がカラになれば捨てられるようなものまで、網羅的に丁寧に紹介している。
冒頭で編集者がボヤいているが、高級な工芸品はともかく、日用品にも高雅で繊細なデザインを施した当時の日本人の感性は、その後の合理主義的なパッケージとは裏腹の、真心のこもった感覚を引き起こす。
昭和モダンキモノ(弥生美術館 編)

竹久夢二美術館と隣接してレトロ・ファッションの企画展を継続している弥生美術館のカラーブック。モガが往来した昭和初期の頃でも、統計では9割が和装だったというので、実はこちらのほうが昭和モダンの本流なのである。とはいえ、モダンな文様から大胆な色使いが増えたのは、絹や木綿という天然素材に加え、レーヨンなどの化学繊維が使用され、価格的にも自由度が出たからでもある。同じ時期にハワイのアロハシャツが生まれており、これも日本の着物素材の端切れを子供用のシャツに仕立てたことから始まったと言う。1930年代のアロハシャツは別注でエキゾチックな文様を彩った生地を使っており、そうした流れの中で読み解くと、和製モダンの色合いも深みが増すものと思う。


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モガモボとは、大正時代に洒落た洋服を着た都会のモダンガール&モダンガールのことで、欧米のアールデコが一気に流入してきた。ちなみに一見華やかにみえるアールデコだが、世界大恐慌と背中合わせの時代を反映して、ドレスからストッキングを絹に替えてレーヨンやナイロンをはじめとする化学繊維が増えたし、宝石はイミテーションのガラスやプラスチックを多用したコスチューム・ジュエリーが登場し、シャネルもディオールも例外ではなかった。コスチューム・ジュエリーは当時からスワロフスキー社が手がけており、今でも手ごろな値段で野心的なデザインを発表し続けている。ちなみに21世紀初頭に携帯電話をプラスチックのキラキラで飾るのを「デコる」と言ったが、これはアールデコから派生した言葉である。

1920年代のレーヨン生地ポスターとウォルドーフ・アストリア社の服飾

チャールストンやリンディポップに興じる若者たち

日本にもモードの嵐が吹き寄せた

以下は1920年代を跨いだファッションやアートの書籍だが、クラシカルからモダンまで、意外にゴチャまぜの状態でせめぎ合っていたようにみえる。それは現代でも同じで、ひとりの人間のなかで先進的と保守的のバランスを取るのが重要なのだと思う。

Everyday Fashions of the Twenties:
As Pictured in Sears and Other Catalogs

1920年代のSears通販カタログの服飾のページの抜粋で、メトロポリタン美術館衣装研究所キュレーターであるステラ・ブルームが監修して、パリやニューヨークの最先端モードではなく、より廉価で量産的に頒布された服装を揃えている。とはいえ時代が時代なだけにデザインはハイレベル。特に女性の服装が解放されていくのは、言葉で知っているよりも、この本のように年代ごとに並べていくと、より分かりやすくなる。これの続編の1930年代は、通販でしか買えないパーティードレスやスポーツウェアという風にカテゴライズされているので、現在の日本の百貨店の婦人服・紳士服売り場に近い価値観に集約されていく様子が分かる。残念なのは男性ファッションに関するページが薄いことだ。デパートの売り場よりも貧弱なのはキュレーターの興味の範囲外だったとみえる。
コスチュームジュエリー大全

私のようなケチくさい人間には場違いのような気がするかもしれないが、この冊子に出てくるシャネル、ディオール、ジバンシーなど、アウトレットショッピングに軒を連ねるような累々たるアパレル・ブランドは、戦前の大恐慌時代を凌ぐのに、ガラスやプラスチックといったイミテーションのアクセサリーを手がけていた。やがて経済が立て直すと本物の宝飾品をオートクチュールで制作しているが、かつてのイミテーションを手がけたのが現在のスワロフスキー社である。私自身は妻にゴマ粒ほどのダイヤよりも、しっかりデザインされたスワロフスキーのアクセサリーを勧めるのだが、何せ見慣れないゴージャス感に気後れする曲者である。ここでの紹介も単品をみるだけでは判断の付かないパーツ写真ばかりで、どの衣装に合わせるのが良いかやはりパッとしない。モデルさんに付けてもらうなり、もう一歩工夫がほしいものだ。
華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界(海野弘)

1909~29年までパリで一世を風靡したバレエ・リュスの、貴重な衣装デッサン、ポスター、ダンサーの写真、舞台レイアウトなどを演目ごとに紹介する大著で、なかなか得難い内容のものとなっている。
衣装デザインはモダンバレエとは言いながら、アラブ趣味とお伽話を実体化したコスプレなのだが、当時の仮面舞踏会のような催し物では、こうした衣装を着て参加する様子がみられたことから、いわゆるパリコレのようなファッションショーの最先端のようにみられていたと思われる。
バウハウス1919~33展カタログ(1995)

西武セゾングループで企画した回顧展で、単なる作品展示というよりは教育機関としてのバウハウス(1919~33)を総合的に紹介しようとした野心的な内容だった。そのため各教室の授業内容毎にエリアを分けて、スケッチや練習課題、白黒写真といった資料的なものがドッサリ展示されたので、本カタログをみてようやく理解が深まったという感じ。展覧会場では、一流の芸術家が工業デザインを一般論として展開する資料が並ぶのだが、それがアーチスト独自の芸術論なのか、それとも後世に引き継がれるのか、あとさきの無いまま直球ストレートで行われるので、歴史的評価の定まった芸術作品を鑑賞する癖のついた人にとっては、あまり意味のない内容だったかもしれない。実際には14巻に分冊されたバウハウス業書よりも、ずっと繊細に授業でのプロセスを追跡しているので、今もって得難い内容だったと思っている。


一方のモボのほうは、スーツを着たサラリーマンの創生期で、最初は官邸に出入りする業界からスタートしたが、銀行マンに舐められては資金振りがあやしくなると意気込んで、商社務めの事務職までスーツを着だしたのがはじまりだ。世界大恐慌の起きた翌年のSears通販カタログ1930年秋には「倹約はその日の精神である。無謀な浪費は過去のものだ。」と記されていた。現在のサラリーマン・スーツの派手すぎず慎ましやかな服装がドレスコードとして定着したのだ。じきに女性の事務職員も増えると、スカートを履いたスーツも現れ、男女ともに身なりはスマートに整えていながら、派手さはなく謙虚さを滲ませた服装が定着した。この頃の風習をドレスコードと言って、着ているスーツの格付け(値付け)をしていたのが少し前の20世紀末だった。例えば、レジメンタルなネクタイの斜め縞の向きのどっちがブリティッシュでアメリカンだなんてどうでもいい。私はその世界には入る気はさらさらない。というか、そんなに懐が豊かなわけではないのだ。


昔のおじさま世代の憧れた映画スター(絶対にこんな風にはなれない)
映画のワンシーンのようなジュリーの艶姿(映画「カサブランカ」「愛の嵐」)

ではモボの紳士服はこれで打ち止めかというと、例えば、ニッカーポッカーズ(裾をブーツの中にくるんで腿を膨らませたズボン)は、イギリスで乗馬、狩猟、ゴルフなどアウトドアのスポーツで着用するカントリースーツから派生したが、国境を巡って主戦場が野戦となることの多かった軍服としてもトレンドだった。このブカブカのズボンは、モボたちの間ではセーラーズボン(「おいらは村中で一番~モボだと言われた男!」で有名な洒落男に出てくる)と呼ばれ、海兵隊が着ていたズボンを差している。いわゆるパンタロンに近いラッパ型のズボンだったのだが、オックスフォード大の学生たちの間では裾の広さを争う風に流行っていて、やがて女性のジャンパースカートに解消されていった。こうしたドレスコードを免脱したファッションについて、アメトラ&アイビー好きの間ではあまり好まれないのは、洒落男の悪い見本と思っているのと、1930年代の風変わりな風景を理解できないからだろう。

海兵隊のセーラー服、女子のセーラーファッション、オックスフォード大の流行服

21世紀も四半世紀経ってのラルフローレンのクラシック回帰は、流行りそうで流行らなかったが、私などは一周遅れのトップランナーのように思っている。流行らない理由だって? そりゃ街に出ても一人だけ重装備で浮いてしまうから。ときおり通勤ですれ違いう人の目線がキツイなぁ、と思うときもあるが、そういうときは偉そうに忙しいフリしてんじゃねえぞ、と心にグッとこらえて通り抜ける。まぁ、馬子にも衣装と言いますが、着るからにはそれなりに勇気も必要なのでございます。(ラルフローレンはお高いので、別の安物でガマンしますが)

