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【この世のうつし絵としての異世界】
上のシルエットをみて何か(女戦士とドラゴン)と分かる人は、おそらくドラクエをやりすぎた中高年か、異世界アニメの見過ぎである。そもそも異世界とは、冒険ファンタジーの世界観を表したもので、剣士、魔術師、ヒーラーなど特色のある冒険者パーティが、魔物やドラゴンと対決しながら旅する物語であるが、その大元はヨーロッパの中世騎士物語が下地となっている。しかし現代人がこの手の冒険に憧れるのは、実際には社畜として個性など奪われ、ルーティンワークを繰り返す毎日を生きる現代人の暇つぶしと見られる。お宝やレアアイテムをゲットする行為は、実は経済学のゲーム理論における報酬と関連付けられる、人間の行動原理に基づいた立派な後ろ盾もあるくらいだ。もっとも、同じ境遇にいたのは19世紀の貴族たちで、大きな戦争もなく手柄も昇進も固定化された身分社会のなかで礼儀作法だけを仕付けられ、退屈な時間を過ごしていたなか、世界旅行を記した冒険譚や、見たこともない珍しい動植物を陳列した博物図鑑、そしてファンタジー世界を描いた本が大好きだった。とりわけ、ワーグナーに心酔した狂王ルートヴィヒなどは、中二病の良い見本(放蕩の末路も含め)でもあった。
  
  
ノイシュタイン城、白鳥の騎士ローエングリン、船乗りを誘惑するセイレーン
竜王の城、スライムナイト、人魚ロミア…全てファンタジー世界の鉄板アイテム
何でこんなことを書いているのかと言うと、ステレオという装置が狭い自宅にコンサートホールを出現させるという、ヴァーチャル(仮想現実)な側面を大いに抱いているからだ。それゆえ、オーディオ技術の進化は、常にリアリズムをより厳密に表現することに長けた状況を説明する。もっと酷いのはラジオやテレビのような報道系マスメディアで、世界で起きている数多の情報がリアルタイムで見聞きできるという幻想を抱いていた。なので事実に基づかないヤラセ報道は、放送倫理に引っ掛かるのだ。そういえば、私が再生に躍起になっている音楽メディアも、それがレコードなりCDで販売されているという事実(ファクト)に基づいており、偽の情報やコピー商品は海賊盤などと呼ばれる。しかしこれらのオフィシャルなものは、いずれも何らかの情報統制を受けた状態、つまり常識の範囲内で収まる事柄に留まっており、そこには異世界やファンタジーが入りこむ余地がそれほど多くないと言って過言ではない。
では、この真実にあふれた世界に、これほどのファンタジー世界が語られる理由とは何であろうか? それは自分の希望や想いを他人に伝承するのに、たとえ話として語ったほうが個人のプライバシーに一定のバリアを張るのに都合が良いからだ。希望や願いというのは、まだ現実にはならない遠い将来の話であって、今の自分の能力や環境だけに縛られて語ると、全ては絵空事になってしまう。なのでファンタジーを織り交ぜて話すと、たとえ不可能であっても興味深い話として、自分の願いを織り交ぜて話題を盛ることができるのだ。
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では、異世界らしいオーディオというのはどういうものだろうか? まず思い浮かぶのは、ゲームやアニメそのものとの相性を考えて、テレビモニターとのレイアウトで選択することが多いだろう。あるいは、ヘッドホンで試聴して没入感を求める人も多いと思う。ゲームなどとなれば、もっと色んな要素が加わってくるだろう。いずれにせよ、それらは映像あってのものである。私個人は、映像作品には、映像ならではの情報が多く含まれていて、人間の視覚と聴覚とでは情報量が10倍違う。圧倒的にビジュアルに引きずり込まれるのだ。
 
1970年代のクワドラフォニックの実験、現在の9.1chサラウンド・システム
 
V主体の人が望むスッキリデザイン(スピーカーやラックは視覚的に邪魔)
 
1970年代sのパナソニック製ヘッドホンラジオ
現在の視覚も聴覚も塞ぐVRグラス&ヘッドホン
 
ねこ耳ヘッドホン、エルフ耳イヤホン…もちろんありまする♡
その映像作品の王様といえば、映画館のトーキーシステムである。とてつもなくお金のかかる業界で、大作となると製作費100億円はくだらないという熱の入れようで、古くはウェスタン・エレクトリック(WE)、アルテック・ランシング、JBLと続く系譜は、もはやオーディオ界のレジェンドに讃えられている。しかし、これらのシステムを一般家屋に入れ込むと、あらゆる音のリアリズムを追及したサウンドであることが分かる。大きな映画館のようなところだとホールのなかで拡散する音も、近接距離で聴くと、どう譬えたらいいだろうか、巨大なものもミクロなものも、どの物体も全部同じ大きさで並んでいるように聞こえるのだ。それは映像作品のカメラアングルをみれば明白であるが、スクリーンに等身大の人物を映しても小さい蟻のようなものだし、雄大な景色を等倍で映しても木を見て森を見ずという諺通りになるだろう。それらを同じスタンスで上映するのだから、スケール観がアベコベになって当たり前なのだ。
 

もはや物理的法則の極限を狙っていた1940年代のトーキーシステム
このダンジョンに入るとミイラ取りがミイラになる慣わし
同じ時代、1940年代のジュークボックスなどはそれ自体が発光体の生物か、転送機能のあるオベリスクであるかのような出で立ちである。こんな装置から78rpm盤のスウィングジャズやブルースが聞こえてきたというのだから、当時の人の想像力はどうかしていたのだろう。1938年にオーソン・ウェルズが放送したラジオドラマ「宇宙戦争」が本当のニュースだと勘違いした人も居たということからみて、ひそかに宇宙陰謀論がアメリカに根付いていたことが伺える。実感のない戦火に締め付けられる抑圧的な社会のなかで、地球の遥か外の星空へと心を向けていたのである。
  

不思議なオーラを放つジュークボックス(中身はSP盤)
Wurlitzer 1015(1946)、Seeburg 147(1947)、Rock-ola 1414(1942)
宇宙を含めた異世界にいざなう道具としてアメリカの町々に配られた
あとはデザイン・オーディオと呼ばれる分野でも、奇抜な異世界風のものがある。最初に現れたのがB&Wのオリジナル・ノーチラスで、カタツムリのような出で立ちに、どこかの魔物を想起させる風情がある。最近ではVIVID
AudioのGIYAのように「進化」して、這いつくばる姿勢から、二足歩行になったようだ。あまりに高価なので、ホームシアターに使うなんて人は現れないが、サラウンドでこんなのに囲まれたら、どうなるだろうか? 実は概念が固定化されて、それ以上のファンタジーが思い浮ばないのだ。
 

オリジナル・ノーチラスとその進化系GIYAファミリー
想像もつかないスライムの生態(ダンジョン飯より)
しかして、事実に基づくリアリティを追い求めるオーディオ趣味において、私が求めるのは想像力である。つまり、映像の抜けた音だけの世界にあって、音盤に刻まれた世界のあらゆる音の記憶を取っかえ引っかえ聴きあさるのだが、そこでは、音という抽象的な現象ではなく、奏している人間の喜怒哀楽や、それを聴く観衆や街並、海や山や空の風景など、様々なものが思い浮ぶ。それは、けして現実ではないが、音楽の鳴っている間に共有する、心象風景のようなものなのだ。
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【そこは天国か地獄か】
中世には天国と地獄の中継地となる煉獄が死後に待ち受けており、ダンテが煉獄にいる住人(実際はダンテの政敵)をその罪状と共に描いたのと同じように、あの世への寄付が己を救うのだと教え込まれてきた。なので「メメント・モリ(死を記憶せよ)」という言葉は、お前が煉獄でどういう苦しみに会うのか考えて行動せよ、という命令のようなものだった。現在、この煉獄はアニメの題材としてダンジョンの魔物(ゴブリン、オーガなどなど)と共に現れ、冒険者が命がけで一攫千金を狙って活躍する物語として定着している。より良い武器や魔道具を課金して購入するシステムも中世社会と似てなくもない。ペストが流行した頃は、「死の踊り」という快楽が空しいという戯画も多く見られたが、アンデッドの姿と似てなくもない。魔導書のかわりに時祷書(Horae)を豪勢(小さければ小さいほど高価)に作るのは、中世末期の貴婦人たちのたしなみでもあった。つまり異世界モノが中世と似せて演出している事柄は、何かしら意味のあるものであるのだが、煉獄が現世(うつしよ)の教訓として存在するのと同じように、そこには何らかの人生の縮図(つまりは放浪する冒険者の生活)のように見なしているともいえる。
  
