20世紀的脱Hi-Fi音響論(特別編)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「我が名はヴィルヘルム・F」は、世知辛い世の中で隠居を考えているオヤジのための音楽を考察した。

我が名はヴィルヘルム・F
【コードネームFという名の指揮者】
【フルトヴェングラーのコンサート】
【フルトヴェングラー=Hi-Fi録音のパイオニア】
【充実したフルトヴェングラー体験のために】
冒険は続く
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。



【コードネームFという名の指揮者】


本当にお騒がせな人物である。そう、彼の名を仮に「F 」としておこう。当のヨーロッパでは完全に過去の人で、協会活動以外ではほとんど話題にならないのに対し、日本においてこれほど熱心に追い掛けを続けられているクラシック演奏家は他に類をみないであろう。戦前は録音嫌いで知られ、戦中はラジオ放送のみ、戦後はライヴ録音の海賊盤が山のように販売され、まるで日記でも読むかのように演奏活動が網羅されている。もちろんF も人の子なので、演奏の出来栄えに浮き沈みもあるが、彼ほど感情の起伏の激しいクラシック演奏家も珍しいといえよう。

しかもベートーヴェンやブラームスといった、カチコチのドイツの交響曲でそれをやらかしてしまうのである。他の指揮者では、ベートーヴェンはベートーヴェン、ブラームスはブラームスなのだが、F が指揮すると、F のベートーヴェン、F のブラームスという、ノンフィクション小説でも読んでいるかのような気分になる。これはロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」でも同じで、私淑するベートーヴェン愛を語っていると言ってもいいのだが、それをシンフォニーホールという大衆の面前で公開してしまうという度胸そのものが、圧倒的な迫力で攻め寄せてくるのだ。
そうした自己陶酔型の芸術家というのは昔から多いが、ベートーヴェンという人物像のもつエゴイストの一面を、これほどまでに自分のエゴと重ね合わせて表現する演奏家はほとんどいない。居たとしても「F みたい」と評されるのがオチだし、大概はフンドシが緩んでデレデレした部分が見え隠れして失敗する。交響曲の大盛り上がりのときに、F が大見えを切ってオーケストラを一刀両断する瞬間に、観衆は魅とれてしまいある種のカタルシスにおちいるのだ。
かくして、ベートーヴェンの英雄的(アポロン的)な側面を、あたかもディオニソスの饗宴のような混沌と再生の祭儀に仕立ててしまう、F という人物はいったいどう捉えれば良いのだろうか? そもそも残された大量に録音群を次世代にどう受け渡せば良いのか? それはF の死後に残された永遠の謎でもある。

二人は遠い親戚…ではないが共にエゴの塊である

そう彼こそはヴィルヘルム・フルトヴェングラーというドイツの指揮者である。その起こした事件とは以下の通りである。

【戦前はレコード嫌い → テープ録音で人生一変】
ともかく演奏を途中で止められるのが大嫌いだった。当時のシェラック盤の原盤は録音時間4分程度が限界であり、さらに録り直しとなると、音楽の連続性は全く消失してしまう。インタヴューでもレコード販売促進するような売れ線のコンサートプログラムを呪ってさえいた。考えを変えたのは戦中の1940年末にマグネトフォン録音機に出会って以降で、ラジオ放送への出演も好意的になったし、むしろ演奏家としての義務とさえ捉えていたのだ。このことは戦後の数多残ったライヴ録音へと繋がっていく。
ところが戦中に録音したマグネトフォンコンサートの記録は、RRGベルリン放送局を占拠したソ連軍によってゴッソリ持ち去られてしまった。その所在が明かされたのは、ソ連国内の音楽院の特別クラスで戦中の録音をプレスしたメロディア盤を試聴していたのを、1968年に米フルトヴェングラー協会長H・イリング氏が訪問した際に偶然見かけてしまったことによる。早速そのLPを数枚買って(スポーツシャツと物物交換?)持ち帰り、英フルトヴェングラー協会長のP.・ミンチン氏に渡してそれを板起こしで販売し始めたのがユニコーン・レーベルの始まりであった。その後ユニコーンはEMI傘下に入り、エリザベート夫人の了解のもと、EMIの別働隊として海賊盤を大量にリリースすることになる。その大元となったメロディア盤はプレス時期や盤質に色々ありコレクターの間で高値で取引される。これ以外にも、各国のフルトヴェングラー協会の会員向けの限定盤が存在し、それもオークションで高値となることが多い。これらの状況に終止符を打ったのが、1991年のペレストロイカによるソ連崩壊による接収テープの返還で、現在はベルリンフィルの自主レーベルからSACDとして発売されている。ウィーンでのマグネトフォンコンサートは、放送局から知遇を得て拡散したコピーテープからのリマスターとなるが、ターラが「ウラニアのエロイカ」を正常なかたちでリリースして以降は、かなり安定した状況に落ち着いている。

「歴史的な実況録音のため、お聞き苦しい点があります。ご了承ください。」
・・・帯の脇にちっちゃく(1943年)の文字が!&コピーのコピーで事実誤認

幻の名盤「ウラニアのエロイカ」とターラの種明かし、鉄のカーテンが消えた後の返礼品

【バイロイトの第九の謎】
2007年にバイエルン放送協会収録のライヴ収録テープがCDで出たとき、長らくフルトヴェングラーはライヴが一番という伝説の大元となっていたEMIの「バイロイトの第九」が、実はゲネプロを含めた編集版だったという事実に多くの人が驚いた。同じ年のクナッパーツブッシュ「パルジファル」ではデッカのカルショウが数回の本番をゲネプロのテープで補ったと言っていた方法が当然のように行なわれていたのだ。
これでフルトヴェングラーに関する全ての前提がダメになったような言い方をする人もいたが、映画評論家の荻昌弘氏はフルトヴェングラーの録音なら全て持っていたいという熱烈なファンだったが、1968年の自著「ステレオ 聴く人の創意とよろこび」という本で「フルトヴェングラーによるベートーヴェンの『第九交響曲』のレコード(エンジェル)は、総練習の実況録音、といわれるもので、聴衆の咳なども入っている」と記していた。つまり知る人は知る事実だったのだが、あの拍手までも捏造だったとなれば話は別であると、息まく人も多かった。といっても「バイロイトの第九」がフルトヴェングラーの演奏で最高の物であることには変わらず、ライヴじゃなくてもフルトヴェングラーの演奏は凄いに論調が変わり、これまでの異常ともいえるライヴ録音発掘熱も冷静さを取り戻したというべきだろう。同じようなことはAuditeがライセンス販売しているベルリンRIAS放送局に保管されていた戦後ベルリンフィル定期演奏会のオリジナルテープにも言えて、これまで音質がバラバラで一喜一憂していた海賊盤市場をリセットする状況を生んでいるといえる。
これには後日談もあって、実は1951年のバイロイト再稼働の際にEMIが録音権を向こう10年間買い取っていた件で、お陰でその時期の放送用録音のテープは全てお蔵入りなっていたことである。EMIのほうはカラヤンが2年もして早々に撤退してしまったこともあり、他のライバル会社に奪われるのを阻止することも含め折角の権利を塩漬けにしたまま放棄してしまった。バイロイト公演のリリースは1962年のクナッパーツブッシュ「パルジファル」でフィリップス・レコードにより再開されたが、この合間を縫ってリリースされたのがショルティの「指輪」全曲盤である。魔の十年間の公演記録の正規リリースも21世紀になって実現したが、ORFEOレコードのCDはほとんどが廃盤となってしまっているものの、様々なサブスクで聴けるようになっている。

ベートーヴェンの第九だけでもこれだけの種類のレコードが流布した

フルトヴェングラー/バイロイト祝祭o:ベートーヴェン第九(1951)

戦後バイロイトのこけら落とし公演となった世紀の名盤「バイロイトの第九」の別バージョン録音で、おそらくこっちのほうが当日本番だったのではないかと思われている。映画評論家 荻昌弘の1968年の著書に、EMIのバイロイト録音は「総練習の実況録音といわれるもので聴衆の咳なども入っている」と書いてあり、知ってる人は知ってる事実だったのだが、もはや神がかりしたフルトヴェングラーのライブ演奏の旗印として後に引けなくなったのだろう。全般にオルフェオのリマスターは高域のしゃくれあがった独特なもので、EMIのものとは全く違う様相に賛否両論のものだ。よくバイロイトだから音がくぐもってるハズと言われるが、さすがに舞台演出のいらない第九は全員が舞台に上がっての上演であることはワーグナーの時代でも明らかである。一方で、合唱は普段の舞台よりも大分奥まっていくので、出足が遅れ気味なところをフルトヴェングラーも脚をドンと踏み鳴らしてオケとのタイミングを合わせようとするくらいだ。そうした空間的な距離も考慮したうえでの大所帯を鳴らし切るテクニックというのが、ライブの面白いところかもしれない。
上記と同じ演奏のスウェーデン放送版で、ミュンヘンの放送設備からデンマーク経由でヘルビー(スウェーデン南部)の放送局まで、有線回線を通じて実況されたものを、アセテート録音機で収録したものになる(発見時はテープにダビング済)。これが意外に音質が明瞭かつエネルギッシュなもので、ダイレクトカットされた音の勢いの強さも手伝って、当時の実況放送の実力に完全にノックダウンされた感じだ。残念ながら4楽章のクライマックスで放送事故があり、録音としての完成度を落としているが、ここがバイエルン放送テープの配信用アセテート盤コピー(トランスクリプション・ディスク)ではないことの証拠のようなものになっている。
日本のフルトヴェングラー・ファンが発売時に注目したのは「本物の拍手」が収録されているかだったが、おもに宇野功芳の「虚無の中から聞こえて来るように」という名解説の真偽への興味であって、フルトヴェングラーの演奏内容がそれで変わるものでもない。むしろ問題なのは、発売元のBISでは発見したテープの音量を元のままいじっていないとのことだが、聞こえにくいmpの音量とffに達したときの爆音との間で模索する不安定な音量の振れが、録音時のレベル操作なのか、そもそもフルトヴェングラーの演奏の特徴によるものなのかの区別が付きにくく、本来はこっちのほうに注目したい内容だ。その鮮度といいエキセントリックな風情は印象としては1942年のベルリンの第九に近いのだ。
個人的に感動したのは、バイエルン放送のリミッターを深く掛けた録音姿勢とは逆に、中継点にあったベルリン、ハングルクが巨匠のダイナミズムを生のままでスウェーデンまで届けようとした心意気である。長らく音楽監督を務めていた地元ベルリンはともかく、ハンブルクには戦中から巨匠の録音を担当したシュナップ博士がいて、それぞれ巨匠の演奏を熟知した人たちがバトンを繋いだ。それがこの録音を単なる記録ではなく、フルトヴェングラーが行ったバイロイト再開の記念碑的な意義を十全に伝えている感じがする。


【板起こしとオリジナルプレス盤】
21世紀を前後して版権の行方が曖昧になると、かつてのLP盤から復刻する「板起こしレーベル」が散発した。理由はというと、1950年代の初回プレスと新しいLPやCDの音があまりに違う点を挙げ、その亡霊のように面影しかない演奏は、再発のバジェット盤に使用したテープが磁気劣化したからだという。つまり元のオリジナルテープからカッティングしたレコードには、生き生きした巨匠の演奏が新鮮なまま閉じ込められているというのだ。
こうした生前に起きた奇蹟の数々をトレースすべく、板起こしに使うオーディオ機器にも、オルトフォンやEMTという最高のアナログ機器を駆使してのリマスターとなった。そこで話題になったのは、実際に手にしたLP盤を聴いた人の感想を綴ったブログで、個人的にはLPとCDで音が違うのは当たり前、高いお金を出してようやく手にしたLP盤のほうが貴重品、その2文を読んだだけで様相が判る。つまりレコードコレクター初心者らしき人が急増しただけで、初期プレス盤はただの消費物へと変わり、非常な高騰を招いたのだ。
例えば、1953年にウラニア・レコードから出た1944年ウィーンフィルとの放送用録音は、既にEMIでの再録盤がリリースされていたため裁判で差し止めとなり、テープを早回ししたエキセントリックな演奏とも相まって「ウラニアのエロイカ」として伝説と化したが、仏ターラが良質なテープを探り当て正常なピッチでリリースしたにも関わらず、このレコードの板起こしは今でも続いている。「バイロイトの第九」も恰好のターゲットであり、既に10枚を優に超える異種復刻盤が存在する。全く飽きない人は居るものである。
私の意見では、21世紀に残すべきフルトヴェングラーの遺産は、誰でも聴けるようにするべきであって、特別な方法でしか入手できないような希少性からはサヨナラを告げる時期がきていると言える。少なくともフルトヴェングラーと専属契約を結んでいるEMIからの訴訟を恐れてコソコソする必要性はなくなったのだ。しかし現状のような趣味でオークションに参加する俄かコレクターが増えることが続けば、希少な初期プレス盤が市場から消え去るのも時間の問題といえるし、新興の板起こしレーベルも個人が亡くなればデジタルマスターの引き取り手がない。これはターラやキングインターナショナルのような大手でも倒産によって販売ルートが断たれるのが実情である。さらにアビーロードスタジオが自主でのリマスター作業を諦め、フランスのArt&Sonスタジオに委ねたことでも明白で、金属原盤からビニールプレス盤を造った板起こし、磁気テープの捜索でも失われたとされた1950年のベートーヴェン7番の別テイクを含めた元テープを探し当てたりと、本当のプロの仕事とはこういうことを言うのである。

フルトヴェングラー正規レコード用録音集大成(1927~54)

フルトヴェングラーの録音は9割が戦後のライブ音源で占められ(ほぼ日記のようにリサーチされている)、スタジオ録音はむしろ後に押しやられている感じもするが、こうして聴くと巨匠が本当は何を言いたかったのか、そういう感慨にふける。最初の1927年吹き込みこそ本人が破棄してくれと懇願したというし、1937年のインタビュー「音楽を語る」ではレコード売り上げを意識したコンサート・プログラムを大衆迎合的だと批判したりしたのだが、ここではそんな自己批判を跳ね返す内容であることを慎重に吟味した内容であると信じたい。
アビーロードからArt&Sonへ委ねられたリマスターは、丁寧な盤面のリサーチでニュートラルにまとまっており、これまで戦後のHi-Fi録音しか注目を集めなかったSP盤用に録られた1951年までの約半数の録音もそれなりに聴けるのはありがたい。
録音年代では1927年のセッションはまだラッパ吹き込みと変わりない状態だが、アビーロードスタジオが建設された1931年頃から、WEの録音機材が導入されたのか音質が安定してきており、1937年には有名な運命、悲愴のほか、コヴェントガーデンでのワーグナー指輪抜粋も非常に明瞭な音で蘇っている。1940年代はラジオ用のマグネトフォン・コンサートでの収録がメインなので商用レコードはご無沙汰だが、販売の見送られた1943年のハイドン変奏曲、田園も、マグネトフォン録音のウラニアのエロイカなどと遜色ないHi-Fi音質。戦後1948年から販売が再開された英雄、ブラ1,2などもニュートラルに収まっている。
1950年代の超有名盤は無限数のリマスター盤でお騒がせしているが、過去の録音との比較が高次元で可能となったこのBOXセットの存在意義は大きいように思えた。何よりも無理やり端数を合わせたベト全で、4番の前座や田園の後に汚い音を聴かなくてよくなっただけでも、心落ち着かせていられるし、運命と第七を一緒にせず、年代別に第七は未完成とカップリングし、運命は1枚単独で独立させるなど、鑑賞するのにも適した配置となっている。単純にフルトヴェングラーのセッション録音は、晩年様式と言われるものに近いスタンスを作品と取っており、どんな演奏したか分からなくなるほど意識が飛んで無我夢中に演奏するライブでの興奮状態とは違う。普通に作曲家の作風を従順に伝えようとする、ドイツ人のカペルマイスターとしての責務を果たしていると言えるのだ。そこをバイロイトの第九や復帰演奏会の運命などによって、パンドラの箱を開けてしまったのが現在地点というべきだろう。巨匠本人がどう思っているかは伺い知る由はない。


今回はこうした誤解も含めて伝承されるフルトヴェングラーという現象について、オーディオマニアの視点から色々と綴ってみたいと思った次第である。




【フルトヴェングラーのコンサート】

【実態の把握が難しいレパートリー】
まず巨匠がコンサートで繰り返し取り上げた演目を挙げると、ベートーヴェン:英雄、運命、田園、7番、第九、シューベルト:未完成、グレート、ブラームス:1~4番、ブルックナー:8番、ワーグナー:管弦楽曲集ほか数々の序曲である。他に名演として知られるものにシューマン4番などがあるが、これだけ見るとドイツ系作曲家の交響曲にほぼ限定されており、思ったよりレパートリーが広いわけではない。長くベルリンフィルに留まったため、オペラを指揮する機会が少なく、戦後にウィーンフィルとの関係が上手くいくと、ザルツブルク音楽祭でオペラを指揮するようになったが、基本的にはシンフォニストとして君臨しているのだ。

ウラニアのエロイカ、復帰演奏会の運命、バイロイトの第九は三種の神器
録音の点で勝るEMIの英雄とベト7、トリスタン、グレート、若人の歌は必聴盤

同じようにオペラを振らないシンフォニストには、ワインガルトナー、メンゲルベルク、モントゥー、セル、シューリヒト、オーマンディなどがいるが、そうした巨匠たちと比べてもフルトヴェングラーはレパートリーの狭さに比べレコードの枚数がダントツに多い。レパートリーの狭さをさらに印象づけるのは協奏曲で、独奏者にとってフルトヴェングラーは、伴奏に徹しないで独奏者を呑み込んでしまう、一番厄介な相手だったともいえる。並み居るヴィルトゥオーゾは、フルトヴェングラーとの共演を避けているともいえる。逆にオペラに関しては、歌手が一同に口をそろえるのが乗り心地の良さで、意外にもブレスのタイミングなど上手く誘導しながら音楽運びをしているらしい。これは歌手の手綱をきっちり握るためにゲネプロで虐待にも近い仕打ちをするベームとは大違いであるし、自分の音楽美学を優先して歌手のアドリブを許さないトスカニーニともやはり異なる。逆にクナッパーツブッシュは歌劇場を主戦場にしていたため、オーケストラだけのコンサートは遊び半分で豪快に蹴散らかしていく感じがある。戦前からシンフォニーとオペラのどっちも器用に振舞うベームやライナー、E.クライバーやフリッツ・ブッシュ、戦後から活躍を広げたカラヤンやショルティ、あるいはカイルベルトやフリッチャイ、クリュイタンスのような指揮者は新世代に属し、レコーディング活動にもタフに対応することで、世界標準のマエストロになっていったのだ。しかし、フルトヴェングラーは不器用と言っていいほどレパートリーが狭い。実際のコンサートではかなり広い楽曲を扱っていたのだが、どうしてもベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ワーグナーに群がってしまうし、それが通り一遍でないので何度聴いても飽きない不思議な魅力をもっている。

フルトヴェングラーの演奏で評価が分かれるのは、それがベルリンフィルかウィーンフィルかで、黄金期を迎えていたベルリンフィルとの戦前~戦中の放送録音に対し、戦後にEMIに残したウィーンフィルとのスタジオ録音のほうが優先される傾向にある。しかし、ライブ録音となると評価は一転して、ベルリンフィルのほうが自由闊達に演奏しており、ウィーンフィルでは気だるいルーチンワークのような演奏も多い。このウィーンフィルが本気を出したときが、決まって世紀の大名演となるため、ハズレ感の落差も大きいのだ。コリオラン序曲で面白い逸話があって、出だしのジャ~~~~~ン、ジャン!の、最初のフェルマータのときに、巨匠がブルブル震えながら徐々に腕を挙げていく所作から、フォルテで強打するティンパニーのタイミングをどう取るかについて、ウィーンフィルは「もうどうにも我慢できなくなったところで打つ」と答えたのに対し、ベルリンフィルは「プルプルが何回あったかで打つよう決めている」と答えた。ベルリンフィルはそうした巨匠の気まぐれにも、いつでも対処できるよう訓練されてきたのだ。

「振ると面食らう」とも揶揄された自己流丸出しの指揮姿
戎谷悠作、anonymous(1936)、Rudolf Effenberger(1950)
Ilse Beate Jäkel(1945)、John Minnion(2004)

そんなフルトヴェングラーも、崇拝するベートーヴェンでも好き嫌いがあり、まるで猫マタギのように見向きもしなかったのが、ベートーヴェンの2番と8番である。逆にコンサートでよく取り上げていて録音の多いのが、英雄と第九である。偶数番が苦手とも言われるが、4番は結構演奏機会をもっていたし、田園は運命とカップリングして煩雑に取り上げていた。8番も7番とセットになりうるのだが、戦後になってその価値を見出し、録音機会は3回しか残されていない。また1番は自作の交響曲と一緒に演奏することがあり意外に演奏機会が多い。むしろ2番の演奏が9回と指で数えるほどしかなかったのは、それがベートーヴェンの交響曲の全曲演奏チクルスのときだけに限られていたことと関連しているようだ。ワインガルトナーやトスカニーニ、メンゲルベルク、あるいはクレンペラーのように頻繁に全曲演奏をステージに掛けることをしなかった。このためEMIに録音しなかった2番と8番の捜索はかなりの困難を究め、特にベルリンフィルを外して選ぶという点でも選択肢が狭まり、結果的に1972年に8番がストックホルム王立o(1948)で、1979年にウィーンフィルとの2番(1948)が順次投入され、全集として揃ったのは巨匠の没後25経過した後であった。その間に8番はベルリンフィル定期(1953)とザルツブルク音楽祭(1954)が見つかった一方で、クリュイタンス盤ではないか疑惑など議論は尽きなかった。1974年には米オリンピック盤による偽2番騒動(E.クライバー盤)があり、1978年に2番のロンドン公演アセテート盤が見つかったときには、真偽の判定が確定するまで宣伝も控え目になっていたとも言われる。

コンプリートできないベト全と偽物に踊らされた日々→お耳汚しのEMI全集盤

ちなみにオリンピック盤の偽物判定を掲載したのは、アメリカの「ハイフィデリティ誌」1975年5月号の読者投稿欄だった。実は元のオリンピック盤では録音年もオーケストラ名も不記載だった(同1975年1月号でレコード紹介)し、エリザベート夫人自らもオリンピック盤は海賊盤であり、例の2番も偽物だと声明を出した。レコード批評欄でも、2番の演奏をかなりいかがわしい物とし、この手の海賊盤を買うことでレコード会社に利益(エサ)を与えないようにとの注意喚起がなされている。ところがひょんなことから、日本フォノグラム盤では「1929年ベルリンフィル」と記載してあり、それが偽物判定の引き金になったことが記されていたのだ。以下はその記事のいきさつであるが、この手の真偽の判定は、熱心な愛好家や専門家でも難しいことが伺える。

ハイフィデリティ誌1975年1月号より

ベートーヴェン:交響曲(9曲)
様々なオーケストラ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
オリンピック 8120 / 7、34.86ドル(7枚組、モノラル)[1943-52年 再録音]。