老舗のラルフローレンもOriginalと称してクラシック回帰に走ったのだが

とは言いながら、ゴルフも乗馬もしない草食系サラリーマンが、どんな恰好をしても別にとやかく言うような者はいない。というか、もう𠮟咤激励だとか言って何を言われたところで変わるような要素は1ミリもないのだ。だったら好きなようにやれば良いと思う。




【古き良き時代よりちょっぴり新しい音楽を】

さて、この1920~30年代の狂乱のモダニズムを音楽にして堪能しようというのが、今回のお題である。とはいえ、こうしてCDを掻き集めてみると、戦前なんて一括りにするにはバラエティに富み過ぎていて、身分や国籍、貧富の差なんてどうでもよくなるのだが、実際には音楽を聴くために現場に行くと、それらを聴く人たちは分断されていた。しかし差がないのは、音楽を聴く人たちのもつ幸福の価値である。その場その時の楽しみのために音楽を求める気持ちは一緒だと言いたい。

摩天楼のニューヨーク 、シカゴ、ハリウッド
19世紀はヨーロッパの一部として機能していたアメリカも、20世紀に入るとストリート文化が急激にアメリカらしさを演出するようになる。ここではラジオや映画というマスメディアの働きにより、国民的なものへと定着していった時代の音楽を取り上げる。それまでは、ジャズはニューオリンズ、ブルースは南部デルタと、閉鎖的な地域性に留まっており、名目上はレイスミュージック(人種別の音楽)という分類であったが、アメリカ的な音楽として注目されるようになったのだ。一方で、アールデコが一番流行したのはパリではなく、実はニューヨークのような新しい国際金融街であったし、世界大恐慌の発端にもなった場所でもあった。
シナトラ・ウィズ・ドーシー/初期ヒットソング集(1940~42)

「マイウェイおじさん」として壮年期にポップス・スタンダードの代名詞となったフランク・シナトラが、若かりし頃にトミー・ドーシー楽団と共演した戦中のSP盤を集成したもので、RCAがソニー(旧コロンビア)と同じ釜の飯を喰うようになってシナジー効果のでた復刻品質を誇る。娘のナンシー・シナトラが序文を寄せているように、特別なエフェクトやオーバーダブを施さず「まるでライブ演奏を聴くように」当時鳴っていた音そのままに復活したと大絶賛である。有名な歌手だけに状態の良いオリジナルSP盤を集めるなど個人ではほぼ不可能だが、こうして満を持して世に出たのは食わず嫌いも良いところだろう。しかしシナトラの何でもない歌い出しでも放つ色気のすごさは、女学生のアイドルという異名をもった若いこの時期だけのものである。個人的には1980年代のデヴィッド・ボウイに似ていなくもないと思うが、時代の差があっても変わらぬ男の色香を存分に放つ。
ジャイヴをもっとシリたいか?/キャブ・キャロウェイ(1940~47)
(Are you HEP to the JIVE?)

映画「ブルース・ブラザーズ」で健在ぶりをみせたキャブ・キャロウェイをどういうジャンルに含めればいいかを正確に言い当てることは難しいだろう。ジャズだというとエリントン楽団をコットン・クラブから追い出したと疎まれるし、R&Bというにはビッグバンド中心で大げさすぎる、Hip-Hopのルーツといえば内容が軽すぎる、いわゆるジャンピング・ブルースというジャンルも他に例が少ないので、そういう言い回しがあったんだと思うくらい。でもそんな検証は実に無駄だし、ラジオから流れる陽気な調べは、放送禁止用語を軽々と飛び越えキャロウェイが連発する黒人スラング辞典まで生まれるような現象まで生み出した。そういう俗っぽさからブルースが心を鷲掴みにするまでそれほど時間はかからなかっただろう。
グレン・ミラー楽団&アンドリュース・シスターズ
チェスターフィールド・ブロードキャスト(1939~40)

戦中に慰問団を組んでノルマンディー上陸作戦のときには、勝利の旗印としてラジオからグレン・ミラー楽団が音楽を流したと言われるが、それはジャズがナチス・ドイツから有色人種による退廃音楽として排除されていたからでもある。白人のジャズ・バンドというのは、二重の意味で血統主義を否定するプロパガンダとなった。
これは1942年に楽団を解散する前のライブ音源で、タバコ会社のチェスターフィールドが提供した無料コンサートで、当時はラジオで放送されるコンサートでは観客からお金を取ってはならないという法律があり、これは抽選で入場券の当たった人が観衆となっているが、スウィングジャズの盛況ぶりも伝える記録となっている。
ガーシュウィン・プレイズ・ガーシュウィン(1925~36)

アコースティック録音のラプソディー・イン・ブルーからはじまり、フレッド&アレール・アステア姉弟とのミュージカル・ソング、そしてポギー&ベス、パリのアメリカ人、ピアノ協奏曲など、作曲家であると共にピアノ奏者としても一門の腕前だったガーシュウィンの多面的な活躍ぶりを記録したものだが、例えばミュージカルの多くはロンドンでの録音であったり、フレッド・アステアの姉アデールはイギリスの貴族と結婚するなど、およそジャズ界とは一線をおいたセレブな成功が、彼をクラシック作曲家として紹介する一端になっていると思う。しかし何でもないラグタイムのリズムを切れよくシンコペーションで切り返すなど、実はスウィング・ジャズのエッセンスを正しく継承している達人でもあったのだ。英パールの復刻は高域が丸い音質で、ずっと以前から苦手だったが、今回はラジオ球の軽いノリでようやく輝きを取り戻した。
ファッツ・ウォーラー/全録音集Vol.2(1929~34)

ニューヨークのジャズシーンを牽引し、ラジオに映画に活躍したこのピアニストの芸風をひとつに定めるのは難しいだろう。ラグタイムからスウィングジャズまで、求めに応じて幅広い要求に応えられる、いわばポピュラー音楽の生き字引のような存在だからである。1929年はミュージカル「ホット・チョコレート」の作曲、1930年からはCBSラジオに出演、この時期に禁酒法時代のナイトクラブ「ホット・フィート・クラブ」に定期出演、1931~33年はNYを一端離れてシンシナティのラジオ番組「ファッツ・ウォーラーズ・リズムクラブ」に出演し、「ホット・フィート・クラブ」が閉鎖された後にまたニューヨークに舞い戻ってきて、RCAビクターとのレコーディング、CBSラジオでの出演と二股をかけた売れっ子になった。こうして大量に聴くと、かえって器用貧乏のように聞こえてしまうのだが、演奏の安定度からみれば、ファッツ・ウォーラーの盤を買っておけば間違いないという類のものとなる。ここでは無声映画時代のシネマ・オルガンまで動員して、失われた時代を慈しむ感じが出ていとあはれだ。
ハリウッド玉手箱(1927~55)

戦前の映画主題歌のコンピだが、これをジャズに絞って限定すると大きな損失にあたる。それはエンターテインメントの本質に触れるからである。最初のトーキーとして有名な「ジャズ・シンガー」さえ、アル・ジョンソンの出で立ちは大道芸だったミンストレル・ショウと変わりないものだし、あらゆる音楽的なルーツを吸収していった移民社会の縮図であるアメリカン・ポップスの根幹に関わる問題だからだ。ここではジャズ=ポップスの境界線が曖昧だった時期のアメリカらしさとは何か、という広がりがあると理解しておこう。
この企画の元を辿れば1974年に公開された映画「ザッツ・エンタテインメント」に触発されて、この手のSP盤蒐集では世界でも有数のコレクターである野口久光氏が厳選して、米デッカの映画主題歌を解説も含めて復刻したアンソロジーである。実はSP盤だけでこれだけ集まったものは、フィルムライブラリーを所有する当のアメリカにもなく、サウンドトラックの保存状態と比較しても意外に貴重だということに最近になって気付いた。渡米した浮世絵のコレクションと交換してあげても良いくらいの価値は十分にあると思う。復刻時期が古いので「針音なし」の高域の丸まった音声だが、再生機器のほうを整えるとアメリカンなサウンドが詰まっていることに気付く。玉手箱とは言い得て妙なネーミングであり、懐かしいだけで留めずに、出来立てホヤホヤの料理のように味わいたいものだ。
Good time Blues(1930~41)