  
煉獄の入り口、死の踊り、時祷書:いつも死を覚悟していた中世の人々の世界観
ダンジョン入り口、骸骨のアンデッド、魔導書の蒐集…今や異世界の共通語
このように異世界モノは、いつ死んでもおかしくない冒険生活を選んだ人たちの生き様を描いているのだが、実際の話、人生80余年と長く生きることが可能だったとしても、それは同じことでもある。その儚い人生観を音楽で綴るというのは、何というか死の間際に見るという、あの走馬燈のように、人生をほんの数分の時間で懐古する、そういう時間感覚を醸し出す音楽のように思った。
私なりに手持ちのCDを見渡してみると、中世音楽、ゴシック奇譚オペラ、フラワームーヴメント、現代音楽と、想像の世界を追い求めた人々の記録でもある。ん?
アニソンがない? 私の感想では、楽曲だけ取り上げれば、個性的なポップスという感じに聞こえて、なぜか萌えない。映像や物語あっての作品であると思っている。
ガチで中世な音楽
ホイジンガ「中世の秋」という本を読むと、中世というのは完璧な身分社会で、各階層で生まれもったペルソナを様々な形で可視化しなければ気が済まないような感じで、音楽もまた同じであった。聖職者、学生、騎士、吟遊詩人、放浪楽士など、その身分に相応しい場と音楽が準備され、それ以外のものは混ざりあうことはなかった。よく吟遊詩人がリュートをもって歌っている姿が想像されるが、中世はハープ、ヴィオールは宮廷詩人、ラッパ、太鼓が軍隊(騎士)の楽器、バグパイプ、ハーディガーディが民衆の楽器と決まっており、詩人、騎士がバグパイプの踊りの輪に加わるなんてことはなかった。身分社会が崩壊した現代社会であるからこそ、自由に聴ける音楽であるのだ。 |
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スザンヌ・ヴァン・ソルトの音楽帳/レ・ウィッチズ
中世物というとこんな感じの音楽だが、この写譜帳は16世紀末にオランダの商人が娘の結婚にさいして持たせたもので、フェルメールの絵にときおり出てくるヴァージナルがどういう音楽を奏でていたかを知るのに最も好例な作品集である。同様の作品は、イギリスのフリッツ・ウィリアムのヴァージナル・ブックなどが有名だが、もっと運指が簡単な庶民的な作品が収められている。レ・ウィッチズの録音は、ブリューゲルの民衆画さながらのトラッド音楽風にアレンジしており、もともとこの手の音楽はチューンブックとして機能して展開されたのだろうと思わせるに足る内容になっている。 |
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ヴィジョン/リチャード・ソーサー(1994)
12世紀ドイツで活躍したヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌を依り代にして、アメリカ人アーティストのリチャード・ソーサーがシンセ打ち込みでアレンジした名盤。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンというと、幻視と預言のできた修道女として知られるが、ここではシンセ音を天空からの未知のお告げよろしく巧く表現して、それを呪文のように言葉にすることで現実化するプロセスが提示されている。幻想的というと遥か遠くでボヤっとした印象に捉えやすいが、ここでは明確な幻視(ヴィジョン)として認識した世界が展開される。 |
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ノートルダムの奇蹟MIRACLES OF NOTRE-DAME/アンドリュー・ローレンス・キング
12世紀のパリ・ノートルダム寺院で活躍した人たちの聖歌を、ハープをはじめとする中世楽器の伴奏など少し演出を加えながら紹介するCD。ノートルダム楽派というと、ヨーロッパ音楽史で最初のポリフォニーを楽譜で残したことで知られるが、ここでは聖堂への行列歌(コンドゥクトゥス)や、当時のダンス音楽を折り合わせて紹介している。 |
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パリの学生たち Les Escholiers de Paris/アンサンブル・ジル・バンジョワ
13世紀パリ大学周辺の写本を、バーゼル・スコラ・カントルムの重鎮ドミニク・ヴェラール率いるアンサンブルが紹介するもの。吟遊詩人であり王でもあったシャンパーニュ伯ティボー4世の擁護を受けた、モテット、シャンソン、エスタンピなど当時の演目をかなり洗練された手法で演奏している。ドミニク・ヴェラール自身が歌ったシャンソンなどは、詩そのものが響く芸術としての真骨頂を示す。 |
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騎士たちCablleros/エドゥアルド・パニアグア
13世紀スペインの聖母マリアのカンティガ集から、騎士にまつわる歌を集めたもの。古楽界では知らぬ人はいないグレゴリオ・パニアグアの弟にあたる人で、普通に知られるヨーロッパの古楽器に、アラブ起源のサントゥールやショーム、ラウドのような民族楽器まで織り交ぜて、地中海を挟んで民族の入り乱れる時代を演出している。 |
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美しき北イタリアにSVSO IN ITALIA BELLA/ラ・レヴェルディ
北イタリア(パドヴァ、ボローニャなど)のいわゆるトレチェント音楽を取り上げたもの。14世紀の複雑怪奇な音楽として知られるが、二組の姉妹での編成した家族ぐるみの古楽アンサンブルが、中世かた続く修道院を訪れて親密な感じで聴かせてくれる。 |
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中世・ルネンサンスの楽器/デヴィット・マンロウ
全てはここから始まったというべき、中世ルネサンスの音楽を具体的な楽器で証明しようとした著書の音源。それまで楽譜での存在だけが知られ、実際にどんな音で鳴っていたのか分からないまま、19世紀の楽器でなぞって演奏していたのに対し、博物館にある古楽器を取り出して、書物に載っている挿絵を参考にしながら演奏し、カタログとして提示した労作でもあった。それが天才音楽家のカリスマではなく、楽器そのものもつ魔力に似た魅力に気付かせたのだ。 |
ロマン派オペラのファンタジー世界
現在のファンタジー物が文学史上で最も盛んだったのは、18世紀末からはじまったゴシック・リバイバルで、中世の奇譚がことのほか好まれた。小説ではもちろんイギリスが断トツだが、音楽で一番盛んだったのは意外にもドイツである。イタリア・オペラが悲恋と人情劇で湧いたのに対し、ドイツ・オペラはその文学性をもって啓蒙主義の成れの果てを満足させるものとなったのだ。18世紀にはフランス自然主義から派生したメルヘン(おとぎ話)が多く書かれたが、19世紀は長編ロマンとしてのゴシック奇譚が主役となった。ウェーバーからワーグナーというドイツ・ロマン派の系譜のなかに、ゴシックホラーがあるなどあまり関心が向かないが、実際そうなのだがらしょうがない。現在聴かれるものは、ほんの氷山の一角と思われるが、どうだろうか? |
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モーツァルト「魔笛」(フランス語版):ニケ/コンセール・スピリチュエル
中二病の座長がアイディアを盛るだけ盛ったファンタジー物としてハチャメチャな展開であるにも関わらず、天才が書いたオペラとあって昔から多くの録音がある。タミーノ王子と鳥刺し職人パパゲーノが、王女パミーナを救出するためにラスボスの居るザラストロ神殿を探索する話だが、ともかく夜の女王をはじめ登場人物の灰汁の強さが目立って誰が主役か分からなくなるのがオチだ。しかしその破天荒な展開の繋ぎのセリフの面白さを発揮した録音となるとそれほど多くない。ここではフランス語で演じることで、宮廷風の作法はすっ飛んで、民衆劇のバイタリティを再現した点が評価できる。歌はお世辞にもうまくないが、演劇として面白ければそれでいいのだ。 |
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ベルリオーズ「ファウストの劫罰」:マルケヴィッチ/ラムルー管
文豪ゲーテが書いた、魔族であるメフィストフェレスと対等に駆け引きするファウスト博士が最後に破滅するという、やや教訓めいた寓話である。幻想交響曲で型破りな管弦楽法を披露したベルリオーズが、満を持して作曲したオラトリオ風声楽作品であるが、見事にコケてロシアに亡命、ラコッツィ行進曲や精霊の踊りなど、フランス・オペラに欠かせない舞踏曲のほうが有名な点は、この作品が劇音楽として着想されたことと関係がないわけでもない。しかし、なんともやるせない若きファウストがハンガリーを放浪するという場面から始まるところからして、この奇譚の変な部分が臭ってくる。マルケヴィッチのロシアバレエ団で磨いた少し変態趣味な性格と、ラムルー管の色気がほんのり漂って、寓話としての旨味が増した感じがする。 |
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ワーグナー「さまよえるオランダ人」:ヴァイル/カペラ・コロシエンヌ
ハイネの書いた「フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記」にある、喜望峰に現れるという幽霊船(設定では神罰によりあの世とこの世を彷徨うオランダ商船)の伝説をオペラ化したもの。いわゆるアンデッドの海賊船としても描かれるので、強欲な世界貿易の徒への警告ともとれるものだが、その呪いを振り払うのに、乙女の純血が必要だというのは、その後のワーグナーのモチーフとして繰り返されるが、ドラキュラなど呪術的な世界との関わりをも示しているのだろう。通常のバイロイトで上演される版ではなく、1841年の初稿を再現したもので、民衆はノルウェーではなくスコットランド人、本来のゴシックホラーの総本山である。 |
存在そのものが異世界なポップ・アーチスト
20世紀のポップスはジャンルで言えば、ブルース、R&B、ロックというふうに分かれるが、そこに通底する摩訶不思議なものが1960年代末から現れ始めた。最初はヒッピー文化の放浪生活と関連があるように言われたが、生活スタイルとは関係なく書かれ続けたのが以下に示すコンセプト・アルバムで、個人的には人間の脳裏にあるダンジョンともいえるものと思っている。同じ時代にトラッドフォークやヘビーメタルも生まれているわけだが、どういうわけかジャンルとして真っ当なものになりすぎて、私が感じる迷宮入りするような事件とまではいかない。ジギーもパラノイアも月影もない世界だが、直接的に精神世界を語らずとも、これだけオカシナ世界が作れるのである。やはり常人ではない。 |
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紀元貳阡年/ザ・フォーク・クルセダーズ(1968)
この時代のエロ・グロ・ナンセンスを代表する名盤で、アングラとフォークを牽引したURCレコードの資金源になったという意味でも、やはりエポックメーキングなアルバムだった。「帰って来たヨッパライ」は、今では異世界転生物では常識となったシナリオだが、当時は「走れコータロー」と同じくよくラジオで流れたものだった。深夜放送の密やかで淫靡な気分を味わうには、ちょっとローファイなほうが似合う。 |
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バーント・ウィーニー・サンドウィッチ/フランク・ザッパ(1970)
ロック界の鬼才フランク・ザッパがザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを引き連れた最後のアルバムとなったものだが、中身は解散後に未発表録音を掻き集めて、それらしくまとめたものらしい。おそらく、ザッパ様の頭の中では常に自分のイメージする音楽が鳴っていて、特に目的も告げずにアレコレ複雑な楽曲をやらされてたメンバーたちが、ヤレヤレと気を抜いたところで解散命令が下ったという感じか。この脈略のないオブジェのジャケ絵も、このアルバムがゴミ箱を漁ったようなものという意味と、時代ゆえの何でもあり=自由の象徴かもしれない。 |
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ジュディ・シル/BBC Recordings(1972~73)
異形のゴスペルシンガー、ジュディ・シルの弾き語りスタジオライブ。イギリスに移住した時期のもので、時折ダジャレを噛ますのだが聞きに来た観衆の反応がイマイチで、それだけに歌に込めた感情移入が半端でない。正規アルバムがオケをバックに厚化粧な造りなのに対し、こちらはシンプルな弾き語りで、むしろシルの繊細な声使いがクローズアップされ、完成された世界を感じさせる。当時のイギリスは、ハード・ロック、サイケ、プログレなど新しい楽曲が次々に出たが、そういうものに疲れた人々を癒す方向も模索されていた。21世紀に入って、その良さが再認識されたと言っていいだろう。 |