エベレスト・レコードがヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲全集を発売したとの情報が入りました。この全集に収録されている9曲のうち、第1番、第3番、第5番、第6番、第9番はヨーロッパで行われた演奏の無許可テープコピーであり、第4番と第7番はVox/Turnabout盤の同様の演奏と同一、第8番は1948年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団と共演したUnicorn/EMI/Electrola盤と同一、そして第2番は偽物であることをここに公に表明いたします。フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第2番の録音は存在しません。彼はこの曲を演奏する機会が非常に少なく、戦時中に録音されたとされるものも偽物であることが判明しています。 私の知る限り、エベレスト・レコードは原盤の所有者、Vox、Unicornのいずれからも許可を得ていません。この資料の出版に関して。海賊版、盗用版、偽造版の録音物の流通はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの名声を損なうものですが、音楽愛好家の皆様は、これらの録音物が必ずしもヴィルヘルム・フルトヴェングラーの真の芸術を体現しているわけではないことをご理解いただけると確信しております。

エリザベート・フルトヴェングラー

エリザベート・フルトヴェングラー夫人の声明は、エベレスト・レコードが新たに発売した謎めいたパッケージ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲全9曲を収録したとされる「オリンピック・シリーズ」への、見事な導入部となっている。蝶番のないアルバムボックスの外側には、これらの録音の由来を示す手がかりは一切なく、指揮者のありきたりな略歴が記されているだけだ。内側のラベルには、交​​響曲第2番を除いてオーケストラの名前が記されているが、録音の日時、場所、経緯については何も書かれていない。

私自身のコレクション内で同時同期再生比較を行うことにより、5つの交響曲の起源を検証することができ、それによってフルトヴェングラー夫人の声明にある情報を以下のように補足(および若干修正)することができました。
第1番:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、コンサート形式演奏、1950年7月13日。
第4番:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1943年6月27日/30日。実際には、この録音のうち、ターンアバウトTV 4344のスタジオ録音と同一なのは最後の2楽章のみで、最初の2楽章は、観客の雑音が入った、同時期に行われた同様のライブ演奏から取られています。この合成版は、ロシア盤メロディアD 09083/4を基にしており、これまでアメリカでは発売されていませんでした(以前のVox、DG、Heliodor盤はすべてターンアバウト盤と同一でした)。
第7番:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。1943年10月31日/11月3日。同じ演奏がTurnabout TV-S 34509で放送されている。
第8番:ストックホルム・コンサート協会管弦楽団(エベレストは「スウェーデン国立管弦楽団」と呼んでいる)。1948年11月13日。同じ演奏がヨーロッパではElectrola C 05393533で発売されている。
第9番:ソプラノ:ヒョルディス・シムベリ、アルト:リサ・トゥネル、テノール:ヨースタ・ベケリン、バリトン:シーグルド・ビョルリング、ストックホルム・コンサート協会管弦楽団、ムジカリスカ・サルスカペット合唱団。1943年12月8日。この演奏の最終楽章は、アメリカで個人所有のレコードに収録され、明らかに偽造版と思われる交響曲第8番とカップリングされて流通した。

エベレストは、交響曲第3番、第5番、第6番を「RAIローマ管弦楽団」の演奏としている。比較できる適切なテープは手元にないが、 これらは1952年1月10日(交響曲第5番と第6番)と19日(英雄)にローマで行われた2回のコンサートからの演奏であると考えるのが妥当だろう。 いずれもローマ管弦楽団の特徴をよく表した演奏であり、録音状態もまずまず良好だ。

残るは交響曲第2番。フルトヴェングラー夫人はこれについて「偽物」と断言している。彼女は、精力的なフルトヴェングラーのディスコグラファーであるヘニング・シュミット・オルセンと緊密に協力関係にある(彼の貴重な著作の第2版は、カリフォルニア州バークレー、テレグラフ・アベニュー2484番地のモーズ・ブックスで3.50ドルで入手可能)。そのため、これは権威ある発言と受け止められるだろう。もしフルトヴェングラーによる交響曲第2番の稀な演奏の録音テープが見つかれば、この二人は必ず知っているはずだ。いずれにせよ、エヴェレストが演奏に関わったオーケストラの名前を明かさないのは、信頼感を損なうものであり、演奏自体も、ぎこちないテンポの変化を伴う、奇妙なほど不安定なものだった。フルトヴェングラーは楽章内でテンポを顕著に変更することで有名である。しかし、フルトヴェングラーはそうした局面で、聴衆に意図を疑わせることはほとんどなかったのに対し、オリンピック管弦楽団の指揮者は、自分が何をしようとしているのか確信が持てないように見える。 また、第1楽章の緩やかな導入部は、らしくもなく性急で、フルトヴェングラーならそうしたであろう深遠な転調について熟考する様子はほとんど見られない。

信憑性の問題についてはここまでにして、音質はどうでしょうか?アンダーグラウンド・テープのコレクターやターンアバウト盤の所有者なら、音質に関して何を期待すべきかはお分かりでしょう。一方、エベレストの他の作品に詳しいコレクターなら、「エンジニアが何百時間もかけて、ポップノイズや歪みを排除するために、根気強くスプライシング、編集、調整を行いました」という箱の小さなメモを鵜呑みにしないでしょう。確かにそうしたのかもしれませんが、ピッチのずれや、かなり目立つワウフラッター、ピッチの落ち込みなどを修正できず、欠落していた小節(第七交響曲のフィナーレの冒頭部分)も復元できず、劣悪な素材にレコードをプレスしたのです。
言い換えれば、これはお買い得とは言えず、フルトヴェングラーのベートーヴェン演奏への入門としては決して良いものではない。スタジオ録音の交響曲第3番、第5番、第7番(セラフィムIC 6018)やバイロイトでの交響曲第9番(セラフィムIB 6068)の方が、はるかに満足のいく入門編と言えるだろう。
一方、フルトヴェングラーを貪欲に研究する学生なら、ここに興味深いものを見つけるだろう。例えば、第5交響曲の、驚くほど幅広く、重厚なアクセントを用いた演奏は、終楽章で圧倒的な迫力のクライマックスを迎える。(第2交響曲と第9交響曲を除くすべての交響曲は、単独ディスクでもリリースされている。)しかし、このような海賊行為を助長するのは好ましくない。もしあなたが信頼できるテープの入手先を知っているなら、エベレストのような粗悪な便乗業者に利益を与えることなく、より良い音質の演奏をほぼ確実に見つけることができるだろう。

デイヴィッド・ハミルトン
ハイフィデリティ誌1975年5月号より

フルトヴェングラーの謎:解明!

日本フィリップスから発売されたオリンピック/エベレストのフルトヴェングラー指揮ベートーヴェン交響曲全集(デイヴィッド・ハミルトン氏が1月号でレビュー)には、全9曲のオーケストラと録音年が記載されています。(録音年はハミルトン氏の推測と一致していますが、第8番は1940年と記載されています。これは明らかに誤植でしょう。)物議を醸した第2番については、フィリップスはオーケストラをベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、録音年を1929年としています(!)。
グレッグ・オーデット
ニューハンプシャー州ハノーバー

フルトヴェングラー指揮によるオリンピック/エベレスト盤「ベートーヴェン交響曲全集」のレビューは素晴らしいものでした。幸いなことに、オリンピック/エベレストの倫理観は業界全体を代表するものではありません。ご興味のある方のためにお知らせいたします。この偽の演奏とされる交響曲第2番は、実際には1929年にエーリヒ・クライバー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団によって録音されたスタジオ録音です。このバージョンは、Heliodor 2548 747として正式に入手可能です。
アントニー・W・オール
フォーキャスト・マガジン
メリーランド州シルバー・スプリング

数名の読者から、オリンピック盤の原典と思われるものとして、日本のフィリップス盤が注目されているとの指摘がありました。ハミルトン氏は、もし彼が1929年の交響曲第2番の意外な帰属を知っていたら、おそらくクライバーの録音を思い浮かべただろうと述べています。確認した結果、彼はオ-ル氏の意見に同意しています。


ここには1970年代アメリカのフルトヴェングラー熱に関するいくつかの情報が含まれており、ひとつは英ユニコーン盤はまだアメリカでは量販されておらず、対するVOXレコードがバジェット盤のTurnaboutシリーズで戦中のマグネトフォンコンサートを量販しており、どうもフルトヴェングラー研究家のデイヴィッド・ハミルトン氏はEMIのバジェットであるセラフィム盤を差し置いて音質の悪いライヴ盤を購入する人を強くけん制していたようである。そういう状況なのでリソースの真偽は、アメリカのレコード業界が持つ倫理観(プライド?)にも関わることであるため、例えば1945年のウィーンフィルとのフランク交響曲は、英ユニコーン盤がデッカ盤をコピーしたメロディア盤を下地にしていたのに対し、米VOX盤は「本物」を提供していたなど、リソースの課題にも常に取り組んでいた。一方で、その音質に関する事柄は偽の情報を掴まされていたような気がしてならない。なにせドイツやオーストリアの放送局アーカイヴには鮮明なライヴ録音のオリジナルテープが保管されていたし、現在でさえドイツ国内に個人蔵のコピーテープが散在し、それが本家のレコード会社がもつ何世代もコピーし続けたものより良質な点がいくつもあるからだ。つまりこの議論から半世紀経った21世紀には、フルトヴェングラーの演奏はそれがセッションであろうがライヴであろうが、両者は同じノイマン製のコンデンサーマイクと磁気テープ録音機を使用したHi-Fi録音として肩を並べる時代がきたのである。
もうひとつは、1975年頃のハイフィデリティ誌の読者にフルトヴェングラーのレコードに関心を持つ人が少なからず居て、2ヶ月に一度は誰かしらフルトヴェングラーの名を口にしていることである。例えばワルキューレではクレンペラーのテンポの遅さをフルトヴェングラーの意義深さと比較したり、シューベルト未完成でもヨッフムやワルターに対しフルトヴェングラーの演奏を神秘的と評したり、LPで出たばかりのローマRAI管との指輪では「彼のベートーヴェン解釈は非常に高い評価を得ている(セラフィム・レコードから4枚リリースされている)が、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの名前は必然的に『ニーベルングの指環』と結びついている。アメリカン・レコード・ガイド誌は、この演奏について『卓越した音楽的解釈であるだけでなく、その哲学に対する深い理解も示している』と評し、『他のすべての演奏は、この演奏を基準に判断されるべきである』と断言した。」とか、「この20年間活躍した指揮者の中で、今日のレコードカタログに真の存在感を示しているのは、フルトヴェングラーとトスカニーニの2人だけです。」などなど、50年前の1920年代以来から渡米したことのないドイツ人指揮者としては異例の評価が留まらない。これは、1950年代に発刊したハイフィデリティ誌の読者がHi-Fi初期のレガシーを引き摺って、ステレオLP全盛期の最中でもコスパ重視のレコードプレーヤーやレシーバー(FMチューナーとプリメインアンプ)の特集に興味があり、レコードでもバジェット盤のBOXセット(例えばスワロフスキー指揮「指輪」など)を引き合いに出すなど、やや庶民的な傾向があったことと結びついている。このようにオーディオ誌でありながらフルトヴェングラーの録音への興味が尽きない背景には、まだ古いタイプのオーディオ装置を使い続ける読者が少なからず居たことを物語っている。これは日本のレコード音質批評のように、フルトヴェングラーのレコードについて精神的音楽鑑賞のような言い方にはならなかったことに特徴付けられる。なにせ、第九のレコードをトスカニーニとフルトヴェングラーしか持っておらず、ショルティ盤(1972)のレビューでこれら昔の名盤を「中古車」扱いされたと怒る読者もいたのである。しかし、フルトヴェングラー研究家のハミルトン氏のように、EMIのスタジオ録音を差し置いてVOXのバジェット盤ライヴ録音に熱狂することは良くないと考える評論家も論戦のなかに必ず居たのである。日本での宇野功芳氏のように、バイロイトの第九を頂点とするライヴ録音を人類の宝と称するような事柄とは全く逆の方向を向いていた。

さて、ベートーヴェンを神に等しいように崇敬していたフルトヴェングラーだが、自身の作曲活動に一番近い隣人と考えていたのがブラームスだった。しかし、ライヴ録音は数多く残されていても、スタジオ録音となると1947年の1番、1948年の2番のみで、いずれも代表的な演奏とは言い難い。おそらく思い入れの大きい割には、スコアの完全性が求められると、その都度に録音が中断され、全くシラケた雰囲気になり、次第にそれが怒りに変わっているように思う。それと意外にもこの頃のウィーンフィルは、ブラームスの北ドイツ的な風情が肌に合わないのか、フルトヴェングラーとの演奏ではダラダラと流してしまうことが多い。ベルリンフィルとの演奏は自由気ままにやりすぎている感じもあり、ワルターやベームなどの形式の整った演奏を聴くと、森の木陰でジプシー娘に恋したロマンス小説でも読んでいるかのようだ。同じような感触はフランスのバイオリニスト ヌヴーのブラコンにも言えるので、意外と鬼才がブラームスの秘めた熱情を露にするという一面があるかもしれない。その意味ではフルトヴェングラーのブラームスは、巨匠の芸術を言い表す点で一番の試薬といえるのかもしれない。

今どきの週刊誌なら「英雄 色を好む」という諺どおりのシチュエーション

意外に無視されているのがブルックナーの演奏で、フルトヴェングラーはいち早くハース版の楽譜を取り上げ、マグネトフォンの長時間録音の性能を活かし5~9番の録音が残されているのだ。戦前のベルリンでのブルックナー演奏は、ウィーンのそれよりも盛んだったと言ってよく、それはワーグナーの正統な後継者としての地位を与えるため、ヴァルハラ宮殿への胸像の展示にも及んだ。ゲルマン神話に熱中していたワーグナーならいざ知らず、熱心なカトリック教徒だったブルックナーからすれば寝耳に水だっただろうが、ハース博士はそれがブルックナーの名誉に繋がることなら何でも協力したようだ。そしてその渦中にフルトヴェングラーとベルリンフィルとが居たのである。同様にベルリンフィルとブルックナーを演奏した指揮者には、シューリヒト、クナッパーツブッシュ、ベーム、ホーレンシュタインなど様々なタレントが参加していたが、いずれもナチスとの関係から戦後に黒歴史として葬り去られるようになった。

フルトヴェングラーが得意にしていたレパートリーでも、思っているほど演奏機会に恵まれなかったのがワーグナーの楽劇で、戦前はまだ著作権料が高額なうえに、ワーグナー家との関係を良好に築くロビー活動が必須で、バイロイトには1931年、1936年、そして1943~44年にしか出演していない。戦後はナチスとの関係が疑われるなかで、バイロイトはおろかドイツ国内でも疎遠になってしまった。ワーグナー以外のオペラ作品の取り組みは、戦後になってウィーンフィルとの関係が良好だったこともあり、ザルツブルク音楽祭でモーツァルト「ドンジョバンニ」「魔笛」、ベートーヴェン「フィデリオ」、ウェーバー「魔弾の射手」などを取り上げた。これらはワーグナーに続くドイツ語オペラセリアの伝統をなぞる形でレパートリーを形成していた。一番残念なのは、親友だったココシュカに衣装デザインを委嘱した魔笛の舞台が、巨匠の逝去のためボツになったことで、代打としてショルティが抜擢された。

ココシュカ「風の花嫁」とザルツブルク音楽祭にデザインされた魔笛の衣装

一方で、ドイツの現代作曲家にむける眼差しはかなり健全で、ナチス政権下でのヒンデミットの擁護など、率先してコンサートで紹介していた。戦後も新古典派の作曲家(ヒンデミット、フォルトナー、ブラッハー、バルトークなど)の作品をコンサートで取り上げており、フルトヴェングラーらしくないのであまり評価されていないが、楽譜通りにきっちり演奏している。これはおそらくチェリビダッケがきっちり稽古を付けての登壇であったと思われるが、気に入らなければ自分のコンサートには載せないだろうから、フルトヴェングラーなりにドイツ音楽の行く末を案じていたと思われる。


1933年の誕生日に駆け付けた気のいい仲間たち
(B.ガイスマー、E.フィッシャー、クーレンカンプ、ヒンデミット)
初演前のピアノ協奏曲を試演中のストラヴィンスキー(1924)
ブダペストでのコダーイ作品のコンサート(1943)
リハーサル中に打合せするボリス・ブラッハー(1954)

フルトヴェングラー抜きのベルリン楽壇というのも現実にはあって、戦前はE.クライバーがベルリン国立歌劇場で向こうを張っており、戦中はあれほどヒトラーから嫌われていたクナッパーツブッシュがベルリンフィルをクソ真面目に振る機会も結構あった。戦後は音楽監督を務めていたチェリビダッケに加え、RIAS管弦楽団のフリッチャイ、バイエルン放送響のヨッフムなど中堅にして即物的な演奏に優れた指揮者、それに熱血漢のケンペン、大御所のベームも客演していた。こうしてみると、ベルリンフィルはフルトヴェングラーだけのものではなく、当たり前のことだが時代に即応した冷静なオーケストラ運営をしていた。フルトヴェングラーが最も嫌っていたカラヤンが音楽監督を引き継いだのも、ベルリンの観衆が期待していたのがチェリビダッケに代わる新世代のマエストロであって、隣のRIAS管弦楽団で膨大なレパートリーを堅実にこなすフリッチャイを羨望の眼差しでみていたかもしれない。個人的に気になるのは、ライヴ録音でppのときの咳払いの多さで、ベルリンには風邪引きが多いのがと勘違いしそうになるが、実際には「聴こえねえぞ!コラ!」の合図だったと思えることだ。その意味では、ベルリンフィルはフルトヴェングラーの指揮したときだけ、あれだけ特別なトランス状態を生みだすことができたのだが、それはオーケストラの運営面から考えるとオプションでしかなく、そうでなくてもやっていける道を常日頃から模索していたのだ。それゆえに、カラヤンかフルトヴェングラーか、ではなく、それがベルリンフィルなのだ。

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【フルトヴェングラーのアーカイヴの再検討】
従来からフルトヴェングラーの録音で三種の神器として有難がられているは、「ウラニアのエロイカ」「復帰演奏会の運命」「バイロイトの第九」なのだが、ここではそのレコードは取り上げない。21世紀初頭に盛んになった板起こしブームのように、1950年代のビンテージ・オーディオと合わせて、初期プレス盤(中古盤)がやたらに高騰するような事態を招いて迷惑だからだ。
むしろターラが発掘した「1944ウィーンのエロイカ」「1951ハンブルクのブラームス1番」「1954ルツェルンの第九」などのように、録音が鮮明になったことで客演でも十分な実力を発揮している巨匠の姿を垣間見られるようになったことに端を発する、リマスタリングされたフルトヴェングラーの芸術性を正面から評価すべきだと思う。つまりスタジオ録音>ライヴ録音という、音質の天秤の軸を外して、平等に並べてみる必要があると思うのだ。
困ったのは、こうしたフルトヴェングラーの芸術性に真正面から取り組んだリマスター盤への評価が、低レベルなオーディオ批評を書きこんだ口コミで貶められたり、開発方針がそもそも異なる進化した高級オーディオで相性を計るような無茶な対応に迫られたりと、せっかくド根性で海賊盤を聴いていた時代から抜け出した甲斐がない状況が続いている。

私自身はフルトヴェングラーの録音はSACDである必要を微塵も感じておらず、CDさえちゃんと再生できない状態でオーディオを語らないで欲しいとも思っている。大概のオーディオ的な躓きは、CDの音声規格を1950年代のラジオ放送の規格に擦り合わせて最適化する努力を欠いていることに起因している。あれだけバカにしてきた「ラジオの音」さえも満足に再現できないほど、現在のオーディオは歪んだ方向に進化してしまったのである。CDだから音が良いわけではなく、アーカイヴとして整った現在であるからこそ、録音年代に合ったオーディオ環境を整えることも考えてほしい。

さて半世紀の時空を越えて、正常な電波で受信できるようになったフルトヴェングラーのライヴ放送はいかがだろうか? その一期一会の時間に巨匠が何を感じ、何を音に表そうとしたのか、そうした記憶を辿るのもまた楽しみ(いとおかし)なものである。

基本資料としてのBOXセット
実に大量のCDが販売されては消えていくのであるが、フルトヴェングラーのファンはどうしても在るもの全部を知って置かないと気が済まないマニアが多い。同じ演奏でも数種類のレコードを持っている研究家も居るぐらいなので、それこそ病みつきになるのがフルトヴェングラーの演奏である。そのうち、これは持っておきたいというべきCD-BOXを以下に陳列する。どれもアーカイヴとして万全だし、巨匠の芸術に触れるのに十分な音質を備えた、21世紀に向けたものである。あと挙げるとすればベルリンフィルが自主販売している第二次大戦中のRRGマグネトフォンコンサートのSACD-BOXだが、お値段のほうも高いので少し躊躇する。
フルトヴェングラー正規レコード用録音集大成(1927~54)

フルトヴェングラーの録音は9割が戦後のライブ音源で占められ(ほぼ日記のようにリサーチされている)、スタジオ録音はむしろ後に押しやられている感じもするが、こうして聴くと巨匠が本当は何を言いたかったのか、そういう感慨にふける。最初の1927年吹き込みこそ本人が破棄してくれと懇願したというし、1937年のインタビュー「音楽を語る」ではレコード売り上げを意識したコンサート・プログラムを大衆迎合的だと批判したりしたのだが、ここではそんな自己批判を跳ね返す内容であることを慎重に吟味した内容であると信じたい。
アビーロードからArt&Sonへ委ねられたリマスターは、丁寧な盤面のリサーチでニュートラルにまとまっており、これまで戦後のHi-Fi録音しか注目を集めなかったSP盤用に録られた1951年までの約半数の録音もそれなりに聴けるのはありがたい。
録音年代では1927年のセッションはまだラッパ吹き込みと変わりない状態だが、アビーロードスタジオが建設された1931年頃から、WEの録音機材が導入されたのか音質が安定してきており、1937年には有名な運命、悲愴のほか、コヴェントガーデンでのワーグナー指輪抜粋も非常に明瞭な音で蘇っている。1940年代はラジオ用のマグネトフォン・コンサートでの収録がメインなので商用レコードはご無沙汰だが、販売の見送られた1943年のハイドン変奏曲、田園も、マグネトフォン録音のウラニアのエロイカなどと遜色ないHi-Fi音質。戦後1948年から販売が再開された英雄、ブラ1,2などもニュートラルに収まっている。
1950年代の超有名盤は無限数のリマスター盤でお騒がせしているが、過去の録音との比較が高次元で可能となったこのBOXセットの存在意義は大きいように思えた。何よりも無理やり端数を合わせたベト全で、4番の前座や田園の後に汚い音を聴かなくてよくなっただけでも、心落ち着かせていられるし、運命と第七を一緒にせず、年代別に第七は未完成とカップリングし、運命は1枚単独で独立させるなど、鑑賞するのにも適した配置となっている。単純にフルトヴェングラーのセッション録音は、晩年様式と言われるものに近いスタンスを作品と取っており、どんな演奏したか分からなくなるほど意識が飛んで無我夢中に演奏するライブでの興奮状態とは違う。普通に作曲家の作風を従順に伝えようとする、ドイツ人のカペルマイスターとしての責務を果たしていると言えるのだ。そこをバイロイトの第九や復帰演奏会の運命などによって、パンドラの箱を開けてしまったのが現在地点というべきだろう。巨匠本人がどう思っているかは伺い知る由はない。
フルトヴェングラー/ベルリンフィル;RIAS音源集(1947~54)