戦前のジャグ・バンドを中心に、大恐慌を境に南部からシカゴへと移動をはじめた時期のジューク・ジョイント(黒人の盛り場)での陽気な楽曲を集めたもの。バケツに弦を張ったベース、洗濯板を打楽器に、水差しをカズーにしたりと、そこら辺にあるものを何でも楽器にしては、大恐慌を乗り越えようとたくましく生きた時代の記録だ。よくブルースがロックの生みの親のような言い方がされるが、ロカビリーの陽気さはジャグ・バンドから引き継いでいるように思える。ソニーが1988年に米コロムビアを吸収合併した後に、文化事業も兼ねてOkeh、Vocalionレコードを中心にアメリカ音楽のアーカイヴを良質な復刻でCD化したシリーズの一枚。
ホワイト・カントリー・ブルース(1926-38)

戦前の白人ブルースなんて猫マタギの代表選手だが、意外にも伝統のあることがこのコンピから分かる。作詞作曲をこなすフォーク歌手としてジャンルを形成する前は、いわゆる有名曲を個性豊かに歌う、ストリート音楽の片隅を占めていた。実際にはパフォーマンス・アートとしてのロックの在り方と深く結びついており、ヨーデル節に混ざって響くスライドギターの妙技に酔うのも一興である。
Mississippi Juke Joint Blues (9th September 1941)

1941年のミシシッピ州コアホマ群クラークスデール市の黒人たちが集う5つの店(ジューク・ジョイント)にあったジュークボックスに詰まってたレコードのリストに載っていたSP盤を集めたコンピレーション・アルバム。場所が場所だけに素朴なデルタブルースを集めたものかと思いきや、はるかシカゴやニューヨークのジャズバンドを従えたブルースがどっさり詰まっていた。なので聞き流すと当時のラジオ番組を聴いているような錯覚に陥る。この手の復刻盤は音質の悪いことが多いが、これは愛情をいっぱい注いだ良質な復刻である。
ストコフスキー&フィラデルフィア管名演集(1926-41)

芸歴が異常に長く、ラッパ吹き込み時代からステレオ録音まで、ともかく録音技術の進展にも眼がなかった御大の一番輝かしい時代の記録であるのだが、復刻が延々と進まないのは、フィラデルフィア管の去り際があまりに悪かったとしか言いようがない。今ではラフマニノフとの協奏曲ぐらいしか聞けなくなっているが、「新世界」や「シェヘラザード」などは、これが決定盤だと言われたのだが、編曲魔でもあったために色眼鏡で見られ、楽壇からは変態扱いされているのは残念だ。このCD4枚組には、バッハやリストのマスタピースに加え、スクリャービンの4,5番交響曲の初録音なども含まれており、シカゴもニューヨークもイマイチな時代に、ともかく整ったかたちで聴けるというのが如何に貴重だったかを知ることができよう。ストコフスキーが去った後は、RCAの切り札はしばらくトスカニーニ/NBC響だけになったのだから、アメリカ楽壇の印象に大きな欠落を与えているのは否めない。
ロジンスキ/クリーヴランド管 コロンビア録音集(1939-42)

コロンビアレコードがソニー傘下にはいって、一番幸福だと思えるのが古い録音のデジタル・アーカイヴである。詳細は分からないが金属原盤から復刻したと思わしき鮮明な音で、本当に1940年代初頭の録音なのかと思うほどである。しかしLPでもあまり出回らなかったマイナーなアーチストを丁寧に掘り起こし、文字だけなら数行で終わるようなクリーヴランド管の原点ともいうべき事件に出会ったかのような驚きがある。ロジンスキは渡米後しばらくはストコフスキーの助手を務めたが、1933~43年にクリーヴランド管の音楽監督を務め、1936年にはトスカニーニに魅入られNBC響のトレーナーを務めた。戦後のウェストミンスター録音での優雅で無駄のない芸風とは打って変わっての激しく燃え上がる演奏が聴ける。録音として優秀なのは「シェヘラザード」だが、個人的に目当てだったのは初演者クラスナーとのベルクVn協奏曲で、英BBCでのウェーベルンとの共演では判りづらかったディテールが、最良のかたちで蘇ったというべきだ。
花の東京、浅草レビュー
この時代の東京、大阪、名古屋は、重工業と国際貿易の発展により、欧米でも最新のモダニズムを急激に吸収していった。例えば、東京は隅田川を境に、西は端正な金融街と住宅地帯、東はやや雑多な工業地帯と分かれており、その境にあった浅草がレビューショウや映画館など文化的な中心地にあった。皇居や官公庁の近い銀座や日本橋のほうは、地下鉄、デパートなど、高級な商品を扱う街へと発展していく。東京は今でも発展途上のように、新しいビルディングを建て続けて模様替えを続けるため、歴史的な蓄積のないまま変化を追い求める都市像が定着している。では、ここに残された記録はその亡骸なのか? そういうことを問いかける前に、芸能の発展史ではなく、人間の生き様のようなエンターテイメントの本質を問うことが重要であると思う。
雨の中に唄う 二村定一とジャズ歌謡(1928~34)

浅草オペラからレビューショウに駆け抜けた二村定一の記録である。日本語で洋楽をやるということが、この時代の最先端であり、浅草の水族館のような舞台小屋のほか、電気館のような映画館でも上演され、セーラーズボンを着て舞台袖から登場して、流行歌を颯爽と唄う姿がみられたという。バックを務める軽妙なジャズバンドがちゃんと鳴り響くのが、オーディオでのひとつの山場である。どうして1934年(昭和9年)かというと、目に余るエログロナンセンスの舞台上演や接待カフェーに対し、官憲が取り締まりの条例を敷いたからである。より家庭的な笑いに寄せたエノケンへと時代は移っていく。
歌うエノケン大全集(1936~41)

浅草でジャズを取り入れた喜歌劇を専門とする劇団「ピエル・ブリヤント」の記録である。この頃はカジノ・フォーリーを脱退後、松竹座に場所を移して、舞台に映画にと一番油の乗っていた時期となる。映画出演の多かったエノケンなので、SP盤への録音集はほとんど顧みられなかったが、こうして聴くとちゃんと筋立てのしっかりしたミュージカルになっていることが判る。「またカフェーか喫茶店の女のところで粘ってやがんな…近頃の若けぇもんときた日にゃ浮ついてばかりいやがって…」とか、電話でデレデレする恋人たちの会話を演じた「恋は電話で」など、時事の話題も事欠かないのがモダンたる由縁である。録音が1936年以降なので、「ダイナ」や「ミュージック・ゴーズ・ラウンド」の最新のジャズナンバーのダジャレを交えた替え歌(サトウハチロー作詞)が収録されているのもご愛敬。
中山晋平の新民謡

戦前の昭和史に残る珍現象として、東京音頭にはじまる音頭ブームで、世界恐慌の煽りをうけて霹靂していた昭和7年に、日比谷公園で5日間にわたり大盆踊り大会をするというので、口コミで宣伝が広がり浴衣姿の大衆が一気に押し寄せたという。この主な仕掛け人が西條八十の作詞による「~音頭」の作品群である。中山晋平の楽曲では、童謡、流行歌に続く3番目の曲数を誇るが、一番売れたのが音頭物であった。それ以前から野口雨情による「須崎小唄」から新民謡運動というのが始まっていたが、それこそ電蓄をかついで地方販促に走ったというので、ビクターとしてもドル箱だったといえよう。
ニッポン・スウィングタイム 戦前のジャズ音楽Vol.1-2

昭和といえばエログロナンセンスだが、これはもう少し真面目なジャズナンバーを集めたCD。でもラジオで鳴っていたなんて誤解しないでほしい。一番需要のあったのは、いわゆる不純な飲食店だったカフェーやバーであり、女性店員と肌を寄せ合い踊るための音楽として好まれたのだ。酒とタバコと女の日々が、一番モダンなものだと信じられた時代の名残である。しかし、これが映画音楽とも連動して、映画の一場面のように甘い一瞬のように現れては消えていくさまは、少し癖になりそうな感じである。銀幕のスターは永遠に刻まれるのに、これを聴いて浮かれていた人たちは、どこに行ったのだろうか?
花の都パリ
パリはどちらかというと、ベルエポックの時代のほうがふさわしいのだが、その時代からエッフェル塔のようなモダニズムが横行していた、いわば先進的な文化都市でもあった。しかし純粋なパリの音楽というのはなく、むしろ国際的な人的交流が生み出したエキゾチックな移民たちが庶民の娯楽に供していたというのが実体である。国際都市だけあって、パリを通過して生まれたモダニズムに目を向けると、ロシアバレエ団、パリのアメリカ人、浅草レビューなど、その影響が広範囲に広がっていることが分かるだろう。
ジャンゴ・ラインハルト/初期録音集(1934~39)