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プリザヴェイション1・2/キンクス(1973-74)
キンクスが1968年に新しい物語性を紡ぎ出した「ヴィレッジ・グリーン~」の続編として始まったが、最終的に4枚(8話)のロック・オペラで決着がついたというもの。しかしその間に、クイーン「オペラ座の夜」にバラエティ性を奪われ、サイケ的なイメージはピンク・フロイド「狂気」にセールスで負け、宇宙征服は「ジギー・スターダスト」に寝取られ、それでも俺たちがコンセプト・アルバムの開拓者なのだと意地になって作った感じもあるが、それが一層ダンジョンな雰囲気を醸し出している。だいたいブラック人民解放軍なんて、現実世界の闘いとは全く無縁な存在を、これほど長く固執した理由が全く分からないが、それでも1960年代に置き忘れてきた大事な何かがあったのだろう。イギリス全土が村社会で何が悪い? それがレイ・デイヴィスの心の叫びでもあったらしいのだが、深層は結局分からず仕舞いだ。 |
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ガラスの心/ボボル・ヴー(1977)
ボボル・ヴーはドイツのバンドで、色々と演奏スタイルを変えながら活動していたが、この頃はトラッドフォークの演奏をしていた。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画「ガラスの心」のサウンドトラックという扱いだが、舞台が19世紀ドイツのガラス職人の村であるのに、どういうわけか中世音楽のような音楽が、固執狂のように繰り返される。その心は、古いコミュニティの崩壊と、20世紀的な終末論とが交錯した、近代文明そのものへの懐疑的な視線が、中世音楽という巡礼地に至ったという感じだ。ジャケ絵の服装が、アメリカに移民したアーミッシュに似ているのも、実は同時代に新天地に行き着くことなく滅んでいった人々が多かったことを示唆している。 |
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魔物語/ケイト・ブッシュ(1980)
ブリテン島に残るゴシックホラー趣味をそのまま音にしたようなアルバムで、アナログ全盛期の音質とミキシングのマジックに満ちているにも関わらず、その質感を正しく認識されているとは思えない感じがいつもしていた。一番理解し難いのは、ケイト自身の細く可愛らしい声で、少女のようでありながら、どこか大人びた毒舌をサラッと口走ってしまう、小悪魔的なキャラ作りに対し、いかにほろ苦さを加味できるか、という無い物ねだりの要求度の高さである。それは実際の体格からくる胸声をサッと隠そうとする狡さを見逃さないことであるが、それが一端判ると、実に嘘の巧い女ぶりが逆に共感を呼ぶという、このアルバムの真相に至るのだ。同じ共感は、ダンテの神曲に出てくる数々の苦役を課せられた人々が、意外にも現実世界の人々に思い重なるのと似ている。「不思議の国のアリス」の続編とも思える、この世離れした夢想家の様相が深いのは、煉獄のような現代社会でモヤモヤしている人間への愛情の裏返しのようにも感じる。ウーマンリブとかフェミニズムとか、そういう生き様を笑い飛ばすような気概はジャケ絵をみれば一目瞭然である。 |
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アヴァロン/ロキシー・ミュージック(1982)
一介の録音エンジニアだったボブ・クリアマウンテンをアーチストの身分にまで高め、ニアフィールド・リスニングでミキシング・バランスを整える手法を確立したアルバムである。アヴァロンとはアーサー王が死んで葬られた伝説の島のことで、いわばこのアルバム全体が「死者の踊り」を象っている。実際に霧の遥か向こうで鳴る音は、有り体な言い方をすれば彼岸の音とも解せる。しかしこのアルバムを録音した後バンドメンバーは解散、誰しもこのセッションに関してはムカつくだけで硬く口を閉ざしているので、そもそも何でアーサー王の死をモチーフにしなければならなかったのか?と疑問符だけが残った。私見を述べると、どうも恋人との別離をモチーフにしたほろ苦い思いを綴っている間に「愛の死」というイメージに引き摺られ、さらにはイギリスを象徴するアーサー王の死に引っ掛けて「ロックの彼岸」にまで連れ去ったというべきだろう。この後に流行するオルタナ系などのことを思うと、彼岸の地はそのまま流行から切り離され伝説と化したともいえ、この二重のメタファーがこのアルバムを唯一無二の存在へと押し上げている。
で、問題はこれをモノラルで聴く意義だが、まず霧のようなモヤモヤがすっきり晴れた状態でミュージシャンのフィジカルなパフォーマンスを鑑賞できるようになる。加えて、ボブクリの録音は個々の音を色艶を抑えてとてもベーシックに録られていること、そしてダンスチューンとしての骨格を非常に繊細かつ精巧に組み上げていること、音数を増やしてサウンドをリッチにするのではなくむしろ間を持たせることで次に進む楽想の移り変わりを引き出していること、などなど音場感以外のところで演出上手なところが分かる。 |
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ホモジェニック/ビョーク(1997)
ストーカーまがいの爆破未遂事件にショックをうけて、ロンドンでの活動に終止符をうってアイスランドに引きこもった時期に書かれたアルバムで、周囲との関係を断っていたこともあり、打ち込み音を中心に構成されながら、ビョークの野性的な声をしっかり捉えることで、むしろ生命力を得ているように聞こえる。ダンス・チューンをコアに据えているようにみえて、実はミニマル・ミュージックの系譜を踏んでいると勝手に思っている。日本のシャーマンを装ったジャケ絵も含めて、輪廻を含めた崩壊と再生というテーマを背負っているが、出だしの動機が執拗に繰り返され粘菌や樹木のフラクタル・パターンのように展開していくとき、歌そのものが豊かな伝染力をもってデジタル回路に広がっていくかのような錯覚に陥る。 |
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令嬢薔薇図鑑/ ALI PROJECT(2013)
ゴスロリ系ファッションに身を包んだ宝野アリカ嬢は、自身が特別な詩才に恵まれたアーチストであり、そのバックを務める片倉三起也氏も、バロック風のオーケストレーションを自在に操る名手であり、この二人の稀有な組合せが幻惑的な化学作用を及ぼしている。幻惑的というのは、21世紀の日本のポップスというには、時代感覚が縦横無尽に広がっている点にもあり、例えば「朗読する女中と小さな令嬢」などは、フランス革命に散った幼き命の存在を淡々と語って読み聞かせているように聞こえる。美しいバラにはトゲがある、という諺どおりのアルバムである。 |
猟奇的だが癖になる現在音楽
不思議な音…それは現代音楽にとって永遠のテーマだ。とても真面目に書かれたのだが、結果として人間のパフォーマンスとしては彼岸との対話に等しい現象を呼んでいるように思う。魔物は出ないが、音楽そのものがダンジョンと化していると言えよう。アヴァンギャルド芸術なんて高学歴な批評家が語りつくしているように思えるが、実は非常に直観的なものであり、耳を澄ますことが必要な音楽でもある。以下はコアな現代音楽の一部であるが、何が新しいかよりも、作品としていつも斬新に感じられるかの生命力のほうがずっと大事だと思っている。その時間が凍結されたレコーディングという作業が、どういう意味をもつものなのかは、作品の認知度とも並行して、まだまだ考えるべきものが山積しているように思える。 |
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ジョン・ケージ:プリペアドピアノのためのソナタとインターリュード
/高橋悠治(1975)
デンオンのPCMデジタル録音の最初期のもので、理論的にノイズレスというデジタル録音の特徴をどのように引き出そうかと模索していた時代でもあった。高橋悠治は作曲家として知られるひとだが、演奏においても同志たちの作品を果敢にコンサートやレコーディングすることでも知られていた。ここではジョン・ケージの初期(キノコを食べながら放浪していた頃)の作品を取り上げ、プリペアドピアノ(ピアノの弦に異物を挟んで変わった音を出す奏法)を夢見るような音で満たしている。実はこれより前の1965年にスウェーデン放送に残した全曲録音があり、それが世界初録音ということになっているが、そちらは作品の古典性を打ち出したものだった。現代音楽が時代とともに変化していくことの意味も含めて、メモリアルな1枚となっている。 |