戦後の復帰演奏会から最晩年までの定期演奏会の録音を、ほぼ1年ごとに紹介していくBOXセットで、2008年にリリースされたときには78cmオリジナルテープの音質のクリアさも注目された。グラモフォン盤と被らないように配慮されているため、ベートーヴェン第九、ブラームス1番などの得意曲が収録されていないのと、英雄、運命、田園、未完成、ブラ3など重複する曲目も幾つかあるが、それが戦後の演奏スタイルの変換を知るうえでも的を得ている。個人的に面白いと思うのが、ヒンデミット、ブラッハー、フォルトナーなどの新古典主義のドイツ現代作曲家を取り上げていることで、それも意外にフォルムをいじらず忠実に演奏していることだ。フルトヴェングラーが自身の芸風と人気に溺れることなく、ドイツ音楽の全貌に気を配っていることの一面を伺える。
フルトヴェングラー/ザルツブルグ音楽祭ライヴ1949-54

こちらはザルツブルク音楽祭でのライヴ録音をORFのオリジナルテープからリマスターしたもので、やや高域に癖のあるものの、かつての貧しい音質の海賊盤に比べれば雲泥の差で巨匠の至芸が堪能できる。1950年8/15&8/31、1951年8/19&8/31、1953年8/30、1954年8/30の各ステージを全て収録している。F.ディスカウと初共演した「若人の歌」や、枯れはてたブラームス4番、1951年のザルツブルグの第九など壮絶な演奏とともに、1954年の死の3ヶ月前のベートーヴェン7&8番など、上記のベルリンフィル定期と平行して年代を追える配置となっている。ベルリンフィルが正妻なら、ウィーンフィルは夏の恋人という感じがぴったりなのだが、プフィッツナーやヒンデミット、ストラヴィンスキーなどの「現代の」交響作品もステージに載せる意欲的な部分は共通している。相手が保守的なウィーンフィルだろうが、観光客目当ての祝祭会場だろうが、自分の信じるクラシック音楽界の将来をちゃんと見据えたコンサートを心がけていたのである。
フルトヴェングラー/ウィーン・フィル ORF戦後ライヴ(1952~53)

戦後のウィーンフィルとの共演のうちでも、ムジークフェラインでのライヴで録音状態の良いものを厳選してオーストリア放送協会(ORF)のオリジナルテープをリマスターしたもの。最初の1953年の第九は4ヶ月前に公演中に倒れてしまいお流れになった公演のリベンジで緊張感を保った状態で聴ける。1951年のザルツブルクではもっと堂々としていたが、そちらは録音のバランスがややおかしいのと、ザルツブルグ祝祭ホールよりも響きが芳醇なムジークフェラインでの録音だというだけで価値のあるものだと言いたいのだろう。ブラームス1番はEMI盤で有名なものだが、ややくぐもった響きのEMI盤に対し細部まで明瞭な音で聴ける。同日のハイドン変奏曲、二重協奏曲もバランスの良い状態だ。EMI録音後のエロイカお披露目ライヴ(当時はゲネプロでセッション収録がよく行われた)は、実演でも安定した演奏をするフルトヴェングラーが聴ける。同日のマーラー「若人の歌」はF.ディスカウではなくアルフレート・ペルによる独唱だが、事前のコレペティトゥアで意志統一して挑んでいる感じのする、特に驚きも破綻もない堅実な演奏である。
個人的に私淑する演奏
自分が個別に好きなCDを挙げれば、有名な超名盤ではなく、なんとなく秘密めいた発見のある演奏のほうが何回も聴いていることが多い。それをしっかりした音で聴けるようになったときの喜びときたら…まさに変態そのものである。
ブラームス:ピアノ協奏曲No.2/フルトヴェングラーBPO & E.フィッシャー(1942)

なぜか何回も繰り返し聴いている一枚で、この演奏の魅力はまずもって旧シンフォニーホールの木質の陰影ある響きで、次にE.フィッシャーの渋いピアノとベルリンフィルとの打ち解けたハーモニーである。それだけでブラームスとはどういう音楽なのかを満喫できる。この曲としては非常にドラマチックな演奏だとの評が多いが、フルトヴェングラーは常にホールの音響のダイナミックを最高度に活かすかたちでオーケストラをドライヴするので、起伏に富んだ演奏になりがちだが、そのなかでもフォルムを崩さないかたちで残されたのは、E.フィッシャーというリスト直系でも理性的なピアニストの存在を抜きにしては考えられないし、どんな姿勢でもコケないベルリンフィルのフィジカルな強さにも起因している。それがブラームスの音楽の構築性と融け合っているのだ。
ベートーヴェン「英雄」/フルトヴェングラー&VPO(1944)
同「運命」BPO(1943)

「英雄」のほうは、ターラレコードの放った3種の神器のひとつで、いわゆる「ウラニアもエロイカ」だが、ピッチも修正され音質もクリアになったおかげで、同じウィーンフィルと入れたEMIの1952年盤とほとんど遜色のない普通の演奏になったというもの。私が所有してるのはキングレコードから出た「戦時のフルトヴェングラー1」であるが、1943年ベルリンフィルとの「運命」と共に、柔軟でいて陰影の深い完璧なフォルムをもっている。エキセントリックだけなだけではない巨匠の至芸を改めて味わおう。
フルトヴェングラー/BPO:ヴィースバーデン演奏会(1949)

冒頭でフェルマータを掛けたように長く引き延ばされる出だしで有名なブラームス4番と、同じ短調で陰鬱なモーツァルトの40番との組合せが、フルトヴェングラーのロマンティシズムを代表する演奏として広く知られるコンサートだ。しかし、この演奏旅行の最中にプフィッツナーの訃報が入り、急遽プフィッツナーの代表作「パレストリーナ」の前奏曲が組み込まれ、コンサート全体で追悼の意が示されたことはそれほど関心が持たれていない。一般に関心が向くのは戦中と前年のブラームス演奏との出来不出来の比較なのだが、しかしこうして演奏会全体を通して聞くと、その追悼の意味がフルトヴェングラーの芸術観とより深いところで共感していることが理解できるのである。第一次世界大戦以降に混乱を究めたドイツにおいて、もはや取り戻せない時間を慈しむことが赦された瞬間だったと感じる。
ブラームス交響曲全集/フルトヴェングラー&BPO(1948~52)

ブラームスは巨匠が最も自分に近いと考えていた作曲家だが、なぜかスタジオ録音には慎重で、EMIの1番とデッカの2番で打ち切りとなってしまった。なので巨匠のブラ全だけはライヴ録音で良好なものを選ぶことになる。ブラームスの交響曲全集はEMIのものが有名だが、1番だけはVPOとの演奏にこだわり少し毛色の違う感じになっている。グランドスラム盤は、個人蔵のオープンリールを丁寧に探索しての復刻で、コピーテープの保存状態が良かったのか、中域にたっぷり脂の乗ったマグネトフォン本来の実力を知るうえで最良の例だと思う。同様の伝手でEMI全集と同じ2,3番も復刻されているので、聞き比べてみると皺だらけのフルトヴェングラーではない一面が聴けると思う(4番はもともと良くない)。最初の魔弾の射手序曲の音質がキレキレで、これだったらビンテージ・オーディオ屋に持っていっても煙たがられないように思うんだけど。
ベートーヴェン7&8番/フルトヴェングラー&BPO(1953)

auditeのBOXセットからは外された定期演奏会の収録だが、ここは同じドイツ国内で利権を分けたと思える。翌年のウィーンフィルとのライヴとの聴き比べで判るように晩年様式に差し掛かった時期の演奏ではあるが、ティタニアパレストの低音の反響が大きいのを上手く利用した野武士のような荒々しさがベルリンフィルの力強さとマッチしている。8番の最初からオーバードライヴ気味の雰囲気は、小交響曲とも呼べるような作品においても「ベートーヴェンかく在るべし」という思いの強さを感じる。
ベートーヴェン「英雄」、シューマン4番/フルトヴェングラー&ルツェルン音楽祭o(1953)

オリジナルテープからのリマスターで、晩年様式なんて言葉が吹き飛ぶぐらい若々しく覇気に富んだ演奏である。それに加え音質が良好となれば鬼に金棒である。ルツェルンは終戦時に亡命した際に、早くからフルトヴェングラーに演奏機会を与えたことで知られ、メニューヒンとの協奏曲の録音は記録に残っている。そうした恩もあるのか、集まった団員の全員が巨匠の音楽に心底惚れているからか、まったく安定した演奏を展開しており、逆にバランスが取れすぎて見過ごし(聞き過ごし?)やすい名演だと思う。
なんじゃこりゃ的な録音
なんかこういう適当な感じのCDに出会うと饒舌になるのは自分でも悪い癖だと思っている。というのも、しかめっ面の巨匠のユーモアに触れた感じがして、聴いていて脱力してしまうからだ。人生楽ありゃ苦あるさ~♪と歌いたくなるように、フルトヴェングラーだって何でも完璧に演奏する神様ではない。あまり真剣に聴くというよりは、観光のついでにコンサートに寄ってみた程度に思って聴けば丁度いい。実はこれこそが一番の贅沢なのだ。
ベートーヴェン交響曲全集/フルトヴェングラー&ストックホルム、ローマほか(1943~52)

米オリンピック原盤による海賊盤で、巨匠の没後20周年となる1974年にフルトヴェングラー初のベートーヴェン交響曲全集という触れ込みで発売され、当時の発掘音源の迷走ぶりを語るのに欠かせないネタだ。この全集のうち新発見の2番が1929年のE.クライバーによるスタジオ録音だったというオチがあって、まもなく廃盤となったもの。しかしその他の1943&48年ストックホルム(意外にハンサム)、1952年ローマ(意外に律儀)に客演したときのライヴ録音は、ベルリンやウィーンとは違う意味での、オーケストラビルダーとしてのフルトヴェングラーの至芸を味わえる貴重な記録である。例えばストックホルムの第九はベルリンに比べて造形が整っていてちゃんとフルトヴェングラー節が聴けるし、ローマでの田園は少し田舎臭さが加味されて良い感じで、ウェーバーの歌劇はこっちでやったほうが良かったと思う点もあったり、交響曲を聴衆との総合芸術だと、しきりに言っていた巨匠の言葉が思い浮かぶ。
古いコピーテープなので高域にはフィルターが掛けられており、お世辞にも高音質というわけでもないが、EMI全集ではお耳汚しになっていた8番もこうして録音水準が揃うと別に苦にならないから不思議だ。昭和のロートル・フルトヴェングラー・ファンはこんな音で聴いていたんだ~というトリビア的なものとして聴くとちょうど良い感じ。そのズッコケ迷盤のマスターテープを40年経った後にわざわざ探しだしハイレゾリマスターしたというのが、日本のコレクターを翻弄したキングレコードの凄さである。ド根性で聞いた昭和の甘酸っぱい思い出と一緒に一喜一憂するのも良いし、フルトヴェングラー受容史のなかでも黒歴史をキレイに浄化する(弔う?)意味でも、道端に佇む地蔵菩薩や馬頭観音のように、少し風化して表情が柔らかくなったり、苔がむして味が出たりと、ワビサビを味わう一里塚とも墓標ともなりうる歴史的なアイテムかもしれない。
ワーグナー「ニーベルンゲンの指輪」/フルトヴェングラー&ミラノ・スカラ座(1950)

フルトヴェングラーが指輪全曲を振った機会はそれほど多くなく(実際はどの指揮者でも多くないが)、この演奏は2種類あるほうの最初のほうで、まだワーグナー家とナチスの関係が割り切れない時期のものであり、それだけにフルトヴェングラーとしても新しい方向性を示す意欲に満ちていたと見受けられる。よく大病を患う前の1952年までの巨匠は神がかり的だという人がいるが、ここでのワーグナーはそんなものではない。従来のゲルマン的な鬱蒼とした森のなかから抜け出し、ギリシア彫刻のように肉体をさらけ出した神々と、それに対峙する人間の物語である。おそらくトスカニーニが演奏したらこんな感じになった、とも想えそうな、ヒューマニズムに打ち抜かれたドラマでもある。
問題は翌年からスタートしたバイロイトが、このラテン的な造形を重視したコンセプトを受け継ぎ、C.クラウスやクリュイタンスのような明解な指揮で、中世の騎士ロマンのような時代性を醸し出すことに成功している点だ。宇野功芳氏は、この指輪の演奏をソナタ形式のように割り切ってワーグナーらしさを削いでいると評しているが、それはフルトヴェングラーの生来のワーグナー観ではなく、戦後に新たな一歩を踏み出そうとした意欲的なアプローチだったと思う。なかなか聞く機会のない演目なだけに、一面的に巨匠の芸術観を語るのはよくないと思う。
もうひとつの問題はミラノ・スカラ座における指輪上演記録で、演目が「ジークフリート」と「ワルキューレ」に集中してたにしても、1890年代に既に個別に上演された他、1900年代にはトスカニーニが指揮した。ついに1926年にパニッツァが4部作を通して初演して以降、1930年にジークフリート・ワーグナー自ら乗り込んで指揮したり(これが翌年のトスカニーニの招聘に繋がった)、1938年にはC.クラウスとミュンヘン歌劇場が上演、フルトヴェングラーの演奏の前年の1949年にはデ・サーバタによるチクルスが開始されていた。これが全く初めてというわけではなく、それなりに下地は整っていたのである。
バッハ:マタイ受難曲/フルトヴェングラーVPO(1954)

なぜか「スタジオ録音集大成BOX」のなかに収められたものだが、どうやら欠陥部分を補ってのリマスター盤という扱いらしい。マタイ受難曲はフルトヴェングラーが自分のレパートリーにどうしても加えたいと願っていた1曲で、「この大曲は、少なくとも第一音から最終音に至るまで作品に一貫するあの印象深く巨大な情念の統一性に関するかぎり、ロマン派時代の記念碑的作品であるヴァーグナーのトリスタンにのみ比せられるべきものであろう」とか「音楽文献全体の中で、バッハの受難曲以上に主観的で、個人的で、これほど完璧に感情のうちに溶けこんだ作品は存在しない。バッハはここでは、かつて存在した最大の『ロマン主義者』である。」など、様々な賛辞を述べているのだが、なかなかお鉢が回ってこない。どちらかというとヨハネのほうが合っているんじゃないか? と思うのだがそれはそれとして、ようやく念願適っての演奏会となった。
さぞかしメンゲルベルクのように超ロマンチックな演奏かと思いきや、ずっと抑制された葬列のような厳粛さを維持していて、最初は音楽から自然に光りが指すように導いているようにみえるが、やがてそのスローテンポに引き摺られるように闇の世界にどんどん呑まれていく。世界大戦での政治的な理路整然とした策略に翻弄され命を落としていった人々への追悼でもあるかのような不気味な静けさが支配していくのだ。珍しく会場が咳一つせずに沈黙しているのも、フルトヴェングラーのライヴとしては例外的でもある。実にニーチェが語ったような「神の死」に遭遇したような絶望と衝撃が会場を包み込んでいく。プロテスタント的な思考(説教)に慣れないウィーンの聴衆は本当にこれで悔い改めたのだろうか?
ウェーバー:魔弾の射手/フルトヴェングラーVPO(1954)

こちらもフルトヴェングラーが肝いりでザルツブルク音楽祭に押し込んだレパートリーで、魔笛→フィデリオ→魔弾の射手→ワーグナーという歴史的なドイツ語オペラの系譜を辿るのを楽しみにしていたようだ。ちなみに上記のマタイもその系譜に連なるパズルの一コマだった。
ところがなかなか舞台にのせてもらえないこともあって、普段のコンサートでは序曲でネタばれするぐらいに起伏に富んだ演奏を披露しているが、こうしてウィーンでやりなれないオペラ全曲となるとなかなか到達点が見えにくい嫌いもある。それと演出のせいか、前半の男声陣が田舎臭い仕草を強調して舞台で飛んだり跳ねたりの大騒ぎで、呑気に鉄砲なんて打って危ないよ!、とカトゥーンアニメでも観ているような気分にさせられる。ここで唯一理性を保ってステージを救いに入るのがグリュンマー演じるアガーテで、これぞワーグナーが待ち焦がれた純血のヒロインと相成るのである。
でも魔弾の射手ってそんなオペラだったっけ? 話としては「さまよえるオランダ人」と同じレベルの陰鬱なゴシック奇譚だったのだが、そこに我欲にまみれた人間の愚かさを喰いつくす魔物の姿があって、ようやくドイツ的な教訓に満ちた世界観が出来上がるのだ。しかし巨匠自身もこのオペラを、南ドイツのロマンチック街道のようなドイツ人の魂のふるさとのように言ったが、そういうことをアルプスの麓でやってみたら、やっぱり陽気なオーストリア人の気質のほうが強かった。ウィーンはやっぱりウィーンという感じで、最後の大団円で舞台をやり切った合唱団員の喜びの声が印象的な舞台でもある。
もうひとつの読みは、ナチスの支配を楽観的に受け容れたオーストリアの愚かな行為への戒めともとれる点である。一面的に見れば、本来 生真面目に捉えるべき劇をオペレッタのような結婚秘話のようにしてしまった感もあるが、実はこれが舞台全体が道化となったなかで、いかに理性をもって生きればいいのか、というメルヘンのもつ本来の暗さ=生と死の戯れのような教訓が存在するのだ。しかしウィーン国立歌劇場としても新レパートリーに取り組む最中に、そこまで深堀りする余裕がなかった。フルトヴェングラーが楽曲の性質を常に現代の出来事として扱い、現存する聴衆との協同作業と考えていたことを考えると、単なるお伽話で終わるようなものではなかった。そう見るとこの舞台はやっぱり黒歴史だったと言うべきかもしれない。





【フルトヴェングラー=Hi-Fi録音のパイオニア】

【最新の録音機材「マグネトフォン」に夢中】
さて、フルトヴェングラーのレコードとなると、おおよそ3期に分かれ、録音嫌いで知られた戦前1926~39年、それと打って変わってラジオ出演に勤しんだ戦中1940~45年、そして戦後の1947~54年である。その間に起きた演奏中断のアクシデントは、1934年のヒンデミット事件に端を発するベルリンフィル首席指揮者の解任、1936~37年にかけてニューヨークフィルやロンドンフィルからの勧誘、1941年のスキー事故による入院、1945~47年の非ナチ化裁判、1952年に重度の肺炎にかかり入院などあった。しかし、フルトヴェングラーの演奏の特徴として一番語り継がれているのは、1947年以降の8年間の録音群、その9割以上がラジオ中継用のライヴ録音である。その8年間も大病を患った1952年を境に演奏が晩年様式へと変わり、それを重要な転換点と捉える人が多い。そこを絞ると1947~52年の5年間に、巨匠の演奏評価が集中しているのである。

まず最初に訂正しておかなければならないのは、フルトヴェングラーがHI-Fi録音のパイオニアだったことである。しかもチープなカーボンマイクでのSP盤録音ではなく、ノイマン製のコンデンサーマイクと磁気テープレコーダーを使用しての歴としたHi-Fi録音なのだ。
それまでの録音はワックス盤によるダイレクトカットで、ワックスを削りやすい適温に温めて5分程度しか録音できず、長尺の交響曲などは何度も演奏を停止しては演奏ミスなどを確認して次に進むという感じだが、即興的な展開を好むフルトヴェングラーにとって、この演奏の中断が一番苛立たしかったとみえ、最初の運命のレコーディングでは最後に原盤を破棄するよう願い出る始末であった。
フルトヴェングラーと磁気テープ録音機「マグネトフォン」との出会いは1940年12月16日に遡り、RRG放送のシュナップ氏により、ブラームス第1番交響曲、テオドール・ベルガー/ロンディーノ・ジョコーソ、バッハ/ブランデンブルク協奏曲5番が録音され、録音後まもなくしてドイツ国内のほかウィーンやデンマークでも放送された。この時点で交流バイアス化により周波数50~10,000Hz、ダナミックレンジ60dBという実用段階に達しており、AEG社のマグネトフォン開発担当だったハンス・シーサーの証言では、「フルトヴェングラーはその録音品質に興奮し、何度も何度も録音を聴き返しました。録音中や録音直後にそのような品質で聞くことができることを、彼は経験したことがなかったのです」とある。というのも、当時のワックス盤も録音結果をプレイバックすることは可能であったが、溝の劣化を防ぐため精々2~3回に制限されていた。放送録音のヘッドホン試聴はマグネトフォンが開発された当時から、録音ブースのない古いコンサートホールでは舞台袖でヘッドホンでのモニターが行われており、1937年にはBeyer DT48などつい最近まで製造されていた機種もある。現在でもドイツのトーンマイスターにヘッドホンでバランス調整する人が多いのは、こうした伝統のなせる業でもある。このように、1940年末にデビューを飾ったマグネトフォン録音機は、ノイマン社のコンデンサーマイクやベイヤー社のダイナミックヘッドフォン、さらにクラングフィルム社のトーキー技術などのHi-Fi技術の最後の仕上げをするマスターピースとして投入されたのである。

Neumann Ela M301(1931) AEG Magnetophon K1 (1935)

1947年のベルリン放送協会大ホール(Funkhaus)の復帰演奏会ライブ収録
Neumann CMV3を天吊りマイク1本で収録

1937年から存在するBeyer社 DT48>
写真は戦後に活動再開した頃のドレスデン歌劇場でのマグネトフォン録音風景(1948)


クルト・リース著「フルトヴェングラー 音楽と政治」では、スキーでの骨折事故による入院先でウィーンからのラジオ放送(ベルリンフィルとのブルックナー7番、1941年2月2日ウィーン公演の録音)で自分の演奏をはじめて聴いたとあり、それまで演奏中は忘我の状態であったのを客観的に評価するためだったという。実際にはそれより前の1940年12月16日の録音で巨匠自身が録音状態を確認しており、リースの記述には演奏をウィーンフィルとするなど齟齬がある。ただし1940年12月のときは演奏中や演奏直後にテープの内容を確認していることから、12月15~17日の公演の合間にリハーサルを兼ねたセッション録音と同様の環境で収録したと考えられ、逆にウィーンでの録音はステージ本番のみとするなら、リースの記述は正しいことになる。あるいは2月23日までの間にマグネトフォン収録での録音テープの放送がRRGより4回あったのだが、巨匠はいずれも試聴しなかったということなのだろう。いずれにせよ、それはまず第一義的に、フルトヴェングラーの戦中録音が政治的プロパガンダによって始まったのではなく、巨匠自身の心境の変化にあったとする点において正しいのだ。
現実には1942年以降ベルリン空襲が日増しに激化していく最中、ラジオでのコンサート実況中継はせずに録音テープを放送するようになっていたし、それらの録音に巨匠が同意して無観客のコンサートでも協力的だったのは、それ以前のレコード嫌いとは全く違う対応だった。少なくとも1937年のインタビューで、コンサートでレコード向けの演奏をする音楽家への軽蔑を口にしていた頃からは、大きな心境の変化があったのだ。クルト・リースはその切っ掛けを入院中に聴いたラジオ放送としているが、実際にはそれより前からマグネトフォンでの録音品質に新しいプロセスの進展を感じ取っていたのだと言える。
フルトヴェングラーのマグネトフォンでの録音はこの2月2日を最後に一端途絶えるが、不思議なことにラジオ放送のほうも3月放送を最後に、退院する10月まで中断されることとなる。どうもヒトラーの演説放送をマグネトフォンで行って居場所をくらましていたのがバレるのを懸念してのことだったらしい。フルトヴェングラーのウィーン公演が1941年2月2日、ブルックナー7番のRRG放送がが2月23日なので、リースの証言と照合すると2月中旬にはスキー事故を起こして入院していたことになるが、年表で春頃と曖昧にされているのは3月放送のアリバイを作るためだったとも考えられるのだ。