ジャズ・ギターの分野では知らぬ人のいないミュージシャンだが、初期にホーンやドラムを使わないストリングだけのフランス・ホット・ファイヴを組んで、欧米各地を旅して演奏していた。フランス系ロマ人という民族的背景をもつ理由からか、神出鬼没のようなところがあり、録音場所もフランス、イギリス、アメリカと多岐に渡り、なかなかディスコグラフィの整理が難しいミュージシャンの一人ともいえる。これまでも最晩年にローマでアセテート盤に吹き込まれたRCA盤「ジャンゴロジー」でわずかに知られるのみでなかなか復刻が進まなかったが、この英JSPの復刻CDは、音質も曲数もとても充実しており、スウィングジャズ全盛の時代にギターセッションを浸透させた天才ギタリストの魅力を十二分に伝えている。
アコーディオン・ド・パリVol.1~3(1915~41)

今やパリの風物詩となったミュゼット弾きだが、歴史は意外に新しく、19世紀末にオーヴェルニュとイタリアの移民たちがせめぎ合いながら生まれた下町のダンスホール(バル)の音楽だという。このCDは国際的なアコーディオン奏者の小林靖宏さんも監修に噛んでいる日本企画物で、ギュス・ヴィズールやメダール・フェレロなどの名手の録音を集めている。洒脱とはこういうことを言うのだという見本のような演奏だ。
Biguine, Vol. 1-Biguine, Valse et Mazurka Creoles1929-1940

ほとんどがOdeonレーベルの収録で、色艶がとても良く、在りし日のパリでのビギン・ブームが偲ばれる。世界恐慌の後の右翼勢力の台頭による政治的混乱に続き、1940年からのナチスドイツ占領により、パリのレビューを彩っていた移民色は一気に減退した。さらに戦後になると植民地の独立運動とともに移民社会への視線は冷たくなる一方で、シャンソン一色に染まったのだ(映画「シェルブールの雨傘」を観ると歴然としている)。下のピアソラのタンゴとの比較で良く判るが、クラシックほど録音年代の差は感じられず、何よりも移民クレオールたちが奏でる音楽の勢いがよい。色彩感の強い木管、シンプルでキレのいいパーカッション、おだやかな金管など、混血文化の粋が一気に見渡せる。どこからか音楽が聞こえ、次第に踊りの輪に加わっているかのような感覚にとらわれる。この押し付けがましさのなさは、ジャンゴ・ラインハルトにも通じる、ヨーロッピアン・ジャズの系譜に当てはまる。
モダン都市のクラシック:ベルリン、アムステルダム、ロンドン
クラシック音楽は、固定化された出版楽譜を元に演奏するため、18世紀からの音楽がステージに乗って蓄積されていく、他の音楽にない特徴をもっている。これがさらに促進されたのが、レコードの存在であり、1920~30年代という時代には、ロマン主義と新即物主義とが交錯しながら、演奏スタイルの研鑽を追い求めるようになっていった。名盤、決定盤という言い方は、誰がクラシックの名曲を感動的に奏でるかというコンペのようなものであり、以下の演奏も当時評判が良かったものを優先して復刻されている。一方では、超絶なロマンティシズムを演じるマエストロにしても、ちゃんと演奏技術の安定性を保つため日頃の鍛錬を怠らない、いわば機能主義の傾向が一番表に出てくるのだ。これはモダニズムをリードしたストラヴィンスキーやバルトークのような作曲家にも言えて、実は作曲家本人たち自身が演奏技術に長けた、有能なキュレーターであったし、演奏家として知られるマエストロでも作曲もこなすという人材も豊富だった。19世紀末にマーラーが嫌われたように、オーケストラの技術が未熟だった時代に、急激な機能主義が立ち上がったのは、レコードの影響が欠かせないように思える。
メンゲルベルクの芸術(1926~44)

英コロンビア、独テレフンケンのSP盤と、蘭フィリップスのライブ録音をほぼ網羅しているので便利な31枚BOXで、音質のムラもなく聴きやすい点も◎。むせかえるロマン主義的演奏と言われ、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウスなど名作曲家からの信頼も厚かった名指揮者だが、戦前の名声に比べ戦後は急速に忘れられていったが、こうして聴くとベルエポックのアールヌーヴォーのような絢爛とした装飾の施された演奏スタイルであったことが分かる。収録曲は第九や悲愴の別テイクをいくつも丁寧に集めている反面、ライブでのマタイ受難曲、フランク交響曲、バルトークVn協奏曲(初演ライブ)、マーラー若者の歌が抜けていたり、逆にブラームス3番は英コロンビア盤ではなく1944年のマグネトフォン・コンサートであったりと、アレ?と思う部分もあるが、十分にお腹一杯になる内容である。
クライスラー愛奏曲集(1926~38)

ともかくヴァイオリン曲といえば、ハイフェッツのツィゴイネルワイゼンとクライスラーの楽曲というくらい、知らぬ人はいないぐらいの人気だった。それこそ耳にタコができるくらいお目にかかったのだ、改めて聴くなんてないと思っていたが、やはり聴いてみるとこの時代を語る上で王道であることが分かる。手持ちのものはHMV時代を中心としたGRシリーズのものだが、個人的には試聴環境がようやく追いついた感じで、ゆったりと鑑賞できるようになった。
レハール&タウバー/オペレッタ名場面集(1926~34)

近代オペレッタで最も成功した作曲家レハールと、ウィーンの宮廷歌手だったリヒャルト・タウバーは共演の機会も多く、タウバーが英国に亡命し、レハールがベルリンに幽閉され筆を折った後も、二人の友情は晩年まで続いた。これはその蜜月の頃の記録で、フランス語のメリー・ウィドウから始まり、微笑みの国、ジプシーの恋など、本当は嬉れし恥ずかしの初恋の味のようなはずなのに、何か別れを惜しむような甘く切ない調べが連綿と続く。クラシックと言えども時代の空気が刻印されているのだ。
ストラヴィンスキー自作自演集
Vol.I(1928-47)、Vol.II(1930-50)

英Andanteの復刻したアンソロジー集だが、大半がパリ時代のSP盤で占めている。もちろんアメリカへ亡命後のNYPを振った力強い演奏も面白いが、やはりストラヴィンスキーの活躍の場はパリにあったのだと確信させる内容である。仏コロンビアに吹き込んだ演奏は、ややおっとりした感じもあるが、その柔軟なリズム運びは後の時代には得難いものがあり、それはこの時期にピアノ演奏まで精力的にこなしていたことも含め、ストラヴィンスキーの目指した新古典主義のフィジカルな部分に接する感じがする。ちょうど、油彩のモンドリアンを見るような、カンバスのエッジの厚みまでが作品のうちという面白味がある。
ヴァイル歴史的録音集1928-44

ジャズに共産主義というのが一番カッコいいと感じた時代の雰囲気を知るひとつの記録だが、うら若いロッテとの逃避行という箔まで付いている録音集。三文オペラで人気の出始めたワイマール時代が中心だが、ナチス政権の退廃芸術から逃れ、アメリカまで行き着くまでの作品を断片的に納めている。この17年間の時間の流れは、少女のようなロッテの声を薹が立ったを遥かに超えたオバさん声に変えて、酒場の女主人のようにしてしまったが、別に後悔などはない達成感が漂う。個人的には同じコミュニストで哲学者だったヴァルター・ベニヤミンを思い浮かべるのだが、マン・レイのようなダダイズムとも折り重なる。
バルトーク/ピアノ録音集(1929-45)

ピアノの名手だったバルトークがプタペスト、ロンドン、アメリカと住居を移動しながら残した録音の全体を網羅したフンガトロンの意地を感じる6枚組CDである。最初にヴェルテ=ミニョンのピアノロールの録音(これは普通にテープ収録)から始まり、その後にSP盤の復刻が続くが、ちゃんとトーンを合わせて丁寧に復刻していることが判る。このアンソロジーの面白いのは、自作自演だけでも初期の「アレグロ・バルバロ」から晩年の「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」まで器楽作品の変遷を画いている以外に、コダーイと共同で編曲したハンガリー民謡集なども律儀に網羅している点である。こちらはカントループ編曲オーヴェルニュの歌とやや似た趣があり、バルトークのピアノが絶妙なルバートを交えて非常に雄弁に背景を画いている。