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フェルドマン:トライアディック・メモリーズ/高橋アキ(1989)
夜中に音楽教室で鳴るピアノという学校の怪談を思わせる楽曲だが、20世紀の作曲家うちで最も彼岸にある作曲家を挙げるとすると、モートン・フェルドマンに行き着く。ケージやポロックと同じく1950年代のニューヨーク・スクールに属する前衛芸術家の一人だが、晩年の作品となるこの「3和音の記憶」と題されたピアノ独奏のための楽曲は、60分余りを3和音の分散音のみで綴っていく、超が付くほどの静謐な音楽で、なかなか鑑賞する機会が少ない楽曲でもある。実際、この録音に聞き入る環境を手に入れるには、夜半の静かな時間をしっかり確保しないとならず、これが一番難解なことだと思うのである。高橋アキの解説だと、平均律の和音のずれから生じる微妙なゆらぎ(ワウ)に注目してほしいと言ってるが、確かにプルルと震えるものからグアーンと揺らぐ音まで、ピアノの残響には楽譜に書かれた音以外に様々な時間軸のゆらぎが重層的に流れていることが判る。このピアノという楽器のもつ音を純粋に聴き入ることが、作品の第一義的な目的である。
これだけ演奏者に緊張を強いる楽曲ということもあり、なぜ電子音楽ではないのかということについては、実はこの3和音には、3人のピアニストへのオマージュが隠されており、閃きと集中力で押し進むデビッド・チュードア、端正で構造的なロジャー・ウッドワード、そして絶対的に静止した高橋アキが居て、演奏家それぞれの個性が堪能できるらしい。そして最後の高橋アキにいたって、フェルドマンは自分の楽曲が祈りの儀式に招かれた幸福に浸れると表現している。ただし、生身の人間が演奏したものをCDで聴くのだから、それこそ電子音楽と変わらないようにも思うのだが、それはそれで鏡に映る鏡のように、記憶の記憶を辿るというひとつの帰着があるものと割り切ることとしよう。さらに言えば、CDという記憶媒体そのものが、作品名と重層的に響き合って共存しているとも言える。 |
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武満徹/水の風景(1992)
日本で最もスーパーナチュラルな楽曲を書き続けた武満徹だが、幽玄な作風とは一転して哲学的な対話をしたり、実写映画のサウンドトラックにも様々な足跡を残すなど、現実的な思考というものに常に接していた。米RCAは1960年代末に早くから小澤征爾やタッシなどを通じ武満作品を海外で発信したレーベルだが、ここでは日本人の演奏家により1980年代の弦楽四重奏、パーカッション、フルートなど楽器構成の異なる比較的地味な室内楽曲を4曲収録している。自身の作品の初演や録音となると必ず臨席し、ときには激高して厳しい言葉を浴びせることでも知られるが、ここでは若手の演奏家が誠心誠意を尽くして作品に向き合っていると高評価である。武満徹は映画音楽にも多く携わったことでも知られ、短い時間で映像の印象を高める効果に長けていることもあり、一音一音の響きと有機的で繊細な移ろいの変化が特徴でもある。これらの作品は、楽器構成が異なることで、他の作曲家の弦楽四重奏や打楽器作品、フルート作品集に織り交ぜられ、静謐の美が主張の少なさに結び付きやすいところを、プロデューサーの英断というか、作曲家の希望が適ったというべきか、少ない楽器構成でも豊かであり続ける独特のサウンドを余すところなく収めている。 |
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テレムジーク/シュトゥックハウゼン
1960年代の電子音楽の最前線の記録で、プレートリバーブならぬドラを様々な道具で叩いたりこすったりするマイクロフォニーI、ハモンド・オルガンと4声合唱によるマイクロフォニーII、そしてNHK電子音楽スタジオで製作されたテレムジークの3本立て。ちょうど電子音楽がテープ編集を織り交ぜたコラージュ作品から、純粋な電子音による音響世界へと踏み入れた時期で、楽譜としても図系譜による抽象的パターン(電気的な配線図?)に彩られている。個人的には1980年代に生放送をラジカセで聴いた「テレムジーク」が印象的で、まさにラジオがそれ自身の声を発して話すオブジェのようになったのを覚えている。つまりオーディオにおけるロボット三原則を免脱した暴走が起きていたのであり、トランジスター自体がもつノコギリ波、ラジオの混変調、テープの転写&逆回転など、電気製品としてあってはならない故障のほうが、エントロピーの崩壊法則に則った電子機器の本音ということが判る。これと同じ時代に円谷プロがウルトラQで、超音波が人間の生理活動を破壊するシーンが多くみられたが、おそらくそれを開発したマッドサイエンティストこそシュトゥックハウゼン博士に他ならないと思う。 |
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太陽風を聞きながら/デイビッド・ハイクス
モンゴルのホーミーでもお馴染みのオーバートーン(口腔の共鳴音を響かせる特殊発声法)を使ったボーカル物だが、電子音楽のような不思議な瞑想的な音が連綿と続く。同じような倍音域の超越的な音色は、ブルガリアの女声合唱やシリアの修道女たちのマドローシュにもあるが、ホーミーも仏教の流れで受け継がれてきた。もしかするとイスラム以前のアジア世界での呪術の一大潮流だったかもしれず、色々と想像力を搔き立てられる。 |
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Elixir/マリリン・マズール&ヤン・ガルバレク(2008)
パーカッショニストのマリリン・マズールが阿修羅のように世界各地の打楽器を打ちまくるというアルバム。何かと異種格闘技に挑むガルバレクも、今回ばかりは絡む要素が少なく、ともかく打楽器のワールドワイドかつジャンルの垣根のない世界に呑み込まれていく。Elixirとは、錬金薬
(卑金属を黄金に変えると信じられた霊液)で、ここでは打楽器の素材(金属片、木材、革など)そのものの音色を千変万化させるマズールのテクニックを指していると思われる。今時なら電子音楽打ち込みで終わりそうなところを、生身の人間が体現するときに放つセクシャルな感覚は、スポーツでの熱狂に似た興奮となって蘇る。
ところで中二病の私が聴くと、最初のドラがジャ~ンと鳴ると共に冥界の入り口となり、ガルバレクが番犬ケルベロスのようにのらりくらりと案内をはじめる。その後は、絶対0度の氷穴、おどけた猿たちの踊り、筋肉隆々のベルセルクの舞い、炎を吐くドラゴンなど、様々な神話の世界の生き物が間近に迫るパラレルワールドが展開する。終わりはやはりドラがジャ~ンとなって冥界の入り口に戻ってくる。 |
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サーリアホ/クラリネット協奏曲「真実の五感」ほか(2013))
北欧の現代作曲家では珍しくアヴァンギャルドな作風を貫いているカイヤ・サーリアホ女史は、ポストミニマル、ニューロマンティジズムなどの潮流をものともせず、複雑怪奇な新作を次々と生み出す最後のともしびのようにみえる。このアルバムは、陰鬱な森に迷い込んだようなジャケ絵が印象的で、五感を研ぎ澄ませて歩まないと、どこから魔物が襲ってくるか分からないぞ、とでも言わんばかりでワクワクする。このまま彼女が魔女になってしまうのか?という要らぬ心配までしてしまうのは、現代社会で失われた感性が疼いているからかもしれない。 |
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【異世界のサウンドとは何か】
では、異世界モノにでてくるような音楽のシチュエーションとはどんなものかと言うと、オーディオ店で陳列しているようなものにはどれも該当しない。実は中世音楽における一番の課題は、身分相応の場に応じた家屋の音響の再現なのだ。一番豪勢な建造物は、司教座のある大聖堂、次に王侯貴族の暮らす石積みのヴィラ、そして農民や商人が暮らす木造家屋もしくは屋外での祝祭である。逆に言えば、そこは生活の場であって、音楽を聴くための専用の場所ではない。オペラハウスもコンサートホールも、当時はなかったのだが、それだけに身分に相応する生活と密接につながっていたともいえる。
【イタリア】
この時代の修道院は、小さい村に建てられたものであっても、蛮族の襲撃も多い血生臭い時代なので、城壁に囲まれた造りになっていることが多い。異世界モノに出てくるような立派な城門も、小さいコミュニティを守るためにこさえてあるのも特徴である。