ただ知っていて欲しいのは、本来のドイツ放送録音の音質は、当時のPA拡声技術をもってすれば、レコードコンサートを開けるくらいの迫真のクオリティを持っていることである。それはマグネトフォンが開発された1930年代から、音響規模に合わせたスピーカーの選定と均質な音響特性の提供について、一貫した考え方があったからだと思う。これはノイマン製マイク、AEG製テープレコーダーでの音源製作について、その先の拡声装置まで規格化されていたことを示していて、それらが高度に連携することで一貫した録音品質を保てることを意味する。下記の表に従うと、ラジオは1~3Wの音響規模に入っており、それ以上の音響規模でのグループについて、これほど細やかに分類されていること自体が驚きであり、それが1930年代からドイツ国内で一貫して提供されていたのである。もちろんPAの本領は生マイクの音を拡声することであるが、マグネトフォンのHi-Fi録音もこれに準じており、音源に関してラジオ用だとかPA用だとかそういう区別は付けていないのである。これは例えばアメリカのように、ラジオ業界(RCA)と映画業界(WE)にみる音響機器の製造が別会社でライバル関係にあったのとは異なる様相なのだ。同じことはイギリスにおけるレコード会社(HMV、デッカ)と放送局(BBC)にも言え、ラジオでのレコードの放送が法律で禁止されていたため、レコード専用のオーディオ再生装置が早くから発展した。ところがドイツの場合は「ウラニアのエロイカ」のように、放送録音のほうが一般のレコードよりもずっと高音質だったのだ。

1934年のドイツ製スピーカー出力別の一覧

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【マグネトフォンの実用化とメディアへの影響】
マグネトフォンとフルトヴェングラーの出会いの次に待ち受けていたイベントは、映画製作会社のUFAがAEGと協賛して、新しく交流バイアス化されたマグネトフォンで録音したテープ(1940年12月16日のブラームス1番4楽章)を、映画館に設置しているKlangfilm社のPA装置で再生したコンサートを開こうというものだった。当時の映画館はトーキーへの移行期に建設されたものが多く、無声映画の伴奏をオーケストラやパイプオルガンで行うことを想定してアコースティックな音響も備えていた(戦後のベルリンフィルの拠点となったティタニアパラストも同様の音響を備えていた)。この企画はAEGがラジオ放送以外の様々な利害関係者にテープ録音機の用途について幅広く理解してもらうためであり、音楽製作のテレフンケンには高音質と編集作業の手軽さ、映画製作のUFAにはカラーフィルムでの光学音声帯(サウンドトラック)が不明瞭になる課題の解決、政府関係者には集会でのテープ再生がマイクの生音と変わりないことなども含まれていたが、この技術開発に最も利益のあったRRG放送局は裏方に回ることで全体のバランスを保っていた。新しいマグネトフォンのお披露目は、1941年6月10日にUFA Palast am Zoo(ベルリンで最初の映画館)で講演とテープ再生コンサートというかたちで行われ、シャルロッテン劇場管によるリスト前奏曲、人気歌手エルナ・ザックによるコロラトゥーラ・アリア、弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、そして最後のトリがフルトヴェングラー/ベルリンフィルによるブラームス1番の第4楽章であった。フルトヴェングラーもこの新しい録音プロセスが既に実用段階に達していることを確認しテープ録音でのコンサートに同意したのだ。この磁気テープによるコンサートは大盛況に終わり、50近くの新聞や雑誌で大々的に宣伝された。


上:マグネトフォン・コンサートのチラシ(表紙と演目、1941年6月)
左下:オリンピック映画上映の頃開発されたKlangifilm社 Europa Klarton(1938年以降)
右下:UFA Palast am Zooの外観と内装(1936年以前)


一般に、マグネトフォンは戦時中の軍事機密として扱われ、ドイツ国外ではほとんど知られなかったと言われるが、1940年のヘルシンキ五輪(中止)の際にはマグネトフォンが大量に購入されたがオリンピックそのものが無くなり使用する当てもなくなったため、スウェーデン放送局(Radiotjänst)が6台分けてもらい英マルコーニ製のスチールバンド・レコーダー3台と併用していたとか、Wivefilmをはじめとする映画会社がUFAと提携し娯楽映画の製作にも利用され、当時ドイツ国内でも希少だったKlangfilm最大級のPAシステムEuronorをストックホルムのRöda Kvarn映画館に導入(AEG/Siemensの技師がインストール)された。リトアニアでも1941年からのドイツ占領下でマグネトフォンが持ち込まれ、1965年までラジオ局で現役で使われていた(現在も修理され残っている)。1941年の時点でソ連をはじめとする連合国側がマグネトフォンの存在を知らなかったということはあり得ないのだ。一方で、ドイツ軍による大量発注に製造が間に合わない情況も続き、1942年にはゲッペルス自身が「交響曲全体を細いテープに録音できるようになったことで、レコード業界を大混乱に陥れる」という屁理屈を付けて、民生用への広範囲な販売を望まないとするコメントを発表したのを切っ掛けに実質機密扱いになった。マグネトフォンの交流バイアス化の実装が1942年まで遅れたのも、ドイツ軍が直流方式で発注を済ましていたのに途中から仕様変更することを禁止されていたからだという。フルトヴェングラーのマグネトフォン録音も順調であれば1941年を通じて行われ、コンサート映画の上演など様々なメディアでの露出も考えられたが、運悪くスキー事故のため1942年まで延期され、その使用もRRGなど国有放送局に限定されることとなった。このように様々な事情が折り重なり、民生用のマグネトフォン録音機やコピーテープの量販をはじめとするメディア活動を制限されていたというのが実態だと思う。

左:1943年にRöda Kvarn映画館(ストックホルム)に導入されたKlangfim Euronorシステム
右上:映画「Hem från Babylon(1941)」収録ロケ(Neumann製CMV3型マイク使用)
右下:マグネトフォンK4で録音操作するRadiotjänst職員(Beyer製DT48ヘッドホンでモニター)


ではこうした高音質録音に対しラジオのほうはどうだったかというと、ドイツ国内では1930年代のAM放送時代から2wayスピーカーを搭載した家庭用Hi-Fiラジオが製造されていた。このための放送用コンテンツも方々で製作され、例えば「ウラニアのエロイカ」などは、無観客での放送ライヴというかたちで収録されたものだし、同じ方法でR.シュトラウスの80歳記念行事も収録された。1940年代で2wayスピーカーといえば、ドイツ以外の国では映画館用の業務機器しか存在せず、現在でも家庭用に購入するには重たい代物だ。一方で、海外で耳にした音響機器はAM放送とSP盤に留まっているので、1940年代のドイツ放送録音とヴィンテージ機器の抱き合わせが難しいままなのだ。例えば、日本で2wayスピーカーのラジカセが販売されたのが1970年代ということを考えると、FM放送の全国ネット化が20年先行していたドイツ製ラジオがどれだけ未来志向の家電製品だったかの理由が分かるだろう。


左:テレフンケン Spitzensuper 7001WK(1937年)、右:同 Spitzensuper 8001WK(1938年)
スーパーヘテロダイン、2wayスピーカーを装備した高級ラジオのはしりとなった
シベリウスは海外を含め自作品のラジオ放送を聴くのを楽しみにしていた
(シベリスが巨体なので気付きにくいが結構大きいラジオである)


上記のシベリウスの写真は田舎のアイノラ邸のものだが、海外からの実況放送を短波放送でダイヤルと顔を睨み合わせて聴いていたかというと、どうやらそうでもなかったらしい。ラジオで海外の実況放送を楽しめた理由には、当時の有線回線がヨーロッパ中を駆け巡っており、ロンドンからの実況も一端は海底ケーブルの有線回線で流してから、地元の放送局で送信という手順で行った考えるのが妥当である。最近スウェーデン放送所有の「バイロイトの第九」の実況放送時のテープが見つかったが、これがバイロイトからヘルビー(スウェーデン)までの有線回線での中継をアセテート盤にダイレクトカットしたもので、バイエルン放送のそれとは趣の違うエネルギッシュなかなりの高音質で楽しめる。


1840年代からSimens社がヨーロッパ中にコツコツ敷設していた電信網

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【ふたたび閉ざされたマグネトフォン録音】
こうしたマグネトフォンコンサートによるフルトヴェングラーの演奏は、戦後にベルリンの放送局を占拠していたソ連軍によってテープを根こそぎ接収され、その後しばらくは行方不明になっていた。そのパンドラの箱を開けたのがウラニア社で、1944年のウィーンフィルとのマグネトフォン録音をLPとして1953年に販売するやいなや、それまで知られなかった「ライヴでのフルトヴェングラー」の凄まじい熱演ぶりに圧倒された。いわゆる「ウラニアのエロイカ」として伝説となった。伝説となったのには2つの理由があって、ひとつはフルトヴェングラーが自身の了承を経ないで販売されたことに怒り販売差し止めの裁判を起こしたこと、もうひとつはLPの時間制限のためテープもピッチを上げてカッティングし、それが白熱の演奏として演出されていたことなどである。それ以降も、ソ連のメロディアから戦中のマグネトフォン録音がリリースされたり、EMI傘下のユニコーン・レコードや独グラモフォンから貧しい音質のコピーテープが復刻されたりして、戦中のフルトヴェングラーの残像を追うように評価されていた。事柄が急変したのが、1990年のソ連崩壊を前後して、接収されて行方不明とされてきたオリジナルテープがドイツ政府に返還されたことで、現在はベルリンフィルのアーカイヴとして販売されている。ウィーンでの演奏記録はORFからは既に消失していて、仏ターラ社がリサーチを掛けて探し出した個人蔵のコピーテープで幾分か知ることができる。ピッチを正常に戻したウラニアのエロイカは、1952年のEMI録音とそれほど変わりない演奏であったことが確認され、ここで一件落着となったわけだ。

こうしたマグネトフォン録音の延長線上にあったのが、戦後に残された大量のラジオ放送用ライヴ録音群である。もともとフルトヴェングラーは、演奏後は放心状態でどういう演奏をしたのかさえ覚えていないようなこともあり、その出来不出来を全て検討したわけでもなく、他のラジオでの報道番組と同様に期限付きの放送許可を与えた一方で、ライヴ録音のレコード化にはかなり慎重であった。それに加えEMIとの専属アーティスト契約も被さり、バイロイトの第九などは本番の収録テープが長らく門外不出のまま封印されていた。これも50年間の年季奉公が過ぎて、バイエルン放送局のアーカイヴが解禁となったとき、EMI盤がライヴとゲネプロとの編集テープだったことが分かり、それまでの「ライヴでの神がかり説」の論調もかなり冷静になっていった。

これと平行して戦後のRIASベルリン放送局のアーカイヴも解禁となり、78cm/secのオリジナルテープの高音質な状態で、戦後のベルリンフィルとの演奏も展望できるようになった。そのときに分かったのが、録音機器の刷新のタイミングであるが、以下のように細分できる。

  • 1947~49年は戦中の1943~44年製造の機材が使い回されていた
  • 1950年に西ベルリンでFM放送が開始されるのに伴うティタニア・パラストが大改修された(ステージ額縁を飾っていたシアターオルガンの撤去を含む)
  • 1952年以降はドイツ国内のFM放送の音声が10kHzから15kHzに拡張された

つまりフルトヴェングラーの戦後ライヴ録音の音質は2~3年置きに3段階で変化しており、それが演奏スタイルにも影響を与えている可能性のあることである。例えば1953年のローマRAIでの演奏会形式の「指輪」については、フルトヴェングラー本人からEMIにライヴ録音とレコード化の打診があったぐらいである。病気で覇気が無くなったというわけではないのはスタジオ録音と比較しても明らかで、晩年様式呼ばれるライヴ演奏での古典的なフォルムに自信があったことを示している。

録音マイクのセッティングに制限の多いライブ録音だが、ステレオ録音にはEMIブルムライン方式、デッカ・ツリーなど様々な方法が知しられる。当然ながらモノラル時代にもセット方法による音場感の違いがあって、ここではフルトヴェングラーと関連する2つの録音方式(独RRGと英EMI)について紹介する。

まずドイツRRG方式だが、これは1942年にマグネトフォンが交流バイアス化されて音質向上した頃に、当時録音技師として在籍していたフリードリヒ・シュナップ博士によるもので、指揮者の頭上にダイポール指向性の天吊りマイクを1本だけセットするもので、戦後に渡って古巣のベルリンフィルとの録音ではこの方法が採用されていた。利点としてオケの一体感と共に低弦楽器のディテールが明瞭で推進力の強いサウンドが得られる反面、会場ノイズを拾いやすく録音レベルのピークで歪みやすいという欠点がある。特にベルリンの聴衆は咳払いが多いので気になる人も多いだろう。ちなみにシュナップ博士は戦争中にベルリンを離れハンブルクに移り、北西ドイツ放送局(NWDR)でフルトヴェングラーのライブ録音を手掛けた。他にもテープ録音がまだ珍しく定まった方法がなかったザルツブルクやルツェルンの音楽祭では、フルトヴェングラーの希望か1本マイク(それも旧式のCMV3型)で収録している。

1947年ベルリン復帰演奏会(ノイマンCMV3型1本)
左:1日目ティタニアパラスト、右: 3日目フンクハウス(旧RRG)


もうひとつの英EMI方式だが、1931年にアビーロードが新装され、米WE社の電気録音方式が導入された頃からのもので、もしかすると米WE方式と言ったほうが良いのかもしれない。こちらは同じ天吊りでも無指向性マイク(高域に指向性あり)をオーケストラ前面の両翼に2本、弦と木管の間に1本の計3本を使用したもので、オーケストラの音場感をパースフェクティヴに捉える一方で、躍動感についてはやや潰れた感じになりやすい。戦前のエレクトローラの時代からムジークフェラインでの演奏はほぼこの方法で録られており、前者のRRG方式と比べてベルリンとウィーンの個性の違いとなっている。ちなみにザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭は1本マイクであり、オケによる演奏の違いはむしろこっちで聴き比べるべきである。

左:1931年エルガー&ロンドン響(アビーロード、WE47A型3本)
右:1951年フルトヴェングラー&ウィーンフィル(ムジークフェライン、ノイマンCMV3型3本)

 
  

ノイマンCMV3マイクの特性(上:双指向性、下:無指向性)

ではベルリンフィルとのマグネトフォン録音は全て天吊り1本録りかというと、事柄はそれほど単純ではなく、例えば1942年のAEG工場慰問コンサートは、UFAの映像スタッフも入り乱れてのマルチマイクを駆使しており、指揮者の背後にあるメインマイクの他、奥の鉄骨の上に配置されたエコーマイク、さらには客席内に遠景カメラ用に2本と、様々な方法が試されている。

1942年フルトヴェングラー&ベルリンフィル(AEG工場、ノイマンCMV3型4本!)

これらの録音方式で思い浮かべるのは、RRG方式がフルトヴェングラーの燃焼度の高いライブの特徴を備えているのに対し、EMI方式がレコード再生に合わせた落ち着いたフォルムを備えていることだ。当然ながら、これまでのオーディオ理論は後者のマルチマイクでの収録を発展させてきたわけだが、こと「フルトヴェングラーらしさ」を求めるとなると1本マイクによるRRG方式ということになり、オーディオの発展史に取り残されながらも根強い人気を保ち続けたのだ。今更ながら優れた音質のオリジナルテープを前にして、従来のモノラル再生をステレオ録音の下位互換として大雑把に扱ってきたことへの課題が浮き彫りになったと言える。モノラルにはモノラルに相応しい再生方法があるのだが、その中にも録音方法の違いによる音響特性の差があるのだと知っておくべきだと思う。

もうひとつ放送録音について追記しなければならないのはリミッターを含むダイナミックレンジのコントロールである。1949年にドイツでFM放送が開始された時点で、既に送信側と受信側の双方にリミッター(Amplitudenbegrenzer)を装備していた。装置自体はラジオに実装できるものとして簡便な回路で、BOSEのスピーカーにもイコライザー機能と併用して実装されていた。



何でこんなことを言い出したのかというと、2021年にリリースされた「バイロイトの第九(1951)」のスウェーデン放送での実況録音(国際有線を通じたアセテート録音)を聴いて、同じ演奏のバイエルン放送のテープと比べて、音量の起伏が大きく弦の弓使いの切れ味が克明に刻まれており、特にフレーズの切れ目に入る「ウン」と構える気迫がリズムの進行を白熱したものにしている。一方のバイエルン放送は、フレーズの切れ目がドーンと間延びしてホールのエコーが強調されており、この違いはポップスの録音で深くリミッターを掛けたときの特徴とよく似ているのだ。おそらくバイエルン放送は当時最先端だったFM送信用のリミッターが掛かった状態の音をそのままテープに記録し、古い国際有線を伝った信号はリミッターを介さずスウェーデン放送でアセテート盤に記録されたと考えられる。ちなみにフルトヴェングラーのラジオ放送記録をまとめた資料をみると、演奏当日はバイエルン、シュトゥットガルト、パリ、ヘルビー(スウェーデン南部)で実況放送されたとあるが、最後のスウェーデンへの回線はバイロイトからバイエルンに一度行ってから戻ってというのは面倒なので、ベルリン経由で直接信号を送ったと考えるのが合理的である。これまでバイエルン放送のテープにフルトヴェングラーらしい熱気がないという評価は、このリミッター回路の使い方に問題があったと考えられる。

EMIとバイエルン放送の録音に残るハム音を分析した人の話だと、テープレコーダーの固有のハム音がダビングの度に増えていくため、EMI盤のどこで継ぎ足したかが判るそうだが、その際にバイエルン放送の帯域が8kHzでスッパリ切られていることも見つかり、これがFM送信用に信号処理した音声そのものを収録した証拠ともなっている。周波数レンジの広さから言えば、スウェーデン放送のアセテート盤のほうが狭いため、帯域の狭さそのものは気にならないが、むしろ演奏のディテールが克明に録られていることから、ダイナミックレンジをいじったという結論に至ったわけである。もちろんバイエルン放送の元テープがちゃんと録れていて、オルフェオが編集でギュウギュウに圧し潰したということも考えられなくもなかったが、BIS盤の音量の起伏があまりに大きいため、後で編集してどうにかなるレベルの違いを遥かに超えている。元テープの時点でリミッターが深く掛かっていたと考えるのが妥当なのだ。
ちなみにRIASベルリンは音量調整を手動のボリューム調整(いわゆる手コンプ)で行っており、例えば1953年のベートーヴェン交響曲7番の収録で操作ミスをしている。しかし演奏の熱気はベルリンのほうが刻銘に刻まれているのだ。テープかアセテート盤かの録音機の問題以前の収録方針が、フルトヴェングラーのライヴの演奏評価に影響したユニークな例である。
一方では、演奏当日にバイロイト祝祭劇場に張り付いて現地録音できたのは、音楽祭の録音権を向こう7年間買い占めたEMIのチームと、それより前からクナッパーツブッシュとパルジファルの録音契約をしていたデッカのチームのみで、2社の録音スタッフが同じ部屋でゲネプロからライヴまで収録したテープの編集作業を行っていたという。つまりバイエルン放送のテープは、スウェーデン放送と同様の有線実況回線を通じた録音だったということが推察される。
ところが実際には、EMIがオーケストラ録音で通常行う3本マイク(オケ前段の両翼2本と木管手前の1本)のうち、舞台演出に権限のあった劇場側からは前段の2本のマイクを吊り下げることは御法度となり、奥の1本だけが残されたと考えられる。他にもEMIはお目当てだったカラヤンの指輪の収録において、厳しいマイク設置の制限での録音の不備や、カラヤン自身の新バイロイト様式での演出に対する不満もあって出演を拒否したため、独占した録音権は実質白紙になったまま宙ぶらりんになってしまった。2008年というはまさにこの呪われた契約の期限が切れた年であり、バイロイトの第九はこうした政治的な思惑のなかで辛うじて残された忘れ形見のようなものだ。




【充実したフルトヴェングラー体験のために】

まず最初に断っておきたいのは、私はフルトヴェングラーのコレクターでもないし、そのうえLP盤を1枚も持っていない。なのでこれから記すことは、アナログ盤のコレクターにとっては箸にも棒にも掛からない話である。むしろ、これからフルトヴェングラー体験なるものをしてみたいという人への個人的なアドバイスと思ってほしい。
ここでの目標は、50余年経った現在において、フルトヴェングラーのコンサート生中継を、時空を越えた今という時間に試聴するという、ちょっと変わった嗜好である。これは放送局所蔵のHi-Fiなオリジナルテープが聴ける今だからこそ可能なことである。レコード鑑賞というと、その作品観やアプローチを繰り返し丹念に聞き返す(昔流に言えば「レコードの溝が擦り切れるまで聴く」)というのが通例で、特にクラシックとなれば同じ作品でも全く異なるアプローチがあるわけで、そこが面白さでもある。しかし、フルトヴェングラーのライヴは違う。その都度にひらめきやパッションが異なり、巨匠の感情の海に段々と溺れていく感じなのだ。だから聴いているのは作品解釈なんてものではなく、音楽に法悦するという体験そのものなのである。本来はアポロン的に均整の取れた筋肉美に支えられたベートーヴェンの交響曲を、ディオニソスの陶酔や激情の饗宴に化してしまう、その瞬間に立ち会うことである。

もうひとつの目標は、フルトヴェングラーのコンサート実況を聴くにあたって、それに相応しいオーディオ環境を整えることである。今やSACDにまでフォーマットの精度を上げたディスクが出回るご時世に、オーディオ装置も最大限にワイドレンジなものにすれば万全だと思うだろうが、話は全く反対である。フルトヴェングラーの演奏は、高域の耳当たりの良さだけではダメで、チェロ&コントラバスのド根性のパッセージが聴こえなければ話にならない。なので重低音が聴こえるだけではダメで、そこにちゃんと喜怒哀楽の表情が備わって初めて真意が伝わるのだ。同じことは、ppで遠鳴りしているように聴こえる(この認識は実際は間違っていると思う)ことにも言え、これはフルトヴェングラーの演奏を特徴付けるもので、ホールで聴こえるさざ波のような最小限の音量と、クライマックスのときの興奮度が大きなコントラストを描いている。そのどちらもホールの空気を完全に掌握して鳴り響いているのだ。小さい音でも大きい音でも、同じ重量をもって鳴るという不思議な感じがある。これがただの音量の違いだけに終始する、つまりエキセントリックな盛り上がりだけをフルトヴェングラーの特徴として演奏の出来、不出来を判断するのは非常にまずい。むしろ弱音での闇の深さ、静かな光明が直観的に明瞭に聴こえなければ、会場を包む空気や描かれる情景が理解できないのだ。21世紀にリリースされたライヴ音源には、そういう鮮度の確かなものが増えたが、それを生かすオーディオ環境の不確かな情報が錯綜している。広帯域でフラットな再生装置の弱点=オーディオ技術の退化した部分を克服しないと、歴史的録音は依然として過去の不確かな記憶のままである。