カーネギーホール、コットンクラブ、ハリウッドのディナーショウ


パリのバル・ミュゼット、シカゴブルース、日本の盆踊りと社交ダンス

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さて、こうした古いSP盤の再生は誰しも機械式のラッパ蓄音機だと思うらしい。しかしアコースティックな蓄音機はRCAがビクトローラ社を買収した1925年以降は廃れ、ラジオとの相性が良い電蓄へと変わっていった。この時代のRCA製リボンマイクは戦後も引き続き録音スタジオで使用されたHi-Fi仕様である。ボーカルの発声にも影響を与え、ビング・クロスビーのようなクルーン唱法のスターを輩出したが、これはラジオで聴きやすいようにしたわけではなく、ジャズオーケストラのステージに混ざりながら、マイクを使って拡声できるPA装置が使われるようになったからだ。そのPA装置のパイオニアがマグナヴォックス社であり、そこから独立したシカゴのジェンセン社であった。ジェンセンのPAスピーカーにより、エレクトリック化されたシカゴブルースが生まれ、戦後アメリカのポップスは、ラジオ、レコード、コンサートと、全てが電子楽器を用いた楽曲へと変貌していく。その始まりは、アールデコの時代に芽生えていたのだ。

同じ蓄音機でも1910年代はこんな感じだったけども実際はもっと進展している

最初のラジオスターだったビング・クロスビーとラジオ広告

RCA 44型ベロシティーマイク

かくして1930年代後半の高級ラジオは、AM放送とはいえ10kHzまで再生できるHi-Fiラジオであり、WE社が大陸横断での有線(つまり電話線)でのHi-Fi音声の伝送に成功すると、フィラデルフィアやロスアンゼルスからの中継も可能になった。並み居るHi-Fiラジオは最高級ともなると、トーキー用のホーンツイーターをもった2wayスピーカーを備えるなど、そのままダンスホールでも通用しそうな音響性能を誇っていた。スウィングジャズの黄金時代とも言われた1930~40年代は、まさにラジオでのライブ生中継が支えていた。この他、ジャズクラブではコットンクラブ、オペラならメトロポリタン歌劇場など、チケットが高くて入場するのが難しい名門劇場でも、自前の放送設備を持ってラジオ中継に熱心な状況が生まれた。

ラジオ生中継でのベニー・グッドマン、写真館の必須アイテムだった大型ラジオ

Zenith社 Stratosphere 1000z(1935年)
Jensen製スピーカーでもトーキー用のウーハー2発にQ型ホーンツイーターが屠られた

Scott社 40球使った超豪華ラジオ:Jensen製3way5スピーカー搭載(1936)

派手な広告の割に堅実というか保守的だったRCAのコンソール型ラジオ(1935)
日本ビクターでもほぼ同じ仕様で製造された


WEによる有線での大陸横断Hi-Fi伝送実験
ストコフスキー&フィラデルフィア管の演奏をワシントンまで届けた






ラジオシティ・ホールNY(1932):次元の異なるデカさとゴージャス感
現在もエンタメの殿堂としてトニー賞の授賞式が行われる
舞台両袖に2台あるWurlitzer社製シアターパイプオルガン
アールデコ・デザイン:正面玄関のシャンデリア、ビル側面のレリーフ
ラジオ実況中継用コントロールルームは大わらわ

1930年代のもうひとつの出来事は、カトゥーン・アニメーションの登場である。1910年代にはフェリックス・ザ・キャットの無声アニメなどが存在していたものの、本格的に火が付いたのは1928年にトーキーとして初めて登場したミッキーマウスによる「蒸気船ウィリー」で、音楽と完全に同期したリズミカルなアニメーションを提示してからである。そもそもこの短編アニメは、子連れで映画鑑賞するときに子供が退屈しないように幕間に上映したものだ。ジャズエイジならではの規格外キャラだったのがベティーちゃんで、時代が時代だけに急激に受け容れられたが、アニメ=子供向けという道徳性もあり、衣装などに規制コードが掛けられるのも早かった。一方では、当時はジョークで済まされた黒人への風刺的表現(むしろ制作側は黒人文化へのトリビュートととさえ思っていた)が、1960年代を境に批判対象となり、ステレオ・タイプなジャズ的表現が蔑まされる事態にもなっている。少なくともビバップ以降の「創造的な」ジャズ・ミュージシャンとの待遇の違いはあまりに大きい。そもそもミンストレル・ショーをはじめとして大道芸(ボードビル)を起源とするアメリカ音楽全般に関わる問題でもあり、そこに音楽を生業とする人々がいる限りパフォーマンス・アートの価値がいきなり低下するようなこともないと思うのが持論でもある。


ミッキーもベティーちゃんも1930年代に特許登録された
独特のキャラでカトゥーン映画にも出た? ファッツ・ウォーラー(1943年アニメ)

ヨーロッパではクラシック音楽の実況放送も盛んだったが、高級ラジオならスーパーヘテロダイン、 2wayスピーカーが1930年代末に既に実装されており、ラジオ放送の好きだった作曲家シベリウスも愛用していた。森の中に建てた一軒家だったアイノラ邸に隠遁しながらも、海外の演奏家に労いの言葉を手紙にしたためたのも、こうしたラジオ放送のお陰であった。ちなみにイギリスでの演奏は隣国のスウェーデンまで海底ケーブルで繋がっており、それをラジオで流せば十分にHi-Fiだった。フルトヴェングラーが1940年末から最新鋭のテープ録音機でマグネトフォンコンサートを放送したのもこの時期だし、1951年のバイロイトの第九も実況中継がスウェーデン放送局でアセテート盤に収録されBISからリリースされたが、いずれも高音質である。

絵柄がかわいいヨーロッパのラジオ広告


フルトヴェングラーのマグネトフォンコンサート(Funkhausでのテープ収録)
ノイマン製CMV3型コンデンサーマイク

海底ケーブルを敷設する様子と電信ネットワーク

左:テレフンケン Spitzensuper 7001WK(1937年)、右:同 8001WK(1938年)
スーパーヘテロダイン、2wayスピーカーを装備した高級ラジオのはしりとなった
シベリウスは海外を含め自作品のラジオ放送を聴くのを楽しみにしていた


戦後ベルリンフィルの拠点ティタニアパレスト(1928):典型的なアールデコ様式
フリッツ・ラング監督「メトロポリス」(1927)と同時代の劇場
無声映画上演のためのパイプオルガン、オーケストラピットが備えられた

ただし、ラジオ放送がHi-Fiにまで拡張されたのは、ラジオ放送が広範に広まった1920年代からわずか15~20年間であり、どうも日本ではこの最初の頃の電話の声に近いラジオ音声の印象が強いように思われる。これは戦時体制に向かうなかで、敵国放送の傍受を恐れて国民に並四ラジオに限定して、政府側の情報統制を厳しくしたためでもある。あと1943年に行われた洋楽レコードの自主回収というのも、SP盤が戦前の遺物という記憶に大きく影響している。なのでSP復刻盤の電気再生(つまり高級電蓄の評価)が文化として定着しないまま放置されているのだ。

1939年製造開始の11号型3球ラジオ:47B真空管とマグネチックスピーカー

とはいえ、銀座や新橋の一流どころの喫茶店となると、ケープハート製の高級ラジオ電蓄を置いたり、米ブランズウィックのジャズレコードや米RCA製の電蓄(日本ビクターではない)を複数台置くなど、舶来品の贅を尽くした音楽喫茶も存在した。ちなみに喫茶ダットは音楽喫茶のはしりで、立原道造や永井荷風などの小説家たちが静かに時間を過ごすのに懇意にしていた店である。ケープハートの電蓄は、最初にオートチェンジャーを備えた電蓄で、最高級の400シリーズともなればWEのトーキー機器でも使われたJensen社のAuditoriumスピーカー(14インチ+18インチ!!)を奢っており、ちょっとしたダンスホールでも十分に通用する音響性能をもっていた。喫茶ダットにあったのは、その中で一番小型の200シリーズと思われるが、それでも8インチスピーカーが高級電蓄の旗印だった時代にJensen製12インチのコンサート用スピーカーを装備しており、性能としては十分抜きんでていた。新橋のデュエットもジャズ喫茶のはしりとして知られる名店で、写っている女給はレコードガールと言われる人たちと思われる。