10世紀建造のシルヴィスの聖マリア修道院(城門、鐘楼、礼拝堂…)

13世紀スペイン王アルフォンソ10世のもとに集った聖職者と吟遊詩人たち
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美しき北イタリアにSVSO IN ITALIA BELLA/ラ・レヴェルディ
北イタリア(パドヴァ、ボローニャなど)のいわゆるトレチェント音楽を取り上げたもの。14世紀の複雑怪奇な音楽として知られるが、二組の姉妹での編成した家族ぐるみの古楽アンサンブルが、中世かた続く修道院を訪れて親密な感じで聴かせてくれる。10世紀にまで遡るシルヴィスの修道院でのセッション録音。 |
【フランス,ブルゴーニュ】
ホイジンガ「中世の秋」に出てくるブルゴーニュ文化は、中世の蘭塾ぶりとは反対に、フランスの絶対王政の枠組みから置いてかれた感じで、今では田舎の風景だけが残る地域となっている。しかし元々フランスは農業立国であり、本来の中世の風景は、得てして畑と森が延々と続く世界だったとも言える。

11世紀ブルゴーニュの要塞跡に建てられた18世紀のグランセイ城
 
13世紀フランスのルイ9世の聖書挿絵(宮廷音楽家、ラッパを吹く騎士)
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パリの学生たち Les Escholiers de Paris/アンサンブル・ジル・バンジョワ
13世紀パリ大学周辺の写本を、バーゼル・スコラ・カントルムの重鎮ドミニク・ヴェラール率いるアンサンブルが紹介するもの。吟遊詩人であり王でもあったシャンパーニュ伯ティボー4世の擁護を受けた、モテット、シャンソン、エスタンピなど当時の演目をかなり洗練された手法で演奏している。ドミニク・ヴェラール自身が歌ったシャンソンなどは、詩そのものが響く芸術としての真骨頂を示す。録音場所は11世紀の要塞跡を18世紀のゴシック趣味で再構築した城で、地主のグランセイ伯爵が再興を願ってこの場所を選んだ追憶的な意味も含めてメモリアルなものとなっている。 |
【低地ドイツ地方】
ブリューゲルの描いたオランダの農民は、まだ国家として不安定な低地ドイツ地方の一部でしかなかった。国家として分離独立したのは、カルヴァン主義の浸透によることが挙げられる。それに加え、世界貿易での富を勝ち取った商人たちの国家でもあったため、農村の近代化も比較的早かったらしく、レンガ積みのものがほとんどで、ブリューゲルの時代の木造&土壁のものはほとんど現存しない。以下のディースドルフにある農家の博物館は、工業化の進んだ低地地方から離れた中央ドイツに位置するもので、1910年代に移築・保存がなされたが、建造された年代は18世紀末から19世紀中頃のものである。日本の江戸時代の農家も藁ぶきや樹皮というのが多かったが、今では文化遺産になっているので同じだろう。

Freilichtmuseum Diesdorf(ディースドルフ野外博物館)
主に19世紀建造の農家を展示
 
ブリューゲルの描いた16世紀オランダの祝祭と結婚パーティー
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スザンヌ・ヴァン・ソルトの音楽帳/レ・ウィッチズ
中世物というとこんな感じの音楽だが、この写譜帳は16世紀末にオランダの商人が娘の結婚にさいして持たせたもので、フェルメールの絵にときおり出てくるヴァージナルがどういう音楽を奏でていたかを知るのに最も好例な作品集である。同様の作品は、イギリスのフリッツ・ウィリアムのヴァージナル・ブックなどが有名だが、もっと運指が簡単な庶民的な作品が収められている。レ・ウィッチズの録音は、ブリューゲルの民衆画さながらのトラッド音楽風にアレンジしており、もともとこの手の音楽はチューンブックとして機能して展開されたのだろうと思わせるに足る内容になっている。 |
以上のように、中世における音楽は、本当の意味で生活中心の食器や家具と同じモノであり、それ自体が異世界にいざなうような機能はもっていなかった。言い方を変えれば、今のオーディオ装置に期待されるVR(仮想現実)のような機能は異端視されていたのだ。そのように言えば、現代社会は欲望のままに生きる快楽主義であり、中世は逆に死から逆算した禁欲主義であった。医学が未熟な時代にあって、成人した人の寿命が40~50歳(幼児死亡を含めると30歳ぐらい)と短かったということも関連しているかもしれない。しかし、そのなかにあって、激しい生命力もまた魅力となって見えてくるのである。では、中世の人々の生への渇望をどのように聞き取るべきなのか? これが異世界オーディオの本来の姿なのだ。
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【レベル1】中世っぽい音の仕掛けを知る
オーディオ技術の一番の課題として挙げられる「原音再生」というものだが、果たして原音というのは存在するのだろうか? 録音現場の写真をみても、マイクと楽器の距離は30cm~1mの近くにあり、それ以上離れると音像がボヤッとしてしまう。これは電気録音が始まって以来ずっと抱えている限界であって、ステレオ録音でのコンサートホールで聴くような音響は、エコーやリバーブで処理された人工的な音響である。それをさらに自宅の一室で再現しようというのだから、話はもっとややこしくなる。
 