フルトヴェングラーをこれから聴きたいと思う人たちに勧めるべきは、上記の巨匠の得意なレパートリーを網羅できるスタジオ録音から鑑賞すべき…ではない。やはり聴くべきはライヴ録音である。私はかれこれ40年前のクラシック初心者だったころ、手始めにウィーンフィルとのベートーヴェン「英雄」、ベルリンフィルとのシューベルト「グレート」を聴いたが、その良さがほとんど理解し難かった。ひとつは当時のモノラル録音&バジェット盤の品質管理のいい加減さ、もうひとつは当時の私のステレオ装置との相性の悪さだった。フルトヴェングラー没後に技術革新を伴って録音された同じHi-Fiレコードと横並びにした結果、ステレオに呪われた過去の遺物として、いつも引き合いに出されている点である。つまりフルトヴェングラーの演奏は、Hi-Fi録音の原則(広帯域、高SN比)を無視した精神的な音楽鑑賞の代表例のように思われているのだ。超有名なスタジオ録音は、音質は悪いが演奏は白熱しているライヴ録音を知ったうえで、音質の安定した巨匠の代表盤として取り上げられているに過ぎない、と私は思っている。
しかし、その迫真のライヴ・パフォーマンスは、非オーディオ的な録音と断言できるのだろうか? 答えはNOである。むしろフルトヴェングラーの意図が良く伝わるという点で、十分に音楽鑑賞に向いた良い録音だと言えるのだ。その掟破りとも言える音質について、十分に租借吟味することを怠ってきたので、オーディオ的な美点を見失ってしまっていると断言できる。何よりも21世紀はフルトヴェングラーのライヴ録音を聴くことを、もはや精神的音楽鑑賞などと呼ぶ必要がないほど高音質に蘇っていると断言できよう。

【海賊盤で偽装されたラジオ音源】
まずフルトヴェングラーのライヴ録音にまつわる黒歴史について整理しておこう。上に記したマグネトフォン(磁気テープ録音機)の開発によって1930~40年代にかけて積み上げてきたドイツの初期Hi-Fi録音の技術体系は、敗戦とともに灰と化してしまった。その後に、戦中のマグネトフォンコンサートの記録テープはソ連軍に接収されてモスクワまで移送され、フルトヴェングラー自身もその過去と縁を切るべくLP化して販売することを拒んできた。有名な「ウラニアのエロイカ」もそのひとつだし、その他のレパートリーもウィーンフィルと再録することで埋め合わせていった。これにはEMIという巨大企業のバックアップも得て、専属アーティスト契約による訴訟を覚悟した強力な盾となった。そのはずであった。
しかし、フルトヴェングラーが1954年に逝去すると、ベートーヴェンの第九をめぐって過去の録音テープから探し出した結果、プロデューサーのウォルター・レッグは妻のシュヴァルツコップが出演した2つのライヴ録音に絞った。ひとつは1951年バイロイト音楽祭、もうひとつは1954年のルツェルン音楽祭での演奏である。結果的に「バイロイトの第九」が選ばれリリースされると、これがフルトヴェングラー初のライヴ録音のLPとなった。それから5年ほど経って独グラモフォンから「復帰演奏会の運命」が販売されると、EMI以外からも放送用録音が堰を切ったようにリリースされ、その後のフルトヴェングラー熱の盛り上がりは推して知るべしである。ブラームス1番やベートーヴェン2&8番の発掘合戦、はてはドヴォルザーク新世界の偽物まで出てきて、その過熱ぶりは留まることを知らなかった。最終的にそれまでのスタジオ録音の10倍の量にも達するラジオ放送用音源がリサーチされては、海賊盤として流通するようになり、それがフルトヴェングラーの演奏を精神的な音楽鑑賞とまで揶揄される結果を導いたのだ。

「歴史的な実況録音のため、お聞き苦しい点があります。ご了承ください。」
By 英ユニコーン、伊チェトラ、セブンシーズ(米Music&Art)

まずライヴ録音の問題は、EMIからの訴訟を免れるために、「AMラジオでエアチェックした音源による」ということを偽装するために、もともとHi-Fiで録音されたテープをAM放送なみに貧しい音質に落としてリリースした。それは1970年代からEMIが傘下に擁したユニコーン・レーベルでも同様で、LP時代に聴いた大量のライヴ録音はこの手の音源で溢れていた。この微妙なバランスは本家EMIのスタジオ録音の株を上げるように機能し、一石二鳥だったのである。
このバランスが崩れたのは1990年代で、仏フルトヴェングラー協会のルネ・トレミヌやシェルヘンの娘ミリアムが関与していたフランスのTahraレーベルで、コレクターが個人所有していたテープを遺族了承のもと合法的にCDでリリースした。この音源は歴としたHi-Fi録音で、「ウラニアのエロイカ」「ハンブルクのブラームス1番」「ルツェルンの第九」など、それまで正規盤という玉座に君臨していたスタジオ録音に対し、その他多数の海賊盤で占めていたライヴ録音の立場を逆転させてしまったのだ。まさにドイツ国民だけがFM放送を通じて享受できたフルトヴェングラー体験を半世紀ぶりに満喫できるようになったわけである。

【現代の進化したオーディオの弱点】
問題はこれまで積み上げてきたステレオ技術と、フルトヴェングラーが体現したドイツのHi-Fi放送技術との乖離である。まず正規盤であるEMIの録音でさえ、モノラル録音であるがゆえに癖の出やすい状況にあることを知るべきだろう。単純に「バイロイトの第九」だけでも10枚以上のリマスター盤がある事実は、多くの人がその音質に満足できないことの裏返しでもあるのだ。そしてリマスター盤の音質批評も、半分が讃えれば半分は貶すという感じで、全般的に玉石混交のカオス状態で、結局は現物を購入して聴いてみなければ分からないと思って皆が購入しているようだ。この理由の根源は、現在のステレオ技術が非常に癖のあるデフォルメを施すことでリアリティを演出していることである。
現在の進化したステレオ技術は、仮想のサウンドステージの広がりと定位感を鮮明にするため、パルス信号による先行音効果を利用している。先行音効果とは、人間の音の知覚として、先に鳴った音が遅れて鳴った音をかき消して、実際の音よりも大きく聴こえる現象で、それは超高音でチッチッと鳴るパルス性の音にも敏感に反応する。いわゆる相撲でいう「猫だまし」のような効果である。このため、頭蓋骨を隔てた左右の耳で感知する僅かな時間のずれでも、音が来る方向と遠近の差を特定できる能力をもっているのだ。初期のステレオ技術は、それが全ての周波数に適用される位相差であるとか球面波の円弧の違いであると説明してきたが、例えば現実のスピーカーの指向性は、低音がほぼ360°、中域で180°、高域で30°という具合に、高域になるに従い狭くなっていく。このためステレオ2chで鳴る音の分離(チャンネル・セパレーション)を稼げる高域に、より多くのステレオ的な音場感を与える録音にシフトしていったのだ。
標準的なスピーカーの指向性パターンとステップ応答
中域から高域にかけて次第に指向性が狭くなる
パルス波の立ち上がりも3ユニットで分離されている(ウーハーが特に遅れる)
DPA社(旧B&K)のA-Bステレオ・マイクアレンジと先行音効果
30°逸れた方向探知は15dB差と1.1ms遅れとで等価

このように高域偏重に進化した現在のステレオ技術に対し、フルトヴェングラーの時代の録音はというと、指揮者の頭上か背後に1本吊りのモノラルマイクでの収録だった。それも録音技術が幼稚だったからではなく、巨匠自らが1940年に最初に体験したテープ収録によるHi-Fi録音のオリジナルの姿なのである。

客演中での収録:ベルリン・アドミラルスパラスト1947年、パリ・オペラ座1949年

この方法での録音は、オーケストラのどの楽器との距離もほぼ均等だし、会場ノイズも拾いやすい。なのでこれを現在のステレオ装置で聴くと、楽器が密集してダンゴ状態になり音場感に欠けるし、会場の咳払いのほうがリアルに聴こえるなど、様々な問題にぶち当たる。それとマルチ録音のようにマイクの音圧を分散できないのと、コンプレッサーのような便利な機械がなかったのとが重なり、それ相応の歪みもダイレクトに収録されている。それが迫力があって良いと感じる人と、耳障りに感じる人とで、リマスター盤の音質評価がガラッと変わるのである。
結果としては、進化して正確無比だと信じてきたステレオ装置に裏切られた気持ちになり、この録音は悪いという残念な結論に陥るのである。それもこれも理由が分かれば、自分の所有するステレオ装置と録音の相性が悪いというだけで済む話である。しかしフルトヴェングラーの追っかけはそれだけでは満足できない。自分のステレオ装置と相性の良い録音を徹底的に探さないと気が済まないのだ。海外短波放送をエアウォッチしたような音で聴いていた昭和世代から比べると贅沢極まりない話だが、それだけフルトヴェングラー体験は、聴いている人を正常な心持ちではいられなくする、人間の脳の中枢に呼びかける薬のような効能をもっているのだ。

【従来の本場物=英国製の行き違い】
さらなる問題は、古いオリジナルのLP盤を蒐集している人たちは、イギリス製の高級オーディオ、タンノイの大型スピーカー、クォードの真空管アンプ、ガラードのターンテーブルにオルトフォンのMC型カートリッジと、定番の黄金の組合せを揃える傾向にある。多くは五味康祐氏の影響が大きいのだが、それはEMIやデッカのスタジオ録音を基準に考えた最高の組合せなのだ。ちなみにあれほどフルトヴェングラーの演奏の精神性について語った五味氏だったが、フルトヴェングラーの愛聴盤は、戦前ならベートーヴェン運命、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死などがあったが、晩年に残されたレコードはいずれもEMIのスタジオ録音で、1952年VPOの英雄と1954年VPOの運命、メニューヒンとのベトコン、トリスタンとイゾルデで、米英独のプレス違いをいくつか揃えていた。逆に話題としてよく出てくるモーツァルト40番とワルキューレ、あるいはメニューヒンとのブラコンなどは、おそらく擦り切れてしまって買いなおすことを断念したのだろう。いわゆるライヴ録音は、オデオン盤でEMIのベートーヴェン録音集BOXに入っていたバイロイトの第九のみで、その他のライヴ録音は巨匠自身が生前にリリースを拒否したこともあってか、その価値をほとんど認めていなかった。
五味氏の文章のなかでオーディオとして評価していたのは、ワルキューレのおどろおどろしい出だし、第九冒頭の不安なホルンの響き、運命の咆哮(これはオーディオでは無理と断言)などであり、フルトヴェングラーの演奏の評価はタンノイを核としたステレオ装置とは全く違う次元で存在していたのだ。というのも、フルトヴェングラーに関する文章のほとんどが巨匠自身の哲学的な言い回しやインタビュー記事の組合せであり、五味氏がレコードとタンノイから感じ取ったものではないからである。むしろ誰がどんなオーディオ機材で聴いても共感できるであろう、音楽鑑賞の心得のようなことを描きたいときに、フルトヴェングラーの話題が出てくるのだ。ついボーッと読んで、タンノイのオートグラフならそんな夢のようなレコード鑑賞術まで導いてくれそうだと期待したいところだが、五味氏の言いたいことはオーディオの性能とは別のところ、つまりクラシック音楽を聴くための心得、それも人生を何度やり直しても会得できないような、深淵な世界が音楽に秘められているのだという戒めのようなものなのだ。その結果として、録音技術がいくら進んでもフルトヴェングラーのワルキューレを越えることができないとまで言い得るのである。こうしたオーディオ装置の進化だけでは説明のつかない現象について、どう伝えて良いのやら思索した結果が、五味氏のフルトヴェングラー礼賛へと結びついていると言えるのだが、現代におけるタンノイ・レガシーはその意図を読み違えているのでは? と個人的に思うことがしばしばあるのだ。


しかして、そのようにしてクラシック音楽の醍醐味を知ろうと揃えたステレオ装置でも、同じタンノイでもモニターゴールド、アンプはアキュフェーズ、オルトフォンでもステレオ型のSPU、さらにトーンアームをSME、という風に1970年代に進化したリファレンス機器にすることで、より汎用性のあるオーディオシステムとして運用する人のほうが圧倒的に多いと思う。エポックメイキングな録音は、例えばショルティの指輪、カラヤンのベト全(2回目)などが挙がるだろう。これが実はフルトヴェングラーのライヴ録音であるラジオ用放送音源と相性が悪いのだ。音場が団子状に固まり、高域の癖が出やすいなど、なかなか演奏に集中できない。さらに平成のリマスター盤を聴くためのCDプレーヤーはというと、おそらく最初から諦めているのではないだろうか。

1960年代のデッカ、1970年代のグラモフォンを聴くには最高の布陣

それもこれも、高級オーディオから高みの見物をするレコード批評へと導かれているわけで、音楽鑑賞の道具としてのオーディオ機器に価値観が振り回されている、つまり五味氏が警戒していたオーディオマニアの悪い癖が、フルトヴェングラーの評価を貶める結果になっているのだ。フルトヴェングラーのドンジョバンニの映像を鑑賞したときの五味氏の感想はあっけなく、歌手の実力を堪能するならクリップスの指揮したレコードでも十分なくらいという言葉が出てくるところからも、実はちゃんと聴けていないのでは? と首を傾げてしまうようなこともある。本気を出してないウィーンフィルなんてそんな感じと言えばそれまでなんだんだけど、このような鑑賞に至る理由にもツッコミどころは満載なのだ。

フルトヴェングラーのライヴ録音の批評で熱筆を振るった宇野功芳氏は、スピーカーはグッドマン Axiom 80をミッドレンジにしてワーフェデール製ツイーターとウーハーで両脇を固めた自作3way、アンプはマランツの#7真空管プリにクォードのII型真空管パワーアンプ、カートリッジはシェアーのM44-7(これ以上は音が良くなって困る)、ターンテーブルはトーレンス製という感じで、カートリッジとスピーカーで二流品に抑える感じに収まっている。ちなみにワーフェデールの3way構成(オリジナルは砂詰め平面バッフル)は、五味氏も一時期使用しており「自分のふるさとのような音」だと言っていたが、宇野氏の購入した頃は値ごろ感にある舶来品という位置づけだった。1990年代以降のレコード批評で必須となったCDプレーヤーは、一時期ラックマンのD500を使っていたが、最終的にはSACDを聴くためにラックスマンD-7、CD用にはスチューダーD730を部屋に置いていた。しかし多くの人が宇野先生の古ぼけたオーディオを刷新しようと試みたのだが、いつも「これ以上音が良くなっては困るから」と丁重に断っていた。意外に繊細なバランスの上に立っていたのだと推察する。


一方で「フルトヴェングラーの全名演名盤(1998年)」では、完全に乱発気味のフルトヴェングラーの海賊盤を含め全て網羅してコメントするということをやってのけているが、こうして全てを横並びにしてみると「あれ?この人、実はフルトヴェングラーが嫌いなのでは?」と思う程コメントがあっさりしている。例えばBPOとのブラ1(1952)は、1977年版では「ミュンシュ=パリ管に次ぐベスト2の名盤」となるところ、1998年版では「表現は…ウィーン盤に似ているが、音質はこのほうが冴えず、今となっては価値のうすいCDになってしまった」とバッサリ切り捨てている。ユニコーンやキングレコードの一枚一枚に書いた批評文とは温度差があまりにも大きく、むしろどんなにページ数を増やそうが、レコードに寄せた批評文を復活させてほしいぐらいだが、おそらく音の悪いフルトヴェングラーのレコードをわざわざ選んで買ってくれた人への感謝の気持ちとでも言うべきものだったのかもしれない。

宇野功芳氏の全レコード批評:1977年版と1998年版

その素っ気なさの背景には、既にターラの発掘音源による高音質なライヴ録音が出た時期でもあり、音質評価で「音が悪い」とクビを切る(筆を折る?)というコメントも少なくないのが気になった。つまり、よりよい音質で巨匠の芸術を鑑賞すべしという親心かもしれないが、どうもそのフォロアーが演奏の評価そっちのけでリマスター盤をモノ(商品)として見下す態度に繋がっているようにみえた。これは2000円払って損したと嘆く人の声のほうが圧倒的に多いことに特徴が現れている。演奏を評価する段階でも、購買層への気遣いを兼ねて「この曲のベストはなにか」という紋切型で取捨選択するようなことをついついしてしまう。これも歌番組の「ベストテン」を見ているようで、エンタメを盛り上げるショウとしては楽しいのだが、フルトヴェングラーの演奏ならどうしても聴きたいと思って一期一会を求めてコンサートに向かった当時の人々の心境は置き去りになった感じでシラケてしまう。プロの音楽批評家としてやるべきことを、音楽鑑賞という行為にダイレクトに重ね合わせると、どうしてもこうなってしまうのか不思議なのだが、人間の心理として真似しやすい「長い物に巻かれろ」という感覚が支配的になるのは仕方ないのだろうか。同じ長い布を用意しましたが、帯にしようが襷にしようがあなた次第です、と言ったほうが事実なのだが、素人はそれでは困ると見切っての仕事ぶりだといえよう。

話をタンノイをはじめとする黄金の組合せに戻すと、ここからタンノイを除くと、クォード、ガラード、オルトフォンはBBC放送で業務用として使われていた、非常にまじめに造られたオーディオ製品である。モニタースピーカーだけは、パルメコという同軸2wayに独Lorenz製のスーパーツイーターを追加していた。パルメコは当時のBBCがAM放送だけだったこともあり、高域が10kHzまでしか出ない仕様となっており、そのかわり中高域に強いアクセントのあるカミソリのようにキレキレの音が鳴るとされる。実際にはパルメコはBBCでも音楽収録する局以外には門外不出で、現存するのはBBCに納品され相当に酷使されたお下がりしかない。ちなみにこのパルメコのエンクロージャーを制作していたのがLockwood社であるが、1960年代末にタンノイ製スピーカーをアッセンブリーしてEMIに収めていたことでも知られる。しかし誤解されているのは、EMIは1950年代半ばから米キャピトル社と提携していたため、モニターは長らくアルテック製を使っていたと思われる。そして1970年代のアビーロードスタジオのモニターはJBLである。EMIとタンノイとは1940年代末と1960年代末に点で繋がっている関係性にあるのみだ。このままだとJBL男爵に白い目でみられ、パルメ子ちゃんに「勘違いしないでよね!」と拗ねられるのがオチだろう。


BBC局内:パルメコのアンプはLeak TL/12、ガラードのターンテーブルにEMI Type12ピックアップ
この頃はトランスクリプション盤の再生のためにレコードプレーヤーがあった

LSU/10(1947年)
Parmeko社の同軸型に加え
Lorenz社のツイーターを追加
(ネット上側に貼り付いてる)
 
 


Parmeko単体の特性(1947年)
最終形のLSU/10にはLorenz製ツイーターを追加

フルトヴェングラーの時代のEMIのモニターシステムは二転三転しており、タンノイから最初期に製造したモニターブラックを購入した記録はあるが、同じ時期の1947年にHMVの最高級電蓄Electrogram De Luxe(デッカのリボン型ツイーター搭載)のスピーカー部分だけ使ったり、1953年からはさらに巨大化したHMV 3052型スピーカー(おそらくレッグ氏が「歴史上最高のスピーカーを造れ!」との号令で完成したもの)をスタジオに置いたりした。これはウーハー12インチ×3本、ミッドレンジ6インチ×2本、さらにデッカ製のリボンツイーターまで付いた豪華な構成で、Hi-Fiの限界を試すようなことをしていたのかもしれない。おそらくフルトヴェングラーのEMI録音は、こうしたHi-Fi初期の試行錯誤のなかから生れてきたのだが、当然のように技術情報は企業秘密として遂行され、タンノイ製モニターブラックのみを選んでモニターしたのではなかったのだ。五味康祐氏も1955年に同じデッカ=ケリー製のリボンツイーターを搭載したQUAD社コーナーリボンを試聴しており(ベイヌム指揮ACOのハイドン97番)、その際に「それはまぎれもなく正統派の、英国の伝統をひびかせる音だった。『正統派』という言い方はあいまいだが、リボン・トゥイーターの金粉をまき散らすような、それでいて粒子の一つ一つが輝きをもつその高音域の繊細な美しさは、ちょっと類がない。」と記している。タンノイともデコラとも異なる音がそこには存在したのだ。

左:幻の電蓄 HMV 3000型 Electrogram De Luxe(1946)
右:ピアノ録音でのプレイバックに使われた Electrogram De Luxeのスピーカー(1947頃)



Abbey Road スタジオ2で使われていた巨大モニタースピーカーHMV 3052(1953年頃)


以上のように、EMIはHMV名義の蓄音機の開発と同時にHi-Fi録音の音質改善を進めていた事が判る。EMIは1955年からステレオ録音のテストを始めたが、ウェストレックスが開発したステレオが3chだったのに対し、当初からバイノーラルでの再生を目指していたEMIは2ch用電蓄の開発を留保していた。EMIのブルムライン博士が特許を出した1931年から25年を過ぎる直前になって録音での実績を示そうとした感じでもあり、1934年に最初のステレオ録音に挑んだビーチャム卿が再び登壇することとなった。HMVでステレオ電蓄をようやく売り出したのは1960年に差し掛かった頃であり、その頃に販売したのがDLSシリーズということになる。一部でDLSスピーカーをレッグ氏の指示で開発したとか、ビートルズ時代のモニタースピーカーだとか言うのは嘘で、むしろ1960年代のEMIのアンニュイな録音とHMV製電蓄の汎用的な音色とが折り重なっている。つまり、タンノイやオルトフォン、ガラードやクォードなどは当時の英国で最高峰のオーディオ機器であることは間違いないが、それが録音スタジオでのサウンドポリシーと関わったというのは勘違いであり、いずれも実際のBBCとEMIのモニターシステムの両方とも異なる別の話を組み合わせた与太話である。

もうひとりご登場ねがうのは映画評論家の荻昌弘氏で、1968年に「ステレオ 聴く人の創意とよろこび」という本を執筆するほどのオーディオマニアでもあり、1952年に英雄のLPが発売された頃からの大のフルトヴェングラーファンとして知られ、一時期は「LP再生装置はフルトヴェングラーとレコードで会話する媒体だと思込むにいたった」とも記している。残念ながら上記の著書にはモノラル時代の装置のことはあまり詳しく書いておらず、輸入商社で(社員だった奥様と一緒に)手に入れた英国製グッドマン・スピーカー、英国製LPプレーヤー、そしてマニアの自作アンプとしか判らない。1952年のWireless World誌には英国ラジオ博覧会の模様が特集され、グッドマンのブースでは8インチ・フルレンジのAxiette 101とその磁石強化型の102(参考出品)が、ガラードのブースではModel T(3スピードターンテーブル)が展示された、とあるので、おそらく新しくて英国製にしては安価なこの2機種を選んだと考えられる。このAxiette 101はBBC LS1/1モニターやデッカ デコラ電蓄(モノラル)にも使われた当時としては優秀なもので、ガラードModel Tも多くの電蓄に採用されOEM生産された。このモノラル装置で10年間過ごした後の1963年からは、岡田諄氏のコンサルタントによるYL音響の最高級3wayスピーカーにパイオニアの大出力アンプ、トーレンスのプレーヤーとSMEのアーム、オルトフォンSPUを愛用していたとあるので、執筆時に初期のLPプレーヤーについて紹介するなど取るに足らない話題という感じだろう。その後1976年のインタビューではスペンドール BC2とラックスマン SQ38Fに変えており、弦の艶やかさを激賞しているが、10年置きとはいえ常に新しい録音に合わせてシステムを更新する当時のオーディオライフの情況をよく反映している。

ところで、この著書で「レコードによる人間の伝達」について述べる際に「フルトヴェングラーによるベートーヴェンの『第九交響曲』のレコード(エンジェル)は、総練習の実況録音、といわれるもので、聴衆の咳なども入っている」と記しており、2008年に話題になったバイエルン放送局所蔵の別テープの検証がほとんど門外漢だったことが改めて判った。しかし、荻さんはこの話をどこから聞いたのか? ライブ本番だからこそ感動的な演奏になったのだと繰り返してきた世評をどのように眺めていたのだろうか? 単純には分野違いのことに深く首を突っ込まない紳士な態度と、「この(バイロイトの)演奏の入神的な白熱感は、今日でも、私たちがレコードで所有できる最高至純の『第九』を思わせる」と記したように、フルトヴェングラーの残したレコードの芸術性に寸分の疑いもないことからくる敬服の念が先立ち、ゲネプロであろうがステージ本番だろうが些細な事として片付けてしまったように思える。実は音楽鑑賞をするための道具として考えたオーディオ装置の理想は、こうした判断のゆがみが生じないところにあるように思えるのだ。