ケ-プハート200型ラジオ電蓄(1936):上の喫茶ダットの奥に見える
オートチェンジャーとスーパーヘテロダイン、Jensen製A-12スピーカー、6V6プッシュ


ブランズウィック・レコードに属したジャズ・ミュージシャン
デューク・エリントン楽団、ビング・クロスビー、ボズウェル・シスターズ


このように、アールデコ=蓄音機というのは、ある種の郷愁のようなものであり、1930年代はラジオやトーキー映画という電気拡声機器が、この時代の特徴でもあったのだ。それも極初期の電話の音声と変わりない未発達な鉱石ラジオやマグネチックスピーカーのような類ではなく、現在でもほぼ同じ仕様のアンプとマルチウェイスピーカーをもつHi-Fiオーディオ機器が、実験レベルを越えて普通に存在していたのだ。そうでないように思えるのは、LPやステレオを売り込む際にネガティブキャンペーンによって、それが一般論にまで発展しているからである。




【骨董品にしないアールデコ・モノラルを思案】

上記のように戦前といえば80~100年近く経つわけで、もはや誰もが記憶のかなたの異世界で、下手するとマリー・アントワネット妃やヴィクトリア女王と同じアンティークと思われかねない状態である。これは冗談ではなく、ラッパ式の和製蓄音機を持ち出して、1930年代に電気録音された懐メロを聴く会などが存在することからも察しが付くように、その道の専門家であっても時代考証がいい加減な状態である。実際には、RCAやCapehartのような米国製ラジオ電蓄でも聴きごたえのある音質なのに、実に勿体ない話である。

ニッポノフォン35型(1910年代)、川上音二郎一座、竹久夢二の歌本

アコースティック録音から20年後には日本にも電化時代到来
浅草電気館の前の東海林太郎と山路ふみ子(1935年WE製のトーキー配備)
エレバム真空管の広告(1935):民放はまだなく時代は5極管に移行
ビクター新ラジオ兼電気蓄音機(1937):スーパーヘテロダイン10吋ダイナミックスピーカー

ひとつ苦言をを申し立てたいのは、SP盤やラジオ音源というと、どうも大勢の方々が電話の音声なみと勘違いしていることで、古レンジ1本のみで十分と断捨離状態にしている人が多い。実態はマルチウェイスピーカーでHi-Fiとしても聞けたのだ。それと、この音声規格は世界中で1950年代末まで標準的に生きていた。ただレンジが狭く古いのではなく、それまで電話音声と変わりない時代から抜け出し、Hi-Fiという言葉が出現した時代の音声規格なのだ。
レコードのアーカイヴを個人で大切にする英国では、ロンドンHMV本店でさえも1960年代初頭に78回転SP盤試聴コーナーが設けられ、33&45回転のLP&EP盤は買った人しか聞けないようにしていた。QUAD社が1960年代に製造していた33型プリアンプには、SP盤用の5kHzハイカットフィルターが装備されていたし、デッカの最高級電蓄ステレオ・デコラにはHMVの電蓄で使われた楕円スピーカーとコーンツイーターが使われ、五味康佑氏もSP盤の音もバランス良く鳴ると絶賛していた。アメリカのジュークボックスだって、1950年代中頃までSP盤が言葉のとおりシングル盤だったし、エルヴィス・プレスリーのデビュー盤もSP盤だったのだ。ジャケットに絵柄などなく、レコード会社のネームがプリントされた共通の紙袋にレコードは詰められ、中央のラベルでミュージシャンと曲名を判断するだけのものだった。

1950年代末に存在したHMVロンドン本店にあるSP盤コーナーと試聴ブース

アールデコ時代のジュークボックスはSP盤用だったが、今でもWurlitzer社製のジュークボックスは現在もポップスのアイコンになっている。その理由が、戦後の長い78rpmシングル盤の需要だったのだ。例えば、サン・レコードでデビューしたときのエルビス・プレスリーは、まだ78rpmのSP盤だった。それ以前のマディ・ウォーターズが吹き込んだ1940年代のシカゴブルースも同様である。1930年代からジュークボックスはダイナー、ダンスホール、ボーリング場など様々なところに置かれたが、Jensen C12Rは、こうした時代に片足を突っ込んでいた1940年代末に開発されたPAスピーカーのひとつであり、その後の1950年代のロカビリー世代まで製造が続けられた。つまり、1935年頃のHi-Fiラジオ(AM放送)とSP盤やトーキーシステムの規格は、1950年代末まで生き続けていたのである。ちなみに1950年代前半までSP盤とはシングル盤のことであり、LP盤が登場したときに区別するため名付けられた。それまでレコードと言えば78rpmの10インチ盤だけだったのだ。


Wurlitzer 1015、Rock-ola ST39は1940年代=78回転盤時代の機種
上:ダンスの休憩中にレコードに合わせ歌う女性たち
下:ボーリング場でミルクシェイクと音楽を楽しむ若者たち

アメリカのレコード店(1944)とラジオDJ(1954):共にSP盤を愛聴

SP盤=78回転シングル盤だった時代
エルヴィス・プレスリー(1955)、ジェームズ・ブラウン(1956)、美空ひばり(1955)

Wurlitzer 1015ジュークボックス(1946)

Shure社クリスタルカートリッジのカタログより(1947):Astatic L-12同等品


Aliedラジオ商会カタログのShure社78回転盤用カートリッジ(1955)
Shure 93の後継機W57のさらに代替品としてW78をエントリー(写真D)
78回転盤=スタンダード、33&45回転盤=マイクログルーヴと呼称
表裏交換なしのシングル針でガリガリやってたが後に批判を呼んだ


Jensenの1947年カタログ:既に同軸2wayを製造していたが旧規格も健在
エクステンデッドレンジは”新しい”電気録音規格に適応したスピーカー

しかし、この古い音声規格を正常に再生できるオーディオ装置は、今のオーディオ業界ではほぼ皆無だと言っていい。あるのは、SP盤用のモノラルカートリッジぐらいで、その後に続くプリアンプからスピーカーまで、現在のデジタル・ステレオ録音に合わせた仕様でしか造られていない。時折マニア向けに多彩なイコライザーカーブをもつフォノアンプでさえ、その先はフラットな周波数で再生するための方便であり、ちっともSP盤のアコースティックな理論には沿っていないのだ。このため原音主義の成れの果ては、アコースティックな蓄音機を引っ張り出して、それが本物だと言うのだが、それは電気再生のノウハウが欠如しているからに他ならない。割れずに生き残った希少なオリジナルのSP盤を消耗品として使うことが果たして正しいのだろうか? それは贅沢を通り越して、文化遺産が消滅していくのを手助けしているように思う。なので私のような一般人は復刻盤を聴くための努力が必要だと思われるのだが、現在にそんな手助けをしてくれるオーディオメーカーはない。実際には、SP盤とモノラルを再生するオーディオ機器は、1960年代から新たに開発されていないのだから、そういう時期を半世紀以上も過ぎてしまったのだ。

放送業界NAB規格でのイコライザーカーヴの設定(左:RCA、右:WE)

現在とは異なるトーンキャラクターを持っていた古いラジオの音

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このため、私はミッドセンチュリー・スタイルの見立てで、現在でも製造しているオーディオ製品を掻き集めたモノラル・システムを構築している。ミニワットのMT複合管で30cmフィックスドエッジ・スピーカーを鳴らすというもの。スペックは1.2W、100~8,000Hzという古いラジオとそのまま同じだが、そこから出てくる音は全然違う。まるでレコードの溝から埃をごっそり取り払った新鮮な感じで、いつまで聴いてもまるで飽きない。