聖堂での録音セッション:概ね1~1.5mにマイクは設置されている


中世アンサンブルがセッションに臨むときも楽器ごとにマイクを立てる
なので、そのマヤカシの濃霧にまかれている状態は、その術式の実体も分からないまま、ただ呆然としてることになる。忍術で譬えれば「煙に巻かれる」とでも言えよう。私が知りたいのは、その術式を唱えている魔導士の存在なのだ。どんな方法で、どのような道具を使用して、どういう物質をもちいて、その術式を発動させているかなのだ。中世モノを取り扱っていると、そのセッション毎に全く違う音響に遭遇することが多い。そもそも製造方法が系統付けられた19世紀以降の楽器でさえその再生は難しいのに、古い羊皮紙の絵から切り出したようなレプリカ楽器の本当の音なんて、それこそ異世界の音そのものである。
このため、録音現場の音響をそのまま再現するというのは最初から諦めて、その限界を知ったうえで、自室の音響とどこか落としどころを見つけるということになる。
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【レベル2】現代文化から学ぶ想像力
幻想世界というのは、音響工学的にどう説明すればいいか? 実は第六感(シックスセンス)のようなところがあり、あまりに未知の世界のように思われる。モーツァルトやバッハの音楽が知的活動を活発化するなどと言われて久しいが、植物にクラシック音楽を聴かせると果実が美味しくなるなど、ややきな臭いものまである。妄想世界をダイレクトに描いたベルリオーズ「幻想交響曲」なるものもあるが、それは麻薬による幻覚という前置きがある。これと同じ文化的傾向をもっていたのが、1970年代のフラワームーヴメントである。
少しややこしいのが、同時代のファッションにスペースエイジ(宇宙時代)というのがあって、無重力のフワッと浮かんで無限に広がるようなサウンドが、ステレオでの新しい音場感と誤解されていた。そこに実体をもたせたのが、コンサートホールでの演奏を模したサウンド・ステージである。1970年代の中頃に英BBCによる「音響のスケールダウン」という一連の研究により、本格化したFMステレオ放送に適した音響理論を模索していた。BBCロンドン放送局内にあるオーケストラ・ホールのミニチュア模型を造って、狭い空間でコンサートホールの音場感を再現するためのシミュレーションを繰り返したのだ。最終的にキングス・ホールで天吊りマイクで収録したオーケストラ実況が、ステレオ空間を整える標準的な音響モデルとなったのだ。

BBCで1969年に行われたミニホール音響実験
その一連の研究の成果として登場したのが、LS3/5aという小型ブックシェルフ・スピーカーで、自由空間で3フィートの正三角形にスピーカーを配置するニアフィールドモニタリングを標準化した。それまでは本棚にスピーカーを入れて低音を補うのがブックシェルフの意味だったのだが、スピーカーの間にも外側にも何も置かない配置が、現在のステレオスピーカーで定位感を正確に再現するための標準となった。LS3/5aの工夫点といえば、定位感を出すために必要な要素として、先行音効果(先に出た音が後の音をかき消す人間の知覚)を基軸にした、パルス性信号の時間差を正確に出すためにインパルス応答の計測が新たに導入され、インパルス波をコンパクトに収めるためツイーターのバッフル面での乱反射を避けるスポンジで囲ったり、エンクロージャーも密閉型にしてバスレフ共鳴による延滞音を避けている。これも従来は左右の位相差として理論付けられていたステレオ効果(なので逆相の宇宙空間エコーが流行った)とは全く異なるものとなった。一方で、パルス音の主体は音響エネルギーの小さい超高域に隔たったものとなり、現在のスピーカー設計にも活かされている。
 
 
BBC LS3/5a:マニュアル通りに配置されたBBC局内のモニター
ハーベス製の周波数特性とインパルス応答特性
こうしたステレオ空間の遊びにいち早く喰いついたのが、イギリスのポップ・アーチストだったことはけして偶然ではない。もともとクラシック音楽に伝統をもつ国柄だけにコンサートホールの響きに馴染みがあったが、そこにゴシックホラーで鍛えられた物語性が加わったことで、レコード自体が独自の世界観をもつコンセプト・アルバムが数多く登場した。いちよ45分程度という時間的な制限はあるものの、ラジオ番組で全曲放送するなんてことなく、アーチストが心に抱いている心象世界を満喫したいならば、LP盤を購入する以外に選択肢がないというシロモノだった。
   
もうひとつは計算され尽くした異界の音という点では、現代音楽の作曲家が挙げられよう。クラシックな楽器から生まれる未知の音響に魅入られたマエストロは、まさに中世の錬金術師の末裔だともいえる。今から見ると斬新さのみを追い求めた去りし日のテクノロジー原理主義もしくはマッドサイエンティストのような感じもするが、ときおり思い出したように音盤をひっくり返すと、まるで魔導書の術式を説いたときのような、ちょっとしたスリリングな時間を味わえる。魔導書とは不思議なもので、それ自体が存在することで、場所や時間を選ばずに術式を発動できる(ときには大変迷惑な事件に発展する)ことにある。現代音楽を収めたレコードには、そうしたマジックが潜んでいるともいえよう。
 
 
ジョン・ケージのプリペアドピアノ、ヴァーレーズ:イオニザシオン
NHK電子音楽スタジオでのシュトックハウゼン:テレムジークの楽譜
これらの音響を、マイクで拾った原音どおりに正確に再生する、ということは道理に適っているように思える。しかしそれだけで、オーディオの機能として求められる事柄は終始するのであろうか? フラワームーヴメントと現代音楽のはざまにある人間の不可思議な能力への探求は、実はそれ自体が創造的なものであり、正確さを推し量るものがこの世に存在しない領域のサウンドということができる。つまりその音が正確だと思った時点で、その基準となったリアリズムに閉じ込められ、より新しい物への探求心を喪失してしまうのである。不思議なものを不思議なままに再現するというのは、経験や記憶という働きに支配されやすい人間にとって、意外に難しいことのように思える。
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【レベル3】自分こそが物語の主人公
最後に私自身はどの世界の住人であるのか? そうした実存と幻想のバランスに必要とされるのは自分物語である。つまり伝承の世界に自分自身を織り重ねて心を委ねることが必要なのだ。年老いたオヤジが魔法少女に変身することに憧れるなどめっそうもないが、その物語の世界に傾倒することは可能だと思うのだ。
民話の世界というのがあるが、この手のお伽話が18世紀以降に蒐集された背景には、16世紀から17世紀に続いた陰惨な宗教戦争を通じて、世界平和=理性による統治と考えた啓蒙主義が台頭するに従い、それまで生活の知恵として伝承されていた異世界の物語が、精霊信仰や悪魔崇拝とごちゃまぜになった蒙昧な戯言のように新旧キリスト教の陣営者から迫害を受けたことと重なっている。
そして民族主義の台頭が始まると、伝承より血統で区別する国家形成が主流となる。異民族は異形の世界として差別されるようになったのだ。しかし同じ言語を話し、似たような境遇で育った人間は、そもそも理解しあえるのだろうか? どちらかというとコミュニケーションの敷居が低いというだけのような気がするのだ。グリム童話に出てくる、お菓子の家の魔女、おばあちゃんに化けた狼、これらは言葉巧みに子供を騙して破滅に追い込むのだが、逆に森の小人たちは言葉を多く発しないが行動をもって親切とは何かを体現する。つまり大人になる前に、いい意味で狡猾になるよう本当に必要な知恵を寓話として再構築しているのだ。 この集団によるコモンセンス(常識)に対抗するのは、自分語りによるモノローグである、というのが私の見解である。つまり、自分は何者なのか? すごく哲学的な問いのように思えるだろうが、実はもっと単純なこと、自分がどう生きたいかという希望的観測を、物語として話すということである。
  