以上のように、もはや伝説的ともいえる五味氏と宇野氏のフルトヴェングラー賛歌について、その問題点をオーディオ的な観点で読み解くと、実は両者ともに言いたいことは別にあったのに、勘違いされている部分の多いことにも気付いた。つまりクラシック音楽を聴く心構えのない人には、どんな薬も効かないという明白な事実である。それはフルトヴェングラーのような特殊なマエストロの至芸に触れても同様なのであるが、両氏の文脈は音楽を聴く魂の在りかを探るために、フルトヴェングラーの演奏に言及しているのだとさえ思えるのだ。これは得てして不思議なことであるが、フルトヴェングラーの演奏は、そうした机上の空論にもなりそうな精神論に及ぶ現象でもあるのだと知るべきである。オーディオ装置に神が宿るとすれば、フルトヴェングラーが乗り移っている状態を指すのかもしれない。

【ライヴ録音の本命はドイツ製真空管FMラジオ】
なぜフルトヴェングラーの残したライヴ録音が人類共通の宝とされるのか? それはクラッシック音楽の王道とも言えるドイツ・オーストリア出身の作曲家の交響曲をメインレパートリーにして、最大の成果を上げたことが第一条件である。それは音楽監督を務めたベルリンフィルとウィーンフィルとの関係性においてもフルトヴェングラーは王者であったのだ。それに加え、どんなに高級なステレオで聞こうが、ちっぽけなラジオで聞こうが、同様の感動に浸れる点にある。実はかつての海賊盤のように劣悪なエアチェックであっても、フルトヴェングラーの魅力は十分に感じとれることができたのである。それゆえ貧富の差なく音楽の優越を語ることが可能であったし、失敗だった演奏も含めフルトヴェングラーがラジオ放送への出演を断らなかったことも、戦時中のマグネトフォンコンサート以来、あらゆる演奏行為が全ての国民に対する奉仕だと感じていたからだと思う。私たちがまず耳にするのは、巨匠が抱く音楽と人類への愛情そのものである。

しかし、21世紀に入ってオリジナルの高音質なフルトヴェングラーの放送録音が聴けるようになった。この千金一隅のチャンスを好機と捉えて、オリジナルのフルトヴェングラー体験を目指すために考えるべきことは、現在のステレオ技術の進化した部分と、退化した部分とを正しく把握して、自分のオーディオ環境を整えることである。ただ一番厄介なのは、かつては「どの演奏がベストか」という議論が盛んだったのに対し。今では「どのリマスター盤の音質が最高か」の議論に据え変わっていることである。これに根本的に反論できるのは、そもそも録音メディアによるフルトヴェングラー体験がどこから始まったのかを正しく把握することである。

オリジナルのフルトヴェングラー体験の本陣は、やはりフルトヴェングラーの録音の9割以上を占めるライヴ録音である。1950年代のドイツでこれを再生していたオーディオ製品は真空管ラジオである。しかしながら、1950年代のドイツはFMモノラル放送を全国ネットで整備しており、フルトヴェングラーの演奏も期間限定で各放送局に録音テープで配信された。つまりドイツ国内に限っては、フルトヴェングラーの演奏は、オリジナルのHi-Fi録音の品質を損なわないかたちで放送されたのだ。
それを受信するドイツ製の真空管FMラジオであるが、スピーカーは2way、周波数レンジも50~15,000Hzをちゃんと満たす歴としたHi-Fi機器であった。モノラルで音場感を出す方法として、センターのフルレンジに加え、筐体の側面に2個のツイーターを配する3D-Klang方式が採用され、音に広がりの出る工夫がされていた。しかし、アンプはEL84もしくはECL82のシングルで3W程度まで、外付けでクリスタルカートリッジのターンテーブル、またはテープレコーダーが繋げられるように端子が付いていた。つまりFMラジオであると同時に、アンプ付きHi-Fiスピーカーとしても機能していたのだ。

左上:ドイツ製ラジオの3D-klang方式(中央のメインに対し両横に小型スピーカー)
右上:音場をコントロールするリモコン 3D-Dirigent(1955)
下:中央のメインスピーカーはAM用、高域はエコー成分を担当


真空管ラジオを部屋に置くトップアーチスト
グンドラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)、アルフォンス・バウアー(ツィター奏者)

【ラジオより頭ひとつ抜きんでたモノラルシステム】
このように最初のレコーディングから100年を経過するなか、様々なオーディオシステムで聞かれてきたフルトヴェングラーであるが、その大半は、現在の過剰なレコードのリリース合戦も含め、巨匠の死後に発展したステレオ機器に依っている。そしてフルトヴェングラー自身が納得していたオーディオ環境、つまりドイツ国内でのラジオ放送というのが忘れ去られている。というよりラジオが誰でも聞けるものだと蔑まされて扱われた結果、幻影のような音質で聴いていたのだ。
さて、現代の高音質なライヴ録音が出揃った時代において、フルトヴェングラー体験を成就するには、現在の進化したステレオ技術では逆鞘で極めて不経済である。なぜならば10kHzより上の超高域の再生能力とか、40~60Hz付近の重低音の伸びだとか、お金を掛けるところが大幅に食い違っているからだ。かといって従来のEMIオリジナルプレス至上主義に走って、ビンテージ・オーディオ機器を取り揃えたところで、ラジオ放送用のライヴ録音が正しい音調で鳴っているとは到底思えない。いずれにせよ、フルトヴェングラーがマグネトフォン録音に向かった1940~50年代のドイツのオーディオ技術をしっかりフォローしておくことが重要である。言い換えれば、1950年代以降のHI-FIレコードは戦勝国の理屈で、ドイツ国民が戦後に享受したFMラジオのスペックを越えること=ある種のデフォルメされたサウンドによって成り立っている。逆に現在のオーディオ技術は、新しく進化したサウンドステージの再現に特化しているため、聴こえてほしくないノイズや近接的に密集して立ち並ぶ楽器の音像など、モノラルの限界とされている現象に見舞われる。こうした矛盾を抱えたオーディオ機材で挑むため、フルトヴェングラー体験が次元の低いオーディオ的評価で埋め尽くされる結果となっているのは、甚だ残念なことである。

ではラジオより良い音で聞きたいという要望はどうしたらいいのだろうか? トーキー用に開発された大型ホーンや巨大なエンクロージャーは、一般家屋の部屋の大きさや音響特性からみても全く別な規格のものである。また3way、4wayに広帯域化したスピーカーは、ラジオ用の音源がおかしく聴こえるほど音響がデフォルメされているのでアラが出てしまう。つまりこれらはラジオからの正統なグレードアップではなく、異なるオーディオ規格で異次元のサウンドを吐き出すように設計されているのだ。しかし歴史を丁寧に見渡すと、真空管ラジオと同じ仕様で製造された最高級のオーディオ機器は存在した。

英デッカが製造した高級電蓄ステレオ・デコラは、もちろんデッカの優秀録音のために開発されたものであるが、不思議なことにスピーカーにEMI製のユニットを使用している。これらはDLSシリーズとして1960年代のHMVのラジオ電蓄にも搭載されたもので、スピーカーユニットだけなら日本にも輸入販売されていた。さすがにウーハーに相当する大口径の楕円エクステンデッドレンジは日本では売られていなかったが、これより一回り小さい楕円スピーカーとコーンツイーターのほうは広告にも載っていたのだ。しかし、高度成長期に入りはじめた日本では何でも進歩的なものを優先する風潮があり、価格もほどほど安く、見かけがテレビやラジオに使われているものと同じようなスピーカーには誰も振り向きはしなかった。


最高級電蓄:デッカ社 ステレオ・デコラ(1959)とEMI製ユニットの特性


モノラル末期のテレフンケンO85aモニターは、ツイーターが16個もついているのに、トータルな周波数特性は高域が少しロールオフしたものとなっている。プロツールとして有名なEMTのアナログ機材と合わせた場合にも、こうした落ち着いた特性がデフォルトになっている。ステレオ時代に入ってカラヤンが広告に出ていたAR社のスピーカーは、高域がロールオフしたアメリカ東海岸のサウンドとして有名なものであった。モノラル時代のスタンダードな音響は、コンサートホールの響きを摸倣していて、高域はなだらかにロールオフしている。代わりにマイクからテープの記録はフラットに収録しており、ちょうどホールの天吊りマイクの位置にスピーカーを置いて拡声するとバランスが取れるようになっていた。つまり、録音された音を最適な状態で鑑賞することは、けして全ての周波数が機械で測定したように均等に聞こえることとイコールではないのである。こちらも同等品の独イゾフォンのユニットが手軽に買えたのだが、輸入物の三大派閥であるアルテック、JBL、アルテックの牙城を突き崩すこと適わず、オーディオマニアはともかくレコードマニアの間でさえ特に話題になるようなことはなかった。


テレフンケン O85aモニタースピーカー(1959?)、Isophonのスピーカーユニットの周波数特性

このように、フルトヴェングラーを巡るEMIスタジオ録音とドイツ放送用ライヴ録音とが交差する点を見出すと、自ずと当時の真空管ラジオの延長にあることが分かる。1950年代末までのHi-Fi技術は、SP盤やAMラジオという庶民に馴染みのあった音声規格を大切にしつつ、それを1オクターブだけ伸ばす方向で落ち着いていた。なので再生の軸は100~8.000Hzを中心に回っており、そこを犠牲にして新しい技術を追い求めることは、考えられなかったのである。

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【家庭用モノラルオーディオの再構築】
上記のデッカやテレフンケンの高級システムを見渡すと、ツイーターはラジオと同じ機材を使っていながら、低域~中高域にかけて再生するエクステンデッドレンジ(古レンジ)のスピーカーを大口径のものにグレードアップすることで、その評価が天と地ほど離れていることに気が付く。そしてフルトヴェングラーの演奏でも、優雅なヴァイオリンの音色なんてものに現を抜かさず、このボーカル域での突進力というか、バシバシと畳み掛ける興奮の度合が迫ってこないと、フルトヴェングラー体験の妙は味わえないのだ。これは中高域の艶(高調波歪み)を消したウーハーでは不十分で、パルス波の再生に特化したツイーターでも無理である。オーケストラの全ての帯域が一斉に押し迫る(Tutti)ように鳴らなければならないのだ。

とは言え、上記の最高級のシステムは生産台数が指で数えるほどしかなく、お金をいくら積んでも手に入るような代物ではないし、そもそも住宅ローンで苦しんでるようなサラリーマン風情には雲の上の存在である。同じことは1950年代のビンテージ機器、例えばタンノイのモニターレッド、クラングフィルムのオイロダインなどでも同じことである。こうした1950年代のHi-Fi技術の最高峰を愛でる批評記事の多くは、ステレオ理論が繊細な方向に進展した1970年代中頃の話であり、その後CDが出てデジタル対応機器が増えると神話になっていった。現在はそのような時代から優に半世紀の時間が流れているわけで、文字だけ一人歩きしている状態だと言えよう。実態は上述したように、ドイツ国民はもっと庶民的な真空管FMラジオでフルトヴェングラーの演奏を鑑賞していた状況があり、放送されなくなったので放送局の伝手をたどってコピーテープを所持していたのだ。実はそうした貧しさの存在は現在でも同じであって、フルトヴェングラーのライヴ録音はそうしたなかでも十分に心に染みるものであり続けているのだ。

そこで私は現在でも製造を続けている30cm径のエクステンデッドレンジ・スピーカーJensen C12Rを軸に、以下のようなモノラルシステムを組んでいる。このシステムは、周波数レンジ100~8,000Hz、出力1.2Wの昔日のラジオ並みのスペックである。ただしスピーカーの大きさは、人間の胸腔と同じサイズであり、一人のパーソネルがディスクサイドに座っているような感じである。つまり、コンサートホールの音の再現ではなく、ミュージシャン自身を自宅の部屋に招くようなシチュエーションで聴くことになる。


このシステムの最大の特徴は、ミッドセンチュリー時代のモノラルシステムを摸倣していながら、どの製品も現在製造を続けて新品で購入可能であり、しかも安価で売られている点である。例えば、スピーカーユニットは上下2点で約1万円だし、ライントランスは千円以下、ミキサーやチャンデバは各2万円前後の汎用品、真空管アンプはキットで6万円である。別にコスパを追い求めたわけではなく、1950年代の人が日用品として接したラジオ電蓄のスタイルを、自分なりに深~く洞察した結果なのである。

【フィックスドエッジ・スピーカーとコーンツイーター】
Jensen C12Rは現在ではギターアンプ用として伊SICA社がライセンス生産をしているが、1947年に開発された時点では汎用のPAスピーカーとして販売されており、実際に1960年代前半のアメリカ製ジュークボックスでメインスピーカーとして搭載されていた。レプリカとして再生産されているユニットは、コーン紙を丸めて継いだ安い造りもそのままに、フィックスドエッジ、ボイスコイルのキャップはフェルトで塞いでいるなど、当時のトーンを維持するための仕様を再現している。


マグネットは10cmフルレンジ並に小さい

エッジはコーン紙と同じ材質の硬いリブ構造

コーン紙は丸めて糊付けした継ぎ目がある

センターキャップはフェルト布を貼り付け


このユニットの強みは、30cmという大口径であるにも関わらず反応が俊敏であることで、フィックスドエッジの機械バネも利用しながら、200~4,000Hzがクリーンな波形で一斉に鳴りだすように設計されている。現在のフリーエッジのウーハーでは、重たいコーン紙が起き上がるまでに2~3ms遅れているのとは全く異なるのである。またギターアンプ用だからとさぞかし分割振動が激しいものだと想像しがちだが、フルレンジのように高域を無理に伸ばすようなことはしていないので、中高域が尾を引いて音場感を演出するようなこともしない。こうしたエクステンデッドレンジならではのボーカル域での反応の良さは、フルトヴェングラーが好んだ1本マイクでの収録において、時間的な整合性が自然なまま再生される。

次にJensenと相棒になるツイーターだが、昔の真空管ラジオの頃の仕様をそのまま受け継いだ、独Visaton TW6NGというコーンツイーターを選んでいる。このツイーターは斜め横から計測すると、5kHzと13kHzに強い共振峰を持っており、ちょうど三味線のサワリのような役割を担っている。現在のツイーターのようにパルス波を誰よりも早く吐き出すような造りとは全く異なるのだ。

ドイツ製で格安のVisaton TW6NGコーンツイーター(試聴位置:仰角75°からの特性)

Visaton TW6NGのタイムコヒレント特性(どこまでも5kHzの共振峰が付いて回る)

しかし、このレガシー設計のコーンツイーターをJensen C12Rと合わせると、全く息がぴったりと合って、まるで1本のフルレンジを聞くかのように波形が整っている。この2つのユニットは、チャンネルデバイダーで3.5kHzクロスのマルチアンプ再生しているが、モノラルスピーカーでもステレオアンプの余った部分を活用している。このスッと一息でボーカル域が鳴るというのは重要で、200~6,000Hzが一挙手一投足揃って鳴るというのが、どの音楽でも基本であることが実感できる。しかも小音量でも中低音が痩せずバランスが崩れないという利点があるが、これは大口径エクステンデッドレンジ・スピーカーの特徴でもあるのだ。これでフルトヴェングラー特有の低音から立ち上がるうねりやアゴーギグが見通しのいい状態で聞ける。

Jensen C12R+Visaton TW6NGの総合特性
ツイーターは出力が小さいがウーハーと波形が綺麗に揃っている

【適切な周波数レンジ】
私にとって重要なのはオーディオ装置を自然なアコースティックに保つことであり、私の感覚だと広帯域でフラットではなく、コンサートホールの響きが一番しっくりくる。コンサートホールの音響は高域が減衰しており、古くはトーキーシステムのアカデミー曲線(現在のXカーブのご先祖)、最近の音楽用コンサートホールの最新の計測でも同様の結果である。

コンサートホールの周波数特性の調査結果(Patynen, Tervo, Lokki, 2013)

私は1947年に設計されたJensen C12Rを中心に、ドイツ製真空管ラジオに使われていたのと同じ仕様のコーンツイーターVsaton TW6NGで2wayスピーカーを組んでいる。これは1950年代のドイツ製ラジオや、1960年代初頭のジュークボックスと同じ音響規模である。1mに満たないディスクサイドに置いたスピーカーの特性は、コンサートホールのものと同じアコースティックなバランスで、Jensen C12Rとコーンツイーターのタイミングもピッタリ息の合ったもので、フルレンジと変わりないスムーズなつながりである。

モノラルシステムと試聴位置での計測結果
破線:トーキー音響規格、灰色:コンサートホールの計測例

あとよく忘れているのがモノラル・スピーカーの聴き方だが、正式には「斜め横に置く」のである。これはシュアー社がガイドブックでも示している公式なもので、単に低音の輻射を増やす以外にも、正面に座って聴くと部屋の響きがブレンドされずデッドな環境になる。多くの人がリマスター盤の評価で高域のバランスについて文句を言うのも、ツイーターが支配する音場感を聞き取る癖がついてしまっているからだ。なによりもモノラルは家具のレイアウトが自由であり、ステレオのような魔のバミューダトライアングルを生みだすことがない。よくモノラルスピーカーをサブシステムにして、ステレオスピーカーの中央に置く人が居るが、モノラル試聴にはそれに相応しい部屋のレイアウトがあるのだと知ってほしい。

Shure社1960年マニュアルにあるスピーカーの配置方法

モノラルはくつろいだ姿勢で聴いてOK、踊ろうが歓談しようが自由自在

【人体と等身大のスピーカー】
私は人間が音楽に感動する要素は、人間の聴覚における社会性を育んできた言語的ニュアンスにあると思っている。つまり音楽の大方の情報は200~6,000Hzぐらいの範囲に納まっているのだ。そいういう意味もあって、私はスピーカーの機能性として、まず第一に人間の声をリアルに表現することを大事にしている。
そこをさらに踏み込んで、スピーカー径を大きめの30cmとしている。その理由は低音の増強のためではなく、200Hz付近までコーン紙のダイレクトな振動で音が鳴る点だ。コーン紙を平面バッフルに見立てて最低周波数を計算すると、10cmで850Hz、20cmで425Hz、30cmで283Hzとなり、喉音、実声、胸声と次第に下がってくる。あえて言えば、唇、顔、胸像という風に声の描写の大きさも変わってくるのだ。それより下の周波数は、エンクロージャーの共振を利用した二次的な輻射音になる。小型フルレンジでは胸声が遅れて曖昧に出てくるため、表現のダイナミックさに欠ける。
このボーカル域の要件を両方とも満たすのが、古いPA装置に使われていたJensen C12Rのようなエクステンデッドレンジ・スピーカーだ。喉声以上の帯域に対し遅れを出さずに胸声までタイミングが一致して鳴らせるようにするため、高域を多少犠牲にしても、スピーカー径を大きくすることで自然で実体感のある肉声が聴けるのだ。よくスピーカーの再生能力としてフルボディという言葉が使われるが、モノラルの場合はスピーカーそのものの大きさが等身大であるべきだと思っている。
それと、スピーカーのダイレクトな振幅をじゃましないために、エンクロージャーを後面開放箱にしている。これはJensen C12Rの共振尖鋭度Qts(最低共振周波数fo付近でのコーン紙の動きやすさを示す数値)がQts=2.5という、ガチガチなフィックスドエッジだから可能なことでもある。逆に通常のバスレフ箱用に設計されたQts=0.3~0.5ぐらいのフリーエッジでは、後面開放箱に入れるとフラフラして使い物にならないので注意が必要だ。例えば同じJensenでも高級なP12NはQts=0.7で、バスレフポートの間口が広い、古い設計のハスレフ箱に合ったものとなっている。


人体の発声機能と共振周波数の関係
 
唇の動きに見とれるか、顔を眺めてうっとりするか…
やっぱり胸元まで見ないと実体感が湧かないでしょ!
 
裏蓋を取って後面解放!