我が家のスピーカーの周波数特性(灰色:コンサートホール、点線:映画館規格)
同インパルス応答:綺麗な1波形に整っている

我がモノラルシステムの大きな転機は、2015年にJensen C12Rという30cmフィックスドエッジ・スピーカーをメインに据えてから訪れた。これはエレキギターのアンプ用に復刻生産されたもので、ルーツは1947年のアルニコ磁石だったP12Rまで遡る。このP12Rは1957年ぐらいからRock-olaのジュークボックスに使われ始め、1960年代初頭にはC12Rがアメリカの3大ジュークボックス・メーカー(Rock-ola、Seeburg、Wurlitzer)で採用されていた、アメリカン・ポップスの世界ではレジェンド中のレジェンドなスピーカーである。その後に、昭和30年から作り続けているサンスイトランス、真空管時代と同じ仕様で造っている独Visaton社のコーンツイーター、共立電子と摂津工業がタッグを組んで昭和風キットに仕立てたECL82シングルアンプなど、私の嗜好に合うパーツを少しずつ集めて現在に至っている。


1960年代からセラミック磁石&コーンツイーターになったジュークボックス(Rock-ola Capri, 1963)
右上:ノッティングヒルのパブ「ピス・ハウス(小便小屋)」での一風景(1969)


かくして私はJensen C12Rとの出会いで、アメリカン・ポップスの世界に目覚めたわけだが、実は歌謡曲やクラシックでも相性が良い。いわゆるミッドセンチュリー時代のラジオ電蓄の仕様を踏襲しながら、各国のデバイスを組んで造られた無国籍な状態だからだと思う。例えば、アメリカ製はJensen(製造はイタリア)だけで、コーンツイーターとはチャンデバはドイツ、真空管ECL82は東芝、ライントランスはサンスイのラジオ用である。入り口側を固めるCDプレイヤーはラックスマン、簡易ミキサーはヤマハなどの日本製。これが特定のジャンルに隔たらない混血オーディオの秘策のように思うが、実は限られた予算で自分好みの音を練り上げていくと、音楽のジャンル分けに沿ったオーディオの切磋琢磨など、ほとんどコダワらなくなったというのが実態だ。

今更ながら、かつてのアメリカンとヨーロピアン=英国のサウンド勢力地図は、戦後のステレオ期からであって、戦前はアメリカとドイツである。しかしドイツのビンテージ製品は入手が極めて困難で、アメリカがその中心となる。ところが、当時のアメリカは移民国家としてヨーロッパの人々を惹きつけていたので、例えば私の愛用しているJensen社の創業者ピーター・ジェンセンはデンマーク移民である。さらにジャズやブルースが上流社会でもてはやされたのは、ラジオ放送のはじまった1920年代以降のことであって、純粋にアメリカンなサウンドというのは、実は幻のようなものなのだ。トーキーで名を馳せたWE、アルテック、JBLが御三家のような扱いだが、RCA Victor、Zenith、Capehartのような、ラジオ電蓄の音のほうが庶民には馴染みがあったとみていい。

私のモノラル隠居生活は、最初はラジオぐらいのもので十分だとはじまったのだが、そのうち大型電蓄かジュークボックスなみのものまで育った。しかし、ジュークボックスなみにグレードアップした我がモノラル・システムも、基本スペックはモノラル・ラジカセとそれほど変わらない。40年近くオーディオ趣味に携わっているが、結局1970年代のモノラル・ラジカセの音が忘れられずにいたのだと自戒している。最初はローファイ・モノラルの特使だと悪ぶっていたが、今ではホームラジオと変わらないスペックこそが、最高にニュートラルなオーディオ環境だと思っている。

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私のモノラル・スピーカーのチューニングは、約1mの近接距離でコンサートホールの音響に近似したカマボコ特性とし、タイムコヒレント特性を200~8,000Hzで綺麗に揃うように整えている。
実際の録音スタジオでのマイク位置は、精々30cmの近接位置であり、そうでないと録音の鮮度が保てない。それゆえに、Hi-Fiらしい音の定義は近接マイクの音そのものとされてきた。しかし、自然なアコースティックに沿った音響はずっとカマボコ型なのだ。逆に音の鮮度というのは、音が近くに聞こえる(音が前に出る)中高域の鋭敏さにあるのではなく、中低域と一体となったブレの無さである。低域に気を取られたスピーカーがラジオやテレビのアナウンスで胸声が強くモゴモゴするのは、重低音が遅れて良いという思い込みにかまけて、重たく反応の悪いウーハーにボーカル域を委ねてしまったからだとも言える。このバランスを取るのに苦慮していたのが、実は1940年代のPA装置だったというのだから、これは進化ではなく退化だったのだ。私のスピーカーから聴こえるのは、録音が古くても新しくても変わらない、自然な音楽の躍動感と楽器間のバランスである。


コンサートホールの周波数特性の調査結果(Patynen, Tervo, Lokki, 2013)


このアコースティックな高域ロールオフ特性について言及すれば、その最もたるのは英EMG社 Mark X型蓄音機で、これは電気録音が登場した後に、旧来のアコースティック録音を最高の音質で再生するように設計されたもので、これは電気録音用にフラット再生にしたクレデンザに比べても違いがよく分かる。アールデコ時代の録音は、針音のほうが激しい盤も少なくないので、旧来からイコライザーでハイカットする手法が取られてきたが、高域をただ切るのではなく、ロールオフさせるのが良いのだと判る。
とは言え、同じ頃に製造されていた巨大マグネチックスピーカー ウェスタンエレクトリック社の560型スピーカー(通称「陣笠」)の周波数特性と、我が家のモノラルシステムとを比べてみたら、あろうことかほぼ一致していた。この陣笠スピーカーは、駅の構内放送やラジオ放送局のモニターとして使われていたもので、日本でも品川駅の拡声器やNHKにも所蔵品として残っており、基本的に生マイクの音を拡声するためのスピーカーである。しかし、電気録音の開発と同時に現れた初期のマグネチックスピーカーと同じとは、我がモノラル人生に悔いなしである。

巨大なホーンをもつEMG X型蓄音機(1929~34)


通称「陣笠」ことウェスタンエレクトリック社560型スピーカー(1924~28)


アメリカ初の商業ラジオ局WWJ(1926)イギリスBBC(1927)
ワシントンのラジオ愛好家(1930)、クリーヴランド警察無線(1937)

わがモノラル人生の集大成は周波数特性が陣笠(赤線)とほとんど同じ・・・
これには一片の悔いはない

さらに ELECTRONICS 1945年11月号で、Shure社チーフエンジニアのB. B. バウアーが投稿した「クリスタルピックアップ補償回路」では、以下のように述べている。

   最近の録音の多くは、NAB規格に適合するように調整されたピックアップで再生すると、良好な音色バランスを示します。・・・シェラックタイプの家庭用レコードでは、サーフェイスノイズを考慮すると、再生時の高周波応答はNAB規格にほぼ従って低下します。後述する理由により、4,000~5,000cpsを超える周波数では、NAB規格で規定されているよりも大きな減衰が望ましい場合が多くあります。8,000cpsを超える市販レコードの有用な周波数成分はごくわずかであることは間違いありません。

アメリカ製の横振動テストレコードには、Audiotone No. 78-1(ターンオーバー250 cps)、Columbia Frequency Record No. 10003-M(ターンオーバー300 cps)、RCA Frequency Record No. 84522(ターンオーバー500 cps)などがあります。これらは家庭用レコードプレーヤーで使用することを目的とした78回転レコードです。放送試験用には、RCA Orthoacoustic No. 2485(ターンオーバー500cps)とWestern Electric Test Record TRL-100(ターンオーバー250cps)の33回転レコードが利用できます。
Shure研究所で測定された各社テストレコードの速度-周波数特性を図2に示します。与えられた録音曲線に基づいてテストレコードの再生特性を得る手順は、与えられたテストレコードの周波数特性から所望の録音特性を差し引くことです。結果として得られる曲線は、所望の録音特性に一致するように再生を調整した状態でテストレコードを再生したときに再生機構が示す全体的な特性です。この差し引きは、N.A.B.規格に基づいて、5つのテストレコードに対して行われました。結果として得られた曲線を図3に示します。


筆者は、家庭用レコードの再生において、リスナーが高域カットオフを好むかどうかを調べるため、数々のテストを行った。テストは、技術者ではないリスナー100人と、ラジオ技術者100人以上を対象に行われた。これらのテストの詳細は本稿の範囲外であるが、表Iに示した結果は、決定的なものではないものの、家庭用レコードの再生において、5kcpsを超える応答では、忠実度の向上に見合ったものではなく、サーフェイスノイズと歪みの影響が強調されることを示している。