アーサー・ラッカムによるグリム童話の挿絵
  
現代のお伽話:不思議の国のアリス、オズの魔法使い、星の王子さま…
さてオーディオ技術と伝承の世界は、どこか受け容れられないもののように思えるが、それはオーディオの源になる音楽が考える暇もなくめくりめくる変化をもとめるのに対し、伝承の世界はむしろ現実に流れる生活の時間よりも遥かに長い時間で物語が進行している点である。つまり現実にある時間に変化を求め感情を凝縮する音楽に対し、物語は時間のスパンを遥か遠くに伸ばしていくのだ。「むか~しむかしあるところに…」という出だしは、時間の扉を開く合図なのだ。この背反した理屈を捻じ曲げてしまう現象について考えるのが、この項の主要テーマとなる。
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さて、中世っぽい音のからくり、フラワームーヴメンと現代音楽のぶっ飛んだ想像力、そして自分の物語を再構築する伝承の世界を、それぞれ掻い摘んでみると、異世界オーディオに必要な機能は以下のようになる。
・音楽をモノローグとして凝縮する機能
・音楽のもつ魔術的な現象を術式から見極める機能
・音楽の時間感覚を自在に伸縮する機能
言い換えると、音楽とは元来、魔術的で自分を見失いやすく、今という時間を充実させるために存在すると思われていたものを、音楽を聴くことによって、魔術を究め、時間を自由に操り、自分の物語とする、ということに、オーディオの機能をパラダイムシフトすることにある。音楽とは魔術の一種だと思った時点で、何だか新興宗教のようになってきたが、異世界モノの大元となる伝承の世界とはそもそもそういうモノなのだ。
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【レッスン1】音楽をモノローグとして凝縮する機能
異世界オーディオは、おしなべてモノラルで聴くべきだ。あまり意識してない人が多いが、1980年代中頃まで多くの映画やテレビはモノラル音声だった。特にヨーロッパのアート系シネマ、日本のテレビアニメは、ほぼ全面的にモノラル音声である。ステレオでドカーンときたのはスターウォーズと劇場版の宇宙戦艦ヤマトぐらいなもので、どちらもオーケストラでの勇ましい音楽で知られる。スターウォーズは後にルーカスフィルムのTHX規格に進展したし、宇宙戦艦ヤマトは独立した音楽作品として交響組曲がLPレコードで発売され、それなりに売れ行きも良かった。それとこれとが一緒になって全てステレオだと勘違いしているのであるが、実際にはモノラルが大多数を占めていたのだ。CDが発売された1980年代になってもモノラル音声の需要は依然として高く、オーラトーン5cがモノラル音声チェック用のモニターとして鎮座していた。よく演歌のヒット曲を生みだすためにAMラジオや飲み屋の有線放送向けだとか揶揄されていたが、アイドルやニューミュージック系の楽曲はテレビCMでの採用がヒット曲の鍵になったり、マイケル・ジャクソンのスリラー以降にシングルカットする代わりにMTVの制作が盛んになるなど、モノラル音声はそれほど違和感なく受け止められていたのだ。
  
私の大好きなアート系シネマ:全てモノラル音声
 
「カラフル・クリーム」のプレイバック試聴風景(スピーカーはモノラル)
「狂気」をミックス中のアラン・パーソンズ:中央にオーラトーン5cがモノラル1台
モノラルにして聴くとどうなるかというと、音楽が一人称のものとして流れ出す。モノローグというと弾き語りのように思うかもしれないが、複数人のアンサンブルでも個々人のペルソナがより明確になる。理由は、サウンド・ステージとして設定された環境音が消えて、奏者とマイクの1対1の関係に戻って再生するからだ。
 
キャロル・キング「つづれおり」、カーラ・ブレイ「ライフ・イズ・ゴー・オン」
人間のコミュニケーションにとって変わらないものは語りかけの距離感だ
ステレオ録音のモノラル化をどういうやり方で処理しているか疑問におもうかもしれない。実はこの件は難問中の難問で、多くのベテランユーザー(特にビンテージ機器を所有している人たち)でも、なかなか満足のいく結果が得られないと嘆いている類のものだ。
ステレオ信号のモノラル合成の仕方は様々で、一番単純なのが2chを並行に結線して1chにまとめるもので、よく「ステレオ⇔モノラル変換ケーブル」として売られている良く行われている方法である。しかし、この方法の欠点は、ホールトーンの逆相成分がゴッソリ打ち消されることで、高域の不足した潤いのない音になる。多くのモノラル試聴への悪評は、むしろステレオ録音をモノラルで聴くときの、残響成分の劣化による。
次に大型モノラル・システムを構築しているオーディオ愛好家に人気があるのが、ビンテージのプッシュプル分割トランスを逆に接続して、2chをまとめる手法で、巻き線の誤差のあたりが良い塩梅におさまると、まろやかなモノラルにできあがる。しかし、これもプッシュプル分割用トランス自体が戦前に遡る古い物しかなく、そのコンディションもまちまちで、当たりクジを引くまで1台5~10万円もするトランスを取っ換え引っ換えしなければならず、一般の人にはお勧めできない。ひどいときには600Ωの電話用トランスをハイインピーダンスの機器につなげ、高域を持ち上げて音がよくなると勧める店もあったりと、イワシの頭も信心からと言わんばかりで、何事も自分の耳で確かめなければならない。
最後に私が実践しているのは、ミキサーの2chの高域成分をイコライザーで互い違いに3~6dBのレベル差を出して合成することで、昔の疑似ステレオの逆をいくやり方である。「逆疑似ステレオ合成方式」とでも名付けておこう。これだと情報量が過不足なくまとまって、高域の潤いも失われない。
私のオーディオ・システムはモノラルである。ステレオ録音もモノラルにミックスしなおして聴いている。周波数レンジ100~8,000Hz、出力1.2Wの昔日のラジオ並みである。ただしスピーカーの大きさは、人間の胸腔と同じサイズであり、一人のパーソネルがディスクサイドに座っているような感じである。つまり、コンサートホールの音の再現ではなく、ミュージシャン自身を自宅の部屋に招くようなシチュエーションで聴くことになる。これで音楽が分からなくなんて不自由なことは一切ない。

 
我が家のスピーカーの周波数特性(灰色:コンサートホール、点線:映画館規格)
【レッスン2】音楽のもつ魔術的な現象を術式から見極める機能
異世界オーディオは、音色の分解能ではなく、音の奏でられる時間の分解能を究めるべきだ。なぜそうなのかというと、オーディオのように電気的に拡声する機械では、音量が自由に設定できるために、その音が本来どれぐらい迫力があるのか、発声源は大きいのか小さいのか、遠いのか近いのか、そういうものが想像がつきにくい。しかしタイムコヒレント特性(時間的整合性)が整ったスピーカーでは、そうしたことが直観的に分かる。それはモノラル音声であっても、ちゃんと分かるのだ。
私のモノラル・スピーカーは、1940年代に設計されたPAスピーカー Jensen C12Rと、1950年代の真空管ラジオに付属しているような小さいコーンツイーターとの、2way仕様である。どちらもレプリカで製造し続けられており、新品で手にはいる点もうれしい。Jensen
C12Rは、スウィングジャズ・オーケストラに混ざってエレキギターやボーカルを拡声するために開発されたもので、生楽器のホーンセッションやドラムに負けないように出音の反応を研ぎ澄ました仕様となっている。そのうえフィックスドエッジの機械バネを利用して、強制的にコーン紙を引き戻して次の波形に備えるようにできている。C12Rは現在ギターアンプ用として売られているので、とても30cmの大口径スピーカーとは思えないほど鋭敏な反応を、200~6,000Hzのボーカル域の全域で保持できているのだ。
 
私のモノラル・スピーカー:超控え目にツイーターを追加しているが息はピッタリ合ってる
では現在のスピーカー設計はどうかというと、ツイーターはパルス成分を先行音効果(先に聴こえた音が後の音をかき消す人間の聴覚)で際立たせるために特化して、6~20kHzで非常に鋭いスパイク音を出すようにできており、反対にウーハーは100Hz以下の重低音を強調するために、重たいコーンをゆっくり動かし出し、後に引き摺るようにして存在感を示すようにできている。ボーカル域はそのついでに鳴っているだけである。これはオーディオ機器の広帯域化をアピールする過程で起きたデフォルメされた音響なのであるが、それもこれも狭いオーディオ部屋でコンサートホールの観賞体験を得ようという目的のためであり、広い空間の低域のエコー、その反面で不足しがちなパルス成分を補う手法が、より鮮明にシフトしていったことを示す。しかしこの音場感、クラシックコンサートでも聴いているような固定された舞台設定で、異世界を表現するにはいささか古いのではないのだろうか?
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モニタースピーカーのステップ応答の例
(最初の立ち上がりがツイーター(+ミッドレンジ)で残りがウーハー) |
 