ル・コルビュジエのモデュロールとスピーカーの寸法関係


【ラジオ球のミニワット・アンプ】
私は真空管アンプを使っている。と言っても、けして本格的なものではなく、共立エレショップで売っている完成基盤を結線するだけのセミキットで、ECL82シングルを三結&無帰還で使用した出力1.2Wのミニワットアンプである。摂津金属工業の創業70周年記念シャーシを加えた特別バージョンで、このシャーシは1960年代の頃と同じ作り方を復元し、2019年に70台限定で売り出されて久しいが「残り在庫1台」となっていたので、いそいそと購入したのだ。基盤だけなら5500円のお試しアンプに、何もこんなに凝ったケースを付けなくてもいいものを、と思う人も多いと思うが、やはりこれは趣味の世界である。同じアクリルケースのバージョンも同じ価格なので、摂津金属工業さんとしては、記念品としてほとんどタダで提供したのだと思う。在庫1台で気になるシリアルナンバーだが、家に送られてきたのはNo.40だった。どうも売れたら倉庫から引き摺りだして店頭に並べるということらしい。でも、こういう緩さというか、けち臭い感覚も、やはり昭和風なのである。


販売して7年経っても在庫あり。物好きしか買わないだろうキット

ECL82(6BM8)は、1955年頃に蘭フィリップスで開発された、3極管プリと5極管パワー管をMT管1本にギュッと封じ込めた複合管で、家庭用のラジオ&テレビで多用された2.4Wしか出ない真空管である。初期のアンサンブル型ステレオやレシーバーにも使われており、東芝、ナショナル、NECなど、日本製のほうが性能が良いことでも知られている。以下のように洋の東西を問わず様々な家電製品に使われており、いつかどこかで聴いた音のデジャヴ感が漂っている。広告でみるユーザーへの訴求も、クラシック、ロック、流行歌、童謡と幅広いのも特徴である。1955~65年=昭和30年代の国民的な仕様だと言えば分かりやすいかもしれない。魚で言えば、マグロや数の子なんて高級食材ではなく、アジの開き、秋刀魚のようなものである。知っての通り、アジもサンマも、今では不漁続きで庶民の食卓に上りにくい贅沢品になってしまった。ECL82も同様で、唯一生産を続けていたロシア球も製造を終えて、けして安い球ではなくなってしまった。しかし1950~60年代にこの球の使われた家電製品をみると、まさに歴史的な場面に巡り合っていることが分かる。


ECL82(6BM8)が使用された往年のドイツ家電製品
Polydor(Siemens) Musiktruhe TR2 ラジオ電蓄(1957、ドイツ)
Siemens LUXUSSUPER H8 ラジオ(1958、ドイツ)

さて、この共立電子工業の真空管アンプキットは、五極管の出力部分を三結にし、しかも無帰還とすることで、波形の再生がリニアに立ち上がる性質をもっている。1.2Wという小出力であることは既に述べたが、ppで聞こえにくいからとボリュームを上げると、ffに達したときに音量が大きくなりすぎて思わずボリュームを下げるようなことになる。これまでMOS-FETのAB級アンプで迫力ある音というのが、NFBにより一種のコンプレッションを伴っていたことが判った。これは小音量のときの音の立ち上がりが明瞭ということにも繋がり、フルトヴェングラー特有のリズムのゆらぎや、ダイナミックな音楽の変化を克明に伝えるのだ。これと後面開放型のスピーカーのキビキビした音と相性が良く、家電オーディオの真髄に触れられるわけである。

【ラジオ用ライントランス】

最後の味付けはラジオ用ライントランスで、私はミキサーからチャンデバの間に挟んでいる。このことでミキサーから過入力してサチュレーションを出しつつ、チャンデバの受けで絞れば辻褄が合うという塩梅である。私の使っているサンスイトランス ST-17Aは現在も製造を続けている現行品であり、昭和30年代のトランジスターラジオでB級プッシュで使用するために設計された分割用トランスだ。似たようなものは1970年代半ばまでラジカセなど家電製品の基板に組み込まれていた。周波数特性をみると少しカマボコ型なのだが、これが中域から肉汁たっぷりの艶やかさを出してくれ、MMカートリッジのような腰の強さも演出してくれる。これが無いと真空管アンプもHi-Fi過ぎて面白くない音になるのだから不思議である。

ラジカセ基板の段間トランス、サンスイトランス ST-17Aと特性

トランスには磁気飽和による高次歪みと僅かなコンプレッションがあって、実はLPからCDに変わった後に音楽が味気なくなったのは、単にマスタリングの問題だけでなく、パッシブに動作する磁気歪みが関与している。同じような効果は、テープヘッド、カートリッジにもあり、唯一スピーカーだけが磁気回路をもつオーディオ部品となってしまった。ちなみに私の場合は、こうした事情は肯定的に捉え、ギターアンプ用スピーカーの分割振動も含め、倍音成分(高次歪み)を大歓迎で混ぜこんでいる。トランスによる高次歪み(サチュレーション)は楽音と一致して起こるため、イコライザーで持ち上げたときのような雑然とした感じにはならない、非常に上品で艶やかな音である。ただ倍音の出やすいのはパルス性の波形に対してであって、普通のサイン波はクリーンな音である。もちろん歪みが増大するブレークポイントがあるので、それ以上の音量を出さないのも使用上の注意としてあるが、Jensenとて70年前のプロ用ユニットなので家庭用として音量に全く不便はない。

Jensen C12R+Visaton TW6NGの1kHzパルス応答特性(ライントランス有)
斜め横から測っても中高域のピーク成分はリンギングで残る


【ラジカセを乗り越えられない高級ステレオ】
ちなみに日本のラジカセは、家電製品の片割れとしてAMラジオとしての機能を第一とし、その延長上にFM放送向けに高域を拡張した仕様だったが、これは1950年代のドイツ製真空管FMラジオをはじめとしたHi-Fi技術の正統な継承者に当たるのである。昔からラジオ放送用のライヴ録音を満喫するのに、それほど音質が良くないことを理由に、ラジカセ程度がちょうど良いなんて笑い話もあったが、1950年代のドイツ製真空管FMラジオのノウハウをちゃんとみれば、ラジカセのほうが立派な音で鳴り響くことは明白である。フルトヴェングラーを妙な方向に肥大化したステレオなどで聴いてはイケナイのだ。


1974年にようやく2way化されたラジカセと1977年の巨大ステレオラジカセ
実は1950年代のドイツ製真空管ラジオと仕様がほぼ同じである

1950年代の独Isophonのカタログより:ラジオ用にOEM生産されたスピーカーユニット

以上のように、フルトヴェングラーのライヴ録音が放送された時期のドイツでは、真空管FMラジオのHi-Fi音声で聞いており、それは多少規模は小さくなっても昭和のラジカセに引き継がれていた。それでこそ中低域から中高域まで一筆書きでガツンとくるアインザッツが決まるのだ。しかし低音が~♪高音が~♪、と騒ぐ俄かHi-Fi技術=ステレオの出現によって、正常なかたちでのラジオ音声の再生が困難になった。
1967年頃に長岡鉄男は「家庭用の安直なアンサンブル型電蓄から出てくる声を、ナマの人間の声と聞きちがえる人はまずいないでしょう。ボソボソとした胴間声と相場はきまっているからです。ところが、アンプ部分にしろ、スピーカーにしろ、電蓄より一段も二段も下のはずのテレビ(卓上型で、だ円スピーカー1本のもの)の音声は意外と肉声に近く、となりの部屋で聞いていると、ナマの声とまちがえることがよくあります。」とコラムに記している。
つまりステレオは普通のマイク音声が悪く聴こえるように進化し、ラジカセ程度の音の集中力でさえ欠いたいびつなかたちになっていたのだ。これでは1本マイクの脚色なしで収録されたフルトヴェングラーのライヴ録音は、どこか腑抜けなものに聴こえるのは当たり前である。ラジオ規格からオーディオのグレードアップを練り直すことを切に希望する。


【アメリカのフルトヴェングラー】
もうひとつ気になるのは、ドイツ本国よりも英米や日本でこれほどまでにフルトヴェングラーが愛される理由である。まずイギリスではEMIのスタジオ録音が残されていたが、1968年にメロディア盤の板起こしからはじまったユニコーン・レーベルが発足して以来、フルトヴェングラーのライヴ録音への興味が俄然沸騰したというべきだろう。アメリカでは古くは東ドイツ経由で買い取ったウラニアのエロイカがあったが、1974年の米オリンピック盤のベト全騒動にあるように、米VOXレコードは第二次世界大戦中のマグネトフォンコンサートのリリースを積極的に行っていたし、それには一定のファンが付いて回っていたのである。これは日本においても同様であった。

この1970年代にそれらを聴いていたオーディオ装置は何だったのだろうか? 例えば1974年の米ハイフィデリティ誌の読者には、第九のレコードはトスカニーニとフルトヴェングラーしか持っていないという人が複数名居て、ショルティの1972年盤の評論で古いレガシーの強い録音について「中古車」扱いしたという怒りの手紙が殺到した。ちょうど菅野沖彦氏が、低価格の優れた製品に対し「プアマンズ~」という異名をオーディオ評論で付したことで、その機器の愛用者より多くの苦情を受けたのと同じであるのだが、様相は根本的に異なる。個人的には1970年代のデッカやグラモフォンのような新しいステレオ録音の良さを満喫するには新しいステレオ装置が必須であり、日本では技術革新は正義として受け止められ、オーディオの買い替えは当然のことと受け止められてきた。
では英米はどうだったのだろうか? 「イギリス人はケチンボである」と1960年代初頭の英国のオーディオ事情を記したのは五味康祐氏である。78回転盤が聞けないオーディオ装置は売れないというのだ。しかしそのケチンボの国の最高級電蓄だったステレオ・デコラについては最大限の賛辞を送っている。その廉価版にあたるHMVのステレオ電蓄には、実はデコラと同じEMI製のスピーカーが搭載されていたのだが、あえてそれには触れないままであった。


最高級電蓄:デッカ社 ステレオ・デコラ(1959)とEMI製ユニットの特性


同じことがアメリカでは起こっていたのだろうか? アメリカのオーディオというと、JBLやアルテックは元より、エレクトロボイスやクリップス、ボザーク、ジェンセンなどの「巨人の時代」がかつてあったが、ちょうどARやKLHなどのステレオ再生に適した高性能ブックシェルフスピーカーとの世代交代を経た頃となる。ARのスピーカーの広告には、カラヤンとマイルス・デイビスが載っていた。実は晩年のトスカニーニの録音は、巨匠の自宅にアルテック820(15インチ・ダブルウーハーに蜂の巣ホーン付き)によるプレイバックモニターがあり、そこでテープを再生して合格しなければならなかった。つまり、ちんまいブックシェルフスピーカーでは鳴りきらないスケール感を必要とする録音のひとつだったのだ。しかしそれとVOXレコードの大戦中マグネトフォンコンサートのリリースとどれほどの関連性があっただろうか? おそらく何もないのである。古いレガシー録音に愛着のあった人々は、例えばラファイエットやアライド・ラジオのような通販やキット販売の時代にオーディオ装置を買いそろえたと思われる節があるのだ。以下のアライド・ラジオの表紙を飾るDIYセットはかなり高級な$731だが、メーカーの完成品に比べれば半額に抑えられるというものだったし、FMチューナーとLP盤を聴けるずっとお買い得な$160というのも売れ筋だった。

表紙を飾るのは理想的な$731システム

こちらは壁に埋め込む入門セット$160(スピーカーも壁の板に埋め込んだ)
1959年のAllied Radio商会の通販カタログ(モノラル&DIY全盛期)

これに加えバジェット盤やモノラルの旧譜があると十分に音楽鑑賞のスタートが切れるわけだ。保守派情報誌のリーダースダイジェストは会員制のレコードクラブを募って、月額$10で好きなLP5枚を自宅までお届けします、というサービスを展開しており、おそらくこれがバジェット盤のはしりだったと思われる。RCAビクターのドル箱アーチストも駆り出され、ミュンシュなどはリハ前にトスカニーニのベートーヴェンを聴かせ「今日はこれで行こう」と言ったとか言わなかったという逸話もあり、散発的なリリースによる弊害も無くはなかった感がある。そうした中にフルトヴェングラーのセラフィム旧譜やターンアバウト盤などが混ざっていたのである。かく言う私も、クラシック初心者のときは、新譜1枚2800円に対しバジェット盤だと1000~1500円で2~3枚買えるわけで、大いにお世話になった。

LP盤も松竹梅の価格攻勢:ステレオ盤$6、モノラル盤$4、バジェット盤$2

私のモノラルシステムは、この時代の廉価なハイファイ入門スタイルを模しているが、アナログ盤がCDに変わったというよりも、放送音源を通じてFMラジオを堪能しているというほうが正しい。それが半世紀の時空を越えたマグネトフォンコンサート以来の巨匠の思いとして残されていると思うからだ。

アメリカでのフルトヴェングラー没後の受容をおおよそ10年置きに俯瞰すると以下の通りである。

Audio Magazine誌 1955年 2月号(つまり巨匠の死の2ヶ月後)の記事を読んでみると、アメリカにおけるフルトヴェングラーへの思いがどういうものだったかを伺い知ることができる。ここではVOXレコードのウラニア盤に関するものは裁判中のことでもあり言及していない。



ハロルド・ローレンス* 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのメッセージ

11月30日火曜日、WQXRの午前中のレギュラーコンサートに、ドイツのバーデン=バーデンでヴィルヘルム・フルトヴェングラーが死去したという特別速報が割り込んできたとき、多くのリスナーが背筋に寒気を感じたに違いない。というのも、奇妙な偶然にも、その速報が読み上げられた直後、番組は予定されていた曲目、ワーグナーの『神々の黄昏』よりジークフリートの葬送曲へと続いたのだ。唸るようなコントラバスの旋律と鋭い金管楽器の和音は、この新たな、かけがえのない喪失に対する雄弁なコメントのように思えた。同時代の最も優れた指揮者たちの中で、68歳で亡くなったフルトヴェングラーは、87歳のトスカニーニ、78歳のワルター、75歳のビーチャム、79歳のモントゥーと比べると、まさに若手だった。彼の早すぎる死(死因:肺炎)は、説得力があり、卓越した訓練を受けた音楽家のキャリアが途絶えたという以上の意味を持つ。指揮者を20年以上も苦しめてきた論争の雲は、ついに晴れようとしていたのだ。ボン政府の後援を受け、フルトヴェングラーは今年初めにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いてアメリカツアーを行う予定だった。6年前なら、それは考えられないことだっただろう。
当時、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団の指揮者を務める計画が進められていた。しかし、定期会員や客演アーティストの間で、彼がナチス支持者であったという疑惑が持ち上がった。事態を長引かせることを避けるため、フルトヴェングラーはこの招待を断った。前年に連合国が彼のナチスとの繋がりを否定し、1948年1月にはパリでフランスの聴衆から熱烈な歓迎を受けていたにもかかわらずである。皮肉なことに、ドイツの軍国主義によって最も苦しめられた国々こそが、芸術と政治の分離をいち早く認識した国々だった。例えば、フランスの首都パリでは、ドイツ人指揮者やソリスト(「汚名」の有無にかかわらず)は高く評価されている。
こうしたアーティストの米国公演に対する抗議活動は、決して一貫しているとは言えない。ピケ隊によってギーゼキングの戦後初のカーネギーホール公演は中止に追い込まれたが、メトロポリタン歌劇場が、同じくナチス政権下で活躍し、1936年にはザクセン宮廷のテノール歌手に任命された歌手を起用した際には、誰も騒ぎ立てなかった。音楽ボイコットの不条理さを証明する出来事が、1953年4月13日、イスラエルのハイファで起こった。ヤッシャ・ハイフェッツが、ドイツ人作曲家の作品演奏を20年間禁じられていた慣例を破り、シュトラウスのヴァイオリン・ソナタを演奏して、鳴り止まない喝采を浴びたのだ。(後に、ハイフェッツが再び同曲を演奏した際、狂信者が金属製の物体で手首を殴打するという事件も発生した。)しかし、政治と音楽は、この記事の主題ではない。

フルトヴェングラーの初期のキャリアは、まさに彗星のごとく輝かしいものだった。わずか7年で、戦前のドイツにおけるすべての指揮者の夢、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者という地位を手に入れたのだ。その第一歩は1915年、マンハイム管弦楽団の指揮者(1779年創設)に就任し、退任するアルトゥール・ボダンスキーの後任となったことだった。その後、ウィーンに移り、ベルリン国立歌劇場管弦楽団の指揮者となった。1922年にはニキシュの後任としてゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、最終的にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となった。
このような驚異的な出世は、フルトヴェングラーがビジネス関係において本質的に世間知らずであったという事実を覆い隠すように思われる。臆病で繊細で、自分の考えに没頭していた彼は、抜け目のない秘書、ベルタ・ガイスマーに導かれ、あるいはむしろ誘導されて、さらに強力な地位へと上り詰めた。1929年シーズンからウィーン国立歌劇場の監督に就任しようとしていた時、ガイスマー嬢は指揮者とウィーンの支配人との合意の握手を唐突に遮り、フルトヴェングラーをベルリンに連れ戻して考え直させた。ベルリンの役人たちがウィーンの申し出を断るよう説得しようとした時、フルトヴェングラーは(おそらく秘書の助言に従って)最後通牒を突きつけた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が政府補助金を得て、楽団員の雇用に関する全権を自分に与える場合に限る、と彼は宣言した。彼はベルリンに留まることを検討するだろう。さもなければ南へ行くつもりだった。ベルリンは彼が留まるように手配した。
ナチス政権との関係は、必ずしも順調とは言えなかった。新体制下で音楽活動をすることを選んだこと(それだけで彼は非難された)により、フルトヴェングラーは、国の第一人者である指揮者として、当局に服従せざるを得なかった。意見の相違は多々あった。フルトヴェングラーは、オーケストラ内のユダヤ人音楽家を保護することでアーリア化政策に従うことを拒否し、また、ヒンデミットの作品上演禁止令にも背き、1934年に『画家マティス』を初演した。しかし、最終的には、これらの点を含め、ナチスが勝利を収めた。戦後、フルトヴェングラーはヨーロッパの指揮者の中で、すぐにその地位を取り戻した。

フルトヴェングラーのキャリアは、まさにその通りだった。指揮者としての彼は、決して指揮棒の名手ではなかった。彼の「ビート」――もしそう呼べるものがあるとすれば――は、演奏者たちがそれに慣れるまでは、全くの謎だった。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のある団員は、「13回目の予備的な揺れの後になって初めて」指揮棒が振り下ろされたと述べている。彼の身振りはしばしばぎこちなく、その長身は、ほとんど不格好な首をさらに際立たせているように見えた。しかし、オーケストラが彼の「ビート」を理解し始め、コミュニケーションの道筋がしっかりと確立されると、演奏者たちは彼に反応した。ガイスマー女史はこう述べている。「コンサートが始まると、彼は地上のあらゆるものを置き去りにするようだ……彼の表情豊かで指示的な手の動きは……目に見えないスクリーンに音楽を描き、あるいは目に見えない粘土から音楽を形作る……半ば閉じられた目で、彼はオーケストラを魅了するようだ。」
当然のことながら、フルトヴェングラーの催眠術のような効果は聴衆にも及んだ。オーケストラを指揮する際に「全身を震わせる、痩せこけた孤独な男」と評された彼は、コンサートホールに真の共同体を作り出すことを信じていた。そうすることで、「個人はもはや独立した存在ではなく、人類の一部、彼を通して働く神聖な本質の一部となる」のである。

これは、フルトヴェングラーの芸術へのアプローチを支える数多くの概念の一つに過ぎません。もし彼の演奏がロマン派の雰囲気を漂わせているとしたら、それは単なる偶然ではありません。フルトヴェングラーは、まさに19世紀の申し子だったのです。あらゆる点がそれを物語っています。彼にふさわしいレパートリーは、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、シューマン、ワーグナー、シュトラウスでした。テンポは思慮深く、ゆったりとしていました。彼はセンセーショナリズム、あるいはワーグナーが「原因なき効果(Wirkung ohne Ursache:ベルリオーズの管弦楽手法を批判したもの)」と呼んだものよりも、音楽の本質への深い洞察を追求しました。フルトヴェングラーの偉大な演奏で生まれる興奮は、決して表面的なものではなく、作品の根幹から湧き上がるものでした。彼の外見にも、どこかロマンティックな趣がありました。マンハイム時代、彼は長い黒いマントを羽織り、大きな犬を連れて街を散策するのが常でした。高く威厳のある額の下に隠された青い瞳は、彼の最も印象的な特徴だった。
フルトヴェングラーは19世紀音楽に完全に没頭しており、このレパートリーにおいて世界屈指の指揮者の一人となった。しかし、その力は同時に弱点でもあった。モーツァルトのセレナーデの軽快なリズムや、ドビュッシーやラヴェルの繊細な楽譜には、彼はそぐわなかった。フルトヴェングラーが特定の作品を指揮することは、アルトゥール・シュナーベルがシャブリエの「絵画的小品集」のような作品を演奏するのと同じくらい考えられないことだっただろう。しかし、シュナーベルと同様に、フルトヴェングラーは賢明にも、自分に最も適した作曲家の作品に絞って指揮を行った。
音楽界にとって幸運なことに、フルトヴェングラーは亡くなる直前まで、コンサート活動と録音の両方で精力的に活動していた。HMVでは、ベートーヴェンの交響曲6曲、メニューインとのヴァイオリン協奏曲、フィッシャーとのヴァイオリン協奏曲、オペラ「トリスタンとイゾル」と「フィデリオ」全曲、モーツァルトの交響曲第40番、ブラームスの交響曲第1番とハイドンの主​​題による変奏曲、シューマンのマンフレッド序曲、シュトラウスの死と変容、ワーグナーのコンサート、そして「神々の黄昏」より「犠牲の場面」を録音した。ロンドンffrrではブラームスの交響曲第2番とフランクのニ短調交響曲を、ドイツ・グラモフォンではシューベルトの交響曲第9番とハイドンの交響曲第88番をリリースした。これらの中でも特に傑出したディスクは、特に感動的な緩徐楽章を収録した「英雄」交響曲(LHMV 1044)、そして背筋が凍るような演奏の「ジークフリートの葬送音楽(『神々の黄昏』より)(LHMV 1049)(金管楽器の響きはかつてないほど不気味)、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の叙情的な解釈(LHMV 1061)(メニューインの演奏はこれ以上ないほど良い)、マンフレッド序曲の想像力豊かで情熱的な演奏(LHMV 1023)(ゆったりとしたテンポを好んだシューマンもきっと気に入ったであろう)、そして壮大な構想のトリスタンとイゾルデ(LM 6700)(男性主役の歌唱はやや物足りないものの、忘れられない体験となるだろう)。RCAビクターは、トスカニーニの「フィデリオ」が既にカタログに掲載されているにもかかわらず、フルトヴェングラーの「フィデリオ」もリリースする予定である。

フルトヴェングラーはテンポが遅いことでしばしば批判されてきたが、それはトスカニーニがテンポが速いことで批判されてきたのと同様である。実際、ベートーヴェンの序曲やブラームスの交響曲は、演奏速度が一つだけではない。重要なのは、妥当なテンポの範囲内で解釈が本来的に妥当であるかどうかである。「フルトヴェングラーが演奏にもたらしたのは、翼の大きな鳥の気高い飛翔のように壮麗な旋律の幅広さと、馴染み深いものを新しく感動的な体験へと変容させるかのような鋭い洞察力であった。」


ハイフィデリティ誌1965年9月号では、新たに発見されたフルトヴェングラーのブルックナー7&8番のリリース(いずれも1949年録音)に当たって、その堂々とした構築性に注目している。いわゆるベルリン風のブルックナー受容の典型的な演奏例であって、自然派ともいえる日本のブルックナー受容とは異なることに注意が必要であろう。この頃のLPはステレオ/モノラル併売であって、疑似ステレオも始まったばかりであった。特集記事は6フィート(180cm)の巨大スピーカーへの回帰というもの。

フルトヴェングラーから~真にブルックナー風の一体性

アラン・リッチ

ブルックナーをめぐる戦いはついに決着した。今こそその成果を検証すべき時である。最も熱心な崇拝者でさえ弱点を認め、批判者でさえ長所を疑わず、そして誰からも誠実さを疑われない作曲家が、レパートリーに加わったのだ。 こうなると、ブルックナーの交響曲の演奏――レコードであれコンサートホールであれ――は、もはや演奏されたという事実だけで称賛される必要はない。
今日では、他の作曲家と同様に演奏水準が求められるようになり、自称ブルックナー主義者の動機も、ブラームス主義者の動機と同様に検証の対象となる。 ​​幸いなことに、ブルックナーの交響曲の録音で、不十分と評されるものはほとんどない。それらのほとんどは、作曲家の名声が中央ヨーロッパ以外ではまだかすかにしか輝いていなかった頃、ゲルマン系のバックグラウンドを持つ年配の作曲家たちによって早くからこれらの楽譜に触れてきた作品である。クナッパーツブッシュ、ワルター、ヨッフム、クレンペラー、ホーレンシュタインなどがその例だ。若い世代では、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルナルト・ハイティンクが彼らに加わる。クリップスとセルも近年これらの交響曲を指揮しており、おそらく近いうちに彼らの演奏がレコード化されるだろう。
この既に非常に印象的なリストに、新たにヴィルヘルム・フルトヴェングラーの名前を加えなければならない。昨年秋、ドイツ・グラモフォンは1944年の放送録音による第九交響曲をリリースした。今月、オデオンEMIから、第7番と第8番の演奏がリリースされる。これらは1946年から49年にかけてベルリンのラジオ局で録音されたもので、今回「ブライトクラング」方式で電子ステレオに再構成された。どちらも卓越した演奏で、これまで一流の指揮者でさえも明らかにできなかった音楽の壮大さを鮮やかに描き出している。フルトヴェングラーのブルックナーへの愛着は極めて個人的なものであったようで、彼自身の第2交響曲(DGGのために長年前に録音されたもの)は明らかにブルックナーへのオマージュ作品だった。しかし、昨年までレコードで直接的な証拠として残されていたのは、第7交響曲のアダージョを収録した5面78回転盤のみだった。

新たにリリースされた演奏で特に注目すべきは、フルトヴェングラーが建築的なプロポーションをいかに巧みにコントロールしているかという点である。ブルックナーの楽譜を扱う上で、これは最も難しい課題の一つだ。なぜなら、ブルックナーは常に壮大なクライマックスを音楽の中に惜しみなく散りばめる傾向があったからだ。フルトヴェングラーは、オーケストラのダイナミクスを徹底的に抑制することで、楽章をクライマックスへと導くことに成功している。クライマックスがどこにあろうとも、その到達点はまさに破滅的だ。ブルックナー交響曲第7番第1楽章の終盤でフルトヴェングラーが生み出す、息を呑むような壮大さと激流に匹敵する演奏は、レコード上ではほとんど存在しないだろう。
これらの演奏は、ゆっくりとした重厚な演奏でありながら、前進する勢いが途切れることはない。指揮者にとって最も難しい局面の一つが、第7番の第1楽章に訪れるのだ。やや単純で軽快な第2主題は、壮大な何かを予感させる盛り上がりの後に現れる。この新しい主題が文脈の中で陳腐に聞こえないようにすることは、この作品を録音したすべての指揮者にとって難題であった。フルトヴェングラーだけが、期待外れを避けるための適切な時間軸を見出した。また、第8交響曲の冒頭の動機を形作る彼の手法にも注目すべき点がある。それは、短い旋律的・リズム的断片としてではなく、広大な主題構成の一要素として捉えられている。ここでもまた、この曖昧で不均一な楽章をまとめ上げているのは、絶対的な統制感、つまり、あらゆる潜在的な要素をほとんど容赦なく所定の位置に押し込むような感覚である。 要するに、これは稲妻の閃光だけでなく、星座の全体像を見たいと願う聴衆のための演奏である。緩徐楽章は天文学的な時間の流れで動いているようで、始まりと終わりだけが唯一の拠り所となっている。スケルツォは決して軽快なものではなく、それらもまた花崗岩のような重厚な構成の一部となっている。

ブルックナー:交響曲:第7番 ホ長調、第8番 ハ短調(原典版)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ODEON STE 91375/78 4枚(全7面) 26.19ドル


1969年のハイフィデリティ誌に「ベルリンの第九」のリリースに関するレビューが載っている。VOXレコード傘下のTurnaboutレーベルから発売されたもので、まだ鉄の扉の向こうにあったメロディア盤とは異なるルートで、1950年代に東ドイツの放送局より買い取った「ウラニアのエロイカ」以来、1970年代のアメリカでのフルトヴェングラーの秘蔵ライヴをずっと追い続けていた。しかし、そのリソースの取り扱いが雑だということは、当時から問題視されていたことが判る。一方で演奏日時をヒトラーの誕生日ではなく、ブルーノ・キッテル合唱団の40周年記念コンサートであることなど、妙なところで正確なところがあり、テープの提供者にもっと重要な関係者が居たのでは?と思われる面がないわけではない。ユニコーン盤がこれより1年前に出ており、それに対する廉価盤というアドバンテージをどのように作るか、という商売だけの理屈で造られることに対する不満の現れというべきだろう。

フルトヴェングラーによる1942年の
ベートーヴェン第九を「ステレオ」でいかが?