そもそもNABカーブは、1942年にアメリカの放送用録音機(当時はアセテート盤)のために策定されたものだが、1948年にアンペックス社がテープ録音機を製造し始めたときにも採用したため、そのまま引き継がれた。RCA Frequency Record No. 84522(ターンオーバー500 cps)で特性が整っているのは、放送機器でトップシェアをもつRCAのレコードとの互換性を持たせて設定したことが伺われる。代わりに家庭用LP盤のほうはRIAAに変更されたため、録音機のみで標準的なイコライザーカーブとなった。1945年にShure社技術長が書いたこのレポートは、NABが高域の歪み改善のために策定したイコライザーカーブが、NAB策定以前に様々なイコライザーカーブで録音されたレコードに対し、好ましい音になるという結果を前提に、市販品のクリスタル・カートリッジ(Shure P87)でNABカーブをトレースできないか検討したものなのだ。
これらの結果をみると、家庭用レコードには聴感上好ましくないノイズや歪みを出すレコードが多いことから、NAB規格のイコライザーのように1kHzから10kHzで-16dBでロールオフするのが好ましいということが分かる。テストレコードとして公表されている高域がフラットというのは、プロのエンジニアにとっても71%ほど好ましくない音であったのだ。
当時のRCA放送局用モニタースピーカーだったMI-4400についても、ダブルボイスコイルで高域改善したものだったが、BBCが1947年に計測した周波数特性は、上記のカートリッジのものと近似していたし、1947年に開発された同軸2wayのLC-1Aにしても、クリスタル・カートリッジのマニュアルと同様の高域フィルターが付属していた。つまり入口から出口まで、高域がロールオフしたサウンドが1940年代までのデフォルトスタンダードだったのだ。


1939年 RCA MI-4400(64-A)

1934年 Double Voice coil
上の一般的なフルレンジと高域の伸びが違う

1936年 Combination Horn(150Hzでホーンの共振を制御)
 

RCA MI-4400B(1947年にBBCが計測)
低域:200Hzから-10dB/octで減衰、高域:3.5kHzを頂点に-10dB/octで減衰

NBCサンフランシスコ局の録音ルーム




RCA LC-1Aの周波数特性(1947年時点はSP盤用フィルター装備)スタジでの使用例(1952年)

私は人間が音楽に感動する要素は、人間の聴覚における社会性を育んできた言語的ニュアンスにあると思っている。つまり音楽の大方の情報は200~6,000Hzぐらいの範囲に納まっているのだ。そいういう意味もあって、私はスピーカーの機能性として、まず第一に人間の声をリアルに表現することを大事にしている。
そこをさらに踏み込んで、スピーカー径を大きめの30cmとしている。その理由は低音の増強のためではなく、200Hz付近までコーン紙のダイレクトな振動で音が鳴る点だ。コーン紙を平面バッフルに見立てて最低周波数を計算すると、10cmで850Hz、20cmで425Hz、30cmで283Hzとなり、喉音、実声、胸声と次第に下がってくる。あえて言えば、唇、顔、胸像という風に声の描写の大きさも変わってくるのだ。それより下の周波数は、エンクロージャーの共振を利用した二次的な輻射音になる。小型フルレンジでは胸声が遅れて曖昧に出てくるため、表現のダイナミックさに欠ける。
このボーカル域の要件を両方とも満たすのが、古いPA装置に使われていたJensen C12Rのようなエクステンデッドレンジ・スピーカーだ。喉声以上の帯域に対し遅れを出さずに胸声までタイミングが一致して鳴らせるようにするため、高域を多少犠牲にしても、スピーカー径を大きくすることで自然で実体感のある肉声が聴けるのだ。よくスピーカーの再生能力としてフルボディという言葉が使われるが、モノラルの場合はスピーカーそのものの大きさが等身大であるべきだと思っている。
それと、スピーカーのダイレクトな振幅をじゃましないために、エンクロージャーを後面開放箱にしている。これはJensen C12Rの共振尖鋭度Qts(最低共振周波数fo付近でのコーン紙の動きやすさを示す数値)がQts=2.5という、ガチガチなフィックスドエッジだから可能なことでもある。逆に通常のバスレフ箱用に設計されたQts=0.3~0.5ぐらいのフリーエッジでは、後面開放箱に入れるとフラフラして使い物にならないので注意が必要だ。例えば同じJensenでも高級なP12NはQts=0.7で、バスレフポートの間口が広い、古い設計のハスレフ箱に合ったものとなっている。


人体の発声機能と共振周波数の関係
 
唇の動きに見とれるか、顔を眺めてうっとりするか…
やっぱり胸元まで見ないと実体感が湧かないでしょ!
 
裏蓋を取って後面解放!


コンサートホールの響き(2kHzからロールオフしたカマボコ型)とボーカル域の発音(100~8,000Hzが一筆書きでスルッと鳴る)という、アコースティックで自然な音のニュアンスを究めれば、自ずとどの時代の録音もニュートラルに再生できるレベルに収まるようになった。これは古い録音に限ったことではなく、新しい録音でもそこそこ聴けるというレベルに留めるのがコツである。Hi-Fiの定義をフラットで広帯域というのは、20世紀に残された録音の幅広さと比べれば、本当は間違っている。

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私の場合、スピーカーだけは自作になっているのだが、デザインはいろいろと試行錯誤したあげく、モンドリアン風のカラフルなものになった。気分はミッドセンチュリーのつもりだったが、年代的には同じ「デ・スティル誌」で活躍したアイリーン・グレイにみるように、1920年代のアール・デコのさらに先をいくようなものだったらしい。とはいえ、こうした大胆な色使いは自作だからできると言えるだろう。



シュレーダー邸(リートフェルト1924)
モンドリアンのNYアトリエ(1940年代)

こっちは自作モノラルスピーカー


モンドリアンといえば、作品名にも「ブロードウェイ~」とか「ヴィクトリー~」という風にブギウギの名を冠したものを残したように、晩年にアメリカへ移住したときにブギウギにひどく傾倒していた。いわゆるジャズではなく、なぜブギに特定したのか? よく明快なビートとリズムに触発されたと言われているが、モンドリアンがハーレム街の安酒場でリズムを取っているとはあまり想像できないし、ジュークボックスにコインを入れてじっと曲を選んでいるなんてのも愉快な絵柄だ。でも、もう少し長生きすればR&Bにもハマってたかもしれない。それほど時代が近いし、彼の画風が戦争の影をそれほど落とさずに、常に前向きだったことも功を奏したように思えるのだ。


これらの晩年の作品群は製作方法も特異で、色紙やカラーテープをキャンバスに貼り付けただけ、という誰でもマネできるものにまで昇華されていた。自身の美学に絶対的な自信があってのことだろうが、最近になって、紙テープでの試作品「ニューヨーク 1」が75年もの間、「逆さま」に展示されていたことが発覚して話題になった。そもそもアトリエから運び出し、裏側のサインを根拠に「逆さま」に展示した後、競売に掛けられて以降そのままだったと言われるが、それまでピッチの狭いほうが地平線で、そこから立ち上がるビル群を現わしたというような評論まで出ていたというのだから、難解な現代美術にさもありなんという事件に発展した。しかし美術館としては、元に戻すとテープが重力で垂れ下がりレイアウトが狂うので、もはやそのままにしておこうということだ。

モンドリアンの作品は、その単純なレイアウトのため模倣も多いのだが、現物をみるとそのキャンバスの厚みまでが作品と思わせる重量感がある。それはキャンバスの脇まで下地が均質に塗られているということもあるかもしれないが、ブロードウェイ・ブギウギにしても、近くで観ると色紙が捲れたり皺になっていたりと散々だが、たとえ小学生の切り絵のようなものであっても、その大きさという実在感がモノを言っているように思う。それはどんなにチープな造りでも「これが俺の芸術だ」という叫びが聴こえてくるのだ。
別の面では、モンドリアン自身は最先端のアーティストであったと同時に、バウハウスで教鞭を取るなどの教育者としての一面もあり、あるいはファインアートという唯一無二の存在から、より普遍的な美の追求をストイックに続けていた可能性もある。それが色紙やカラーテープのような誰でも手に入れることのできる素材での作品構成に向かわせたのかもしれない。ある意味では、ポップアートからミニマリズムまで網羅できるほどの幅広い可能性があったともいえるし、現在のコンピューター・グラフィックスのデジタルっぽいカクカク画はモンドリアン抜きには考えられない。アートの庶民化=DIY化なんて誰が夢想しただろうか? 



さらばステレオ!
※モノラルを愛する人にはこのロゴの使用を許可?しまする




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