踊りは肌と肌が触れ合う距離が基本。その親密さを表現できないと何かが違ってくる。
私は人間が音楽に感動する要素は、人間の聴覚における社会性を育んできた言語的ニュアンスにあると思っている。つまり音楽の大方の情報は200~6,000Hzぐらいの範囲に納まっているのだ。そいういう意味もあって、私はスピーカーの機能性として、まず第一に人間の声をリアルに表現することを大事にしている。
そこをさらに踏み込んで、スピーカー径を大きめの30cmとしている。その理由は低音の増強のためではなく、200Hz付近までコーン紙のダイレクトな振動で音が鳴る点だ。コーン紙を平面バッフルに見立てて最低周波数を計算すると、10cmで850Hz、20cmで425Hz、30cmで283Hzとなり、喉音、実声、胸声と次第に下がってくる。あえて言えば、唇、顔、胸像という風に声の描写の大きさも変わってくるのだ。それより下の周波数は、エンクロージャーの共振を利用した二次的な輻射音になる。小型フルレンジでは胸声が遅れて曖昧に出てくるため、表現のダイナミックさに欠ける。
このボーカル域の要件を両方とも満たすのが、古いPA装置に使われていたJensen C12Rのようなエクステンデッドレンジ・スピーカーだ。喉声以上の帯域に対し遅れを出さずに胸声までタイミングが一致して鳴らせるようにするため、高域を多少犠牲にしても、スピーカー径を大きくすることで自然で実体感のある肉声が聴けるのだ。よくスピーカーの再生能力としてフルボディという言葉が使われるが、モノラルの場合はスピーカーそのものの大きさが等身大であるべきだと思っている。
それと、スピーカーのダイレクトな振幅をじゃましないために、エンクロージャーを後面開放箱にしている。これはJensen C12Rの共振尖鋭度Qts(最低共振周波数fo付近でのコーン紙の動きやすさを示す数値)がQts=2.5という、ガチガチなフィックスドエッジだから可能なことでもある。逆に通常のバスレフ箱用に設計されたQts=0.3~0.5ぐらいのフリーエッジでは、後面開放箱に入れるとフラフラして使い物にならないので注意が必要だ。例えば同じJensenでも高級なP12NはQts=0.7で、バスレフポートの間口が広い、古い設計のハスレフ箱に合ったものとなっている。

人体の発声機能と共振周波数の関係 |
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唇の動きに見とれるか、顔を眺めてうっとりするか…
やっぱり胸元まで見ないと実体感が湧かないでしょ! |

裏蓋を取って後面解放! |
【レッスン3】音楽の時間感覚の伸縮を自在にする機能
これは非常に説明が難しいのだが、レッスン2の応用だと思ってもらいたい。つまり、それが遠くから響いてくるものなのか、極めて近くで起こっている事柄なのか、そうした感覚をオーディオ機器で瞬時に察知でき、かつ自在に操ることのできるようになることだ。
例えばビートを1秒1小節で勘定すると、2ビートは500ミリ秒、4ビートなら250ミリ秒という感じになり、その僅かな100ミリ秒以内で起こる事象から、音の距離感を察知することになる。これには経験が必要なことはもちろん、それを自室で再現するとなると、多大な矛盾が起こる。それはレッスン1でのモノローグに凝縮する作用と背反するからだ。
しかし考えてほしい。遠くに居ると集団で、近くにいると個人であるなんて、実は自分の視野に収まるという前提に立った、都合のいい条件を想定しているだけなのだ。遠くで叫ぶモノローグは、非常に静かな環境でないと成立しない。近くで騒々しい集団が居ると、心臓の鼓動がおかしくなるほど興奮する。そうした個人か集団か、近いのか遠いのかを、瞬時に察知することのできる状態に、オーディオ機器が整えられているかが、まず第一条件だ。それはコンサートホールという箱モノを想定したサウンド・ステージで比較検討する現在のオーディオ技術とは相反するものとなる。
以下の図は、点音源の現実的な伝達イメージである。モノラルからイメージする音は左のような感じだが、実際には右のような音の跳ね返りを伴っている。私たちはこの反響の音で、音源の遠近、場所の広さを無意識のうちに認識する。風船の割れる音で例えると、狭い場所で近くで鳴ると怖く感じ、広い場所で遠くで鳴ると安全に感じる。 こうした無意識に感じ取る音響の違いは、左右の音の位相差だけではないことは明白である。つまり、壁や天井の反響を勘定に入れた音響こそが自然なアコースティックであり、部屋の響きを基準にして録音会場の音響を聞き分けることで、元の音響の違いに明瞭な線引きが可能となる。
 
左;無響音室でのモノラル音源 右:部屋の響きを伴うモノラル音源 |
次に音数と遠近感を正しく把握できるだけでなく、それを自在に操るのがリバーブである。ピュアオーディオでは異端とされるエコーのようなものであるが、最近のデジタルリバーブは多機能であるばかりか、24bitは当たり前の緻密な音質を備えている。例えばヨーロピアン・ジャズの名門レーベルであるECMは、1980年代からいち早くデジタルリバーブを取り入れ、アコースティックなテイストを醸し出している。1970年代のプレートリバーブ1台だけなんてのは、もう半世紀も前の話なのだ。ただし、これには条件があって、パルス成分に敏感な現在のツイーターでは、全てが五里霧中に誤魔化されてしまう。逆に中低音から支えのあるフィックスドエッジスピーカーのほうが、リバーブでの遠近感を正しく把握しやすくなる。考えてみれば、リバーブの開発された時期は古い真空管時代からトランジスターに移行する過度期であり、むしろ古いオーディオ技術に対して相性が計られたものであるのだ。
さて、人工的に付与された音場感をモノラル・ミックスでスッピンにしたあとに、様々な時代の音楽を縦横無尽に行きかいつつニュートラルに鑑賞するには、自分のオーディオ装置に合わせて音場感をタイトに引き締めたり、逆にライブにして流れを作るというのが重要だ。20年ほど前にはサウンドを調整する手段として、マスタリング用の6バンド・パラメトリック・イコライザーとか、デジタル・リバーブだとか、真空管式マイクプリだとか、1台10~20万円する単体エフェクターを色々買い込んでいたが、最近はヤマハの卓上ミキサーMG10XUでほぼ落ち着いている。もとはカラオケ大会でも使える簡易PA用なのだが、心臓部となるオペアンプは自家製チップを使いノイズレベルが低く音調がマットで落ち着いてるし、3バンド・イコライザー、デジタル・リバーブまで付いたオールインワンのサウンドコントローラーである。実際にこれらの機能は、マイクの生音を様々な音源に馴染ませるための方便を積み重ねて設計されていると考えていい。

ヤマハの簡易ミキサーに付属しているデジタルリバーブ(註釈は個人的な感想)
これのデジタル・リバーブは世界中の音楽ホールの響きをを長く研究してきたヤマハならではの見立てで、簡易とは言いながら24bit処理で昔の8bitに比べてきめの細かさに雲泥の差があるし、思ったより高品位で気に入っている。リバーブというとエコーと勘違いする人が多いのだが、リバーブは高域に艶や潤いを与えると考えたほうが妥当で、EMT社のプレートリバーブ(鉄板エコー)は1970年代以降の録音には必ずと言っていいほど使われていた。残響時間とドライ・ウェットの調整(大概が40~60%の間で収まる)ができるので、録音状態に合わせてチョちょっといじるだけで聴き映えが変わる。
24種類もあるエフェクターのうち、よく使用しているのは最初の6種類のリバーブで、1,2番のホール系は高域に潤いを与える、逆に3,4番のルーム系は響きをタイトに引き締める、5,6番のステージ系は高域を艶を与える、という感じで、奇数がアメリカン、偶数がヨーロピアンと勝手に思い込んでいる。これもエフェクターの後に最初期のトランジスターラジオで使っていたライントランスを噛ましてレンジ感のバランスを取って、これまた真空管ラジオで使っていたようなエコー成分に鈍感なコーンツイーターで聴いてのことなので、参考で注意深く聴いてみてほしい。
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さて、どうでもいい話題にお付き合いいただきありがとうございました。
モノラルで異次元のオーディオ体験を満喫してくだされ。健闘を祈る!

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