デビッド・ハミルトン

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはベートーヴェンの交響曲第9番のスタジオ録音を一度も残していません。1954年に指揮者が亡くなった後、未亡人は1951年にバイロイト音楽祭を再開させたコンサート演奏の商業リリースに同意しました。この演奏は、細部に若干の欠点はあるものの、一般的に他に類を見ない、非常に特徴的な演奏として評価されています。近年、ロシアのMKレーベルは、ベルリン放送局のアーカイブから「解放」されたと思われるフルトヴェングラーによる第9番のコンサート録音をリリースしましたが、何らかの理由で、このセット(2枚組レコード、奇数面には1943年のブラームス・ハイドン変奏曲が収録)は西側諸国に公式には輸出されず、個々のコピーが流通しているものの、西側諸国には流通していません。昨年、ユニコーンというレーベルから「半非公開」のダビング盤がリリースされ、この演奏が広く知られるようになった。この演奏は、1942年3月22日~24日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートに由来するものと思われる。そして今回、ソ連と外交関係とまではいかないまでも何らかの繋がりを持つと思われるエベレスト・レコードが、この演奏を再びダビングした。今回は1枚のレコードに収録され、擬似ステレオで収録されている。
フルトヴェングラーのテンポが遅いことは周知の事実なので、エベレストがどうやってこの第九を1枚のディスクに収めたのか不思議に思うかもしれません。エンジニアたちはまず、スケルツォの最初の繰り返し部分を削除しました(フルトヴェングラーは2回目の繰り返しを書いていません)。これにより時間を節約できただけでなく、偶然にも原曲で半小節が欠落している箇所を回避することができました。 次に、全体を半音高く演奏することで、69分という時間内に収めることに成功しました。(実際には、スケルツォはさらに少し高くなっているようで、トーレンスのターンテーブルの3%の速度調整機能では正確な音程に合わせることができませんでした。)
オリジナル録音は既に深刻な問題を抱えていたため、 低音質のAM録音で、低音が弱く、 バランスが悪く、複雑な楽章では歪みがあり、 わずかに揺れ(エベレスト盤ではやや顕著)があり、 聴衆の気管支の不協和音も目立ちます。 そのため、この録音の魅力は明らかにフルトヴェングラーの指揮のファンに限られるでしょう。 もしあなたがまだ1951年のバイロイト録音(Angel GRB 4003)をご存知でないなら、 まずはそちらから聴いてみてください。 そして、もし本当に感銘を受けたなら、 1942年版は 全く異なる演奏なので、興味深い補足となるでしょう。
オーケストラの演奏は全体的にあまり良くないが、第4ホルンは、バイロイト公演で共演したホルン奏者が緩徐楽章の重要な場面で陥ったような緊張感は感じられない。フィナーレのソリストたちは悪くはないが、ソプラノが最後に崩れてしまうカデンツァはややぎこちない。また、アンダースはなぜかソロの最後を歌い終えず、合唱の登場後すぐに消えてしまう。ブルーノ・キッテル合唱団は、録音のバランスが不安定な点を除けば、かなり良い音色を奏でている(この演奏会は合唱団の40周年を記念して行われた)。録音では「フロイデ!」での最初の登場時のインパクトは完全には再現されていない。
フルトヴェングラーの演奏は、1951年よりも緊張感があり、時に誇張されている部分もあるが、その大部分において驚くほど一貫性を保っている。特に第1楽章は、テンポが速く、より均一なペースで、より強いアクセントが効いている点が気に入っている(ティンパニの特定のダウンビートが強調されている点に注目してほしい)。非常にゆっくりとした緩徐楽章もまた、美しくコントロールされており、ヴァイオリンのフレーズには繊細な表現が随所に散りばめられている。スケルツォは(1951年よりも速く、ややまとまりに欠ける)成功しているとは言えず、フィナーレの後半はまとまりを欠いている。これはベートーヴェン自身の問題でもある。というのも、協奏曲風の二重提示部(声部が「ソリスト」として機能)と主題変奏が巧みに組み合わされ、オーケストラの二重フーガに続いて主題が回帰することで、作品全体が非常に断片的になってしまうからだ。特にこの演奏では、フルトヴェングラーはフーガを非常に慌ただしく演奏することで、構造的な問題をさらに悪化させている。そのため、主要主題の回帰はより重々しく、決定的なものに感じられるが、コーダはまだずっと先の話である。
この重要なドキュメントが、これほどずさんで無頓着な形で発行されたのは残念だ。「完璧なフルトヴェングラー愛好家」なら、完全版でモノラル、そして正しい音程のユニコーン盤を入手することを強くお勧めする。 しかしながら、1942年3月のこの演奏が、当時ベルリンから遠く離れた場所にいた幸運な多くの人々に喜びをもたらすことは喜ばしい。


ワシントンのリベラル系の地下新聞Northwest-Passage誌が1970年4月20日に載せたフルトヴェングラーの「ベルリンの第九」に関する紹介文である。(ジョエル・コネリーは左派の政治コラムニストとして知られる人物) アメリカのカウンターカルチャーとフルトヴェングラーの関係なんて想像もつかないだろうが、実際そういう捉え方も可能だったのだ。



ジョエル・コネリー

ベートーヴェン 交響曲第9番(合唱付き)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ソリスト:ペーター・アンダース、ティラ・ブリエム
エリザベート・ヘンゲン、ルドルフ・ヴァツケ
ブルーノ・キッテル合唱団
ターンアバウト・レコード

おそらく、物質主義と近代産業国家における個人の軽視に対する最も力強い反論は、ドイツ・ロマン主義の思想家たちからもたらされたと言えるでしょう。 自然と素朴さへの肯定は、作家だけにとどまらず、芸術、詩、音楽、そして解釈といった様々な形で表現されてきました。
後者の領域において、15年前に亡くなった偉大な指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、まさに傑出した存在です。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の長年の音楽監督を務めた彼は、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、ワーグナーの解釈で名高く、それぞれの作曲家の知的な個性を見事に際立たせました。フルトヴェングラーは、偉大な交響曲や序曲において「台本通りに演奏する」のではなく、自らの役割を発展と装飾という創造的なものと捉えていました。
フルトヴェングラーのベートーヴェン作品は、レコード愛好家の間ではよく知られています。この演奏では、フルトヴェングラーは偉大なロマン派作曲家の感情を的確に表現し、一音一音を強調し、合唱交響曲のような作品を通して、個人主義と人類の友愛という哲学を投影しています。

さて、1942年のベートーヴェンの交響曲第9番の演奏に移りましょう。フルトヴェングラーはナチス・ドイツで、戦争の恐怖に囲まれながら活動していました。第9番の演奏において、指揮者はベートーヴェンの友愛の夢を、切実かつ情熱的に体現しています。その結果は、意識の高い聴き手にとって、圧倒的で深く感情を揺さぶる体験となる(中には、何らかの薬物を服用することでその効果が著しく高まると感じる人もいる)。
交響曲の第1楽章と第2楽章は、フルトヴェングラーがベートーヴェンを演奏する際の通常のテンポよりも速いテンポで演奏されている。 特に第1楽章には、力強さと情熱が漲っている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、驚くほど明瞭な演奏を聴かせる。一方、第3楽章は、私がこれまで聴いたどの演奏よりも遅いテンポで演奏されている。フルトヴェングラーは、まるで兄弟愛という概念を掴み取るように、一音一音を丹念に捉えている。それは、周囲のナチスの残虐行為から身を守りつつ、同時にそれに抗議するためである。
終楽章は再び速いテンポで演奏される。実際、演奏は時に狂乱的になる。キッテル合唱団は素晴らしく、歌詞を力強く歌い上げ、合唱団員たちがその意味を深く理解していることが伝わってきます。 ソリストたちは合唱団ほど際立ってはいませんが、これは録音スタジオで最新の電子機器を使って作られた人工的なものではなく、生演奏であることを忘れてはなりません。

『ターンアバウト』の音質は、当時の状況や環境を考えると、驚くほど優れています。技術的な装飾を排し、生演奏ならではの力強く情熱的な誠実さを際立たせている点が特筆すべきでしょう。 演奏の質の高さが、装飾を不要にしています。演奏の状況は、フルトヴェングラーの知的メッセージをより一層際立たせています。ベルリンのベートーヴェン・ホールで、2000人もの聴衆と内閣の半数が彼の後ろに座っていなかったら、これほどまでに心を揺さぶる演奏はできなかっただろう。 だからこそ、このフルトヴェングラーの演奏は、クラシック音楽ファンだけでなく、何らかの形で唯物主義や非人間化に異議を唱えるすべての人に強くお勧めする。フルトヴェングラーの交響曲第9番は、単なる録音ではなく、一つの哲学の表現なのだ。


以下はハイフィデリティ誌1972年12月号に掲載されたローマの指輪に関する記事である。前半はEMIのピーター・アンドリーによるRAIや歌手たちとの交渉記録で、かなり初期の段階から磁気テープは失われていたことが書かれている。交渉の難関はRAIでもDGGでもなく、端役の歌手の了承を得る作業だった。後半はコンラッド・L・オズボーンによる演奏評で、特に歌手に対する注文が多くややウンザリさせられるが、これが権威ある批評家の仕事として認められていたことを示している。マルタ・メードルがキャリアの最高潮のときの録音(この頃にはバイロイトにも出演していた)のレコード化を喜んでいるのとは正反対である。演奏評と録音評がシンクロして印象の悪いのが初っ端の「ラインの黄金」で、他のタイトルへと聴き進んでいくうちに音質が良くなっているように感じるには錯覚ではなかったと合点がいった。最後にこのローマの指輪の価値を、バジェット盤で購入できる点に絞っているのは、遅ればせながらリリースされたこの公演のその後の批評にも引き継がれているように思える。

舞台裏:フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」の奇妙な事件

これらの録音の存在は誰もが知っていましたが、一般に公開するには、誰が、どのように、いつ公開するかといった、いくつかの難しい問題が伴いました。
ピーター・アンドリー

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーによるワーグナーの「指環」の歴史的なRAI録音の待望のリリースは、私にとって特に喜ばしい芸術的出来事です。ある意味では、少し拍子抜けするような気持ちもあります。というのも、このプロジェクト全体が私にとって非常に身近なものだったからです。新しい録音の場合、通常数ヶ月間というわけではありません。1955年にEMIに入社して以来、実に17年間もの間、ずっと関わってきたのです。フルトヴェングラーの「指環」は、実際、20年近くにわたって会社の方針の最優先事項でした。他のレコード会社ももちろんこの演奏の再リリースに興味を示し、活発で精力的なフルトヴェングラー協会は、そのリリースに向けて精力的に活動を続けました。しかし、一般の人々は、これらのディスクの発売がこれほど長期間延期された舞台裏の活動について、ほとんど何も知らされていない。

歴史的に見ると、事実はこうだ。EMIは常に「ニーベルングの指環」全曲録音を望んでいた。LPレコードが開発されるまでは、それは全く実現不可能な計画だった。しかし1952年、当時インターナショナル・アーティスト部門のマネージャーだったデイヴィッド・ビックネルは、フルトヴェングラーとの専属契約を更新し、彼と共に「ニーベルングの指環」史上初の全曲録音となるはずだった企画を立てた。「ニーベルングの指環」(現在もセラフィムIE 6012で入手可能)は、1954年にスタジオ録音としてモノラルで完成し、1955年にリリースされた。残念ながら、フルトヴェングラーは他のオペラが録音される前に亡くなっていたため、この録音は追悼盤として発売された。しかし、1953年、フルトヴェングラーはイタリア放送協会(RAI)のローマ放送局に依頼され、スタジオで放送用の演奏を録音することになりました。スタジオには観客がおり、10月26日の『ラインの黄金』から始まり、11月27日まで毎晩1幕ずつ順番に演奏されました。エリザベート・フルトヴェングラー夫人は、ローマでのその月をこう回想しています。「イタリア放送管弦楽団は『ニーベルングの指環』にほとんど馴染みがありませんでした。これは不利な点もありましたが、利点の方がはるかに大きかったのです。楽団員たちはこの『新しい』音楽に魅了されました。オーケストラ、歌手、そしてフルトヴェングラー自身も、皆がどれほど懸命に働いたことでしょう!円形劇場のような形をしたスタジオは、これらの演奏会ではいつも満席でした。音楽愛好家の観客はイタリア放送協会から招待されましたが、2つの条件がありました。時間厳守であること、そして風邪をひいていないことです。そのため、誰も音を立てませんでした。最後の演奏会から帰宅する時、上演――『神々の黄昏』第三幕――長い沈黙の後、フルトヴェングラーは静かに私に言った。「彼はきっと私の演技に満足してくれただろう。」
スタジオ制作でフルトヴェングラーを起用した『ニーベルングの指環』が不可能になった今、これらのテープの権利を確保し、レコードとして発売することがいかに重要かということが分かりました。1955年にはすでに、デイヴィッド・ビックネルはEMIの音楽顧問であるローレンス・コリングウッドを、テープが保管されていたトリノに派遣し、録音の質について報告させました。コリングウッドの報告は好意的で、その後、RAIが保有する権利について契約が交渉されました。

しかし、この頃にはオリジナルのテープは消失しており、実際には痕跡すら見つかっていないため、破棄された可能性が高い。幸いにもRAIの技術者たちは金属原盤とスタンパーを作成しており、数セットのレコードがプレスされていた。1959年、RAIはこれらのセットのうちの1つをフルトヴェングラー夫人に贈呈した。夫人は夫の楽団による「ニーベルングの指環」が一般に流通することをこれまで以上に強く望んでいた。EMIはその後も交渉を続け、各アーティストの完全な同意を得る必要があった。27人のソリストだけでなく、合唱団とオーケストラも含まれていた。当然のことながら、年月が経つにつれ楽団員たちは散り散りになり、引退した者もいれば、亡くなった者もいたため、その相続人に連絡を取らなければならなかった。それはほとんど不可能な作業のように思われた。
しかし、最終的に主要メンバー全員の同意を得ることができましたが、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ローゲとジークムント)とヨーゼフ・グラインドル(ファゾルト、ファフナー、ハーゲン)の2名だけは例外でした。彼らは録音当時、ドイツ・グラモフォン(DGG)と契約を結んでいたのです。DGGはかつて、他のレコード会社と同様に、この録音の発売を検討していたようですが、当然ながら私たちと同じ契約上の問題に直面していました。そして何よりも、フルト・ヴェングラーはEMIと契約を結んでいたのです。まさに膠着状態に陥ったかに見えました。しかし1963年、私はハンブルクへ行き、DGGと基本的な合意を取り付けました。ただし、実際に契約が締結されたのは1970年になってからのことでした。その後、すべてのソリストを探し出すという問題が発生し、解決にはさらに1年を要しました。ドイツ駐在の弊社代表の一人、コンスタンティン・メタクサスは、ヨーロッパ中を巡り、アーティスト本人または相続人を探し出すという過酷な任務を任されました。RAIとの最終的な取り決めを行うには、全員との合意を文書で確保する必要がありました。デイビッド・ビックネルは、すべてのアーティストの所在が判明するまではイタリア放送局と完全な合意に達することはできないと、私に繰り返し主張しました。
特にダグマー・シュメデス、マグダ・ガボリー、オルガ・ベニングスの3人のアーティストは依然として行方不明で、誰も彼女たちの居場所を全く知らなかった。ドイツとオーストリアのすべてのオペラ団体には、すべてのアーティストの名前が登録された非常に詳細な記録保管庫があるが、メタクサスはこの3人の女性については手がかりをつかめなかった。しかし、おそらくオーストリアで見つかるだろうと言われ、案の定、数か月後、ガボリーとシュメデスが見つかった。残るはオルガ・ベニングスただ一人。彼女はどこにいるのか?メタクサスはオーストリア国務省に問い合わせたが、情報提供は得られなかった。窮地に陥ったメタクサスは、ウィーン国立歌劇場のメンバーでEMI制作の多くの作品に出演しているハインリヒ・シュミット教授に頼った。シュミット教授は、オルガ・ベニングスを知っていると答えた。彼女はウィーン国立歌劇場のすぐ近くに住んでいた。彼はしばらく彼女に会っていなかったが、住所は覚えていた。幸運にもメタクサスはベニングス嬢を自宅で見つけ、他の26人のソリストの署名に加えて彼女の署名も得た。これで参加者全員の所在が確認できたと言えるようになった。
これらの交渉のもう一つの成果についても触れておかなければなりません。シリーズのブリュンヒルデ役であるマルタ・メードルと話をした際、彼女はこう言いました。「この件で少額の謝礼をいただくことは承知しています。金額は重要ではありません。録音がようやく公開されることがただただ嬉しいのです。もし、他に謝礼を必要としている方々がいらっしゃり、より高額な謝礼を請求される場合は、私の謝礼を他の方の謝礼に充てていただいても構いません。」幸いにも、この寛大な申し出を利用する必要はありませんでした。

そして契約の詳細がようやく全て決着した後、技術的な問題が残っていました。レコードはトリノにあり、すべて金属ポジットで録音されていましたが、イタリア側は再生を拒否しました。しかし、RAI(イタリア放送協会)がこれらのレコードからテープを作成し、私たちはエンジニアのトニー・グリフィス(録音修復の専門家)とジョン・ヒューズ(EMIに40年以上在籍)をトリノに派遣しました。彼らはテープを聴き、作業に取り掛かりました。というのも、個々のディスクの異なるエンディングを合わせるのは、非常に難しい作業だったからです。しかし、彼らは見事にそれを成し遂げ、完成したテープをロンドンに持ち帰りました。昨年末までに、転送とバランス調整という複雑な作業を開始できる準備が整いました。
過去19年間、これらの演奏の「海賊版」テープが散発的に出回っていることは承知しています。おそらくRAIのオリジナル放送から個人的に作成されたものでしょう。しかし、現在私たちが手にしているのは、商業目的で制作された、きちんとエンジニアリングされた録音です。そこには20年近くの労力と莫大な資金が投入されています。実際、このプロジェクト全体の費用は、例えばバイロイト音楽祭のライブ録音をリリースするのにかかる費用とほぼ同額です。そして、多くの人が、現在の状況を踏まえて、このような試みが正当化されるのかと疑問に思うでしょう。私は正当化されると信じています。デッカは、ショルティ指揮による「ニーベルングの指環」全集で、非常に高い水準、おそらくエンジニアリングの観点から見て最高水準を確立しました。ヘルベルト・フォン・カラヤンによるドイツ・グラモフォンの「ニーベルングの指環」全集は、芸術的に非常に優れた音楽作品です。しかし、このフルトヴェングラーの演奏は他に類を見ないものです。彼は、何よりも、彼は同時代最高のワーグナー指揮者でした。現代のステレオ録音と比べると、この録音には欠点があることは承知しています。しかし、それらは主に技術的な問題であり、芸術的な問題ではありません。芸術的な観点から、この素晴らしい演奏をすべての音楽愛好家に提供すべきだと私たちは考えています。私の見解では、この演奏は極めて重要な記録的価値を持っています。音楽演奏において本当に重要なのは内容です。音質が現代のリスナーが期待する水準に達していないことは承知していますが、ほんの数分聴けば、そのような技術的な問題は忘れ去られるでしょう。リスナーは、デリック・クックが的確に「人類の精神が生み出した最高の壮大な音楽的成果」と評した作品に対する、フルトヴェングラーの比類なき解釈の魔法に魅了されることでしょう。


フルトヴェングラーのニーベルングの指環
伝説的な指揮者による圧倒的な作品の解釈
コンラッド・L・オズボーン


今回初めて商業的にリリースされるこの「ニーベルングの指環」全曲演奏は、ワーグナーのディスコグラフィーに大きく貢献するものである。その「伝説的」な側面(偉大な指揮者による作品の最終形態、長らく発売が噂され、海賊盤で出回っていたことなど)は、冷静な視点での評価を特に必要とさせるほど強力である。指揮者の名声や当時の状況にばかり目を向けてしまいがちだが、実際には興味深いものの極めてムラのある演奏である。
フルトヴェングラーの卓越した才能は随所に表れており、特にショルティやカラヤンの解釈との強い対比を際立たせている点で高く評価されるべきである。音質はやや劣るものの、楽譜に対する彼の考えは概ね一貫している。彼が指揮するイタリア放送交響楽団は、一流オーケストラとは程遠く、演奏前には楽曲や指揮者との演奏経験がほとんどなかったことを考えると、非常に優れた演奏を披露している。これは大きな評価に値する。最後に、キャストは好ましい様式的な統一感をもたらし、注目すべき演奏もいくつかあるが、全体としては、聴き手を長い時間、期待感で満たしてくれるような演奏ではない。
音質の問題は、おそらく最初に片付けておくのが一番でしょう。全曲を通して音質は着実に向上しており、『ラインの黄金』ではかなりぼやけて不明瞭な音質ですが、『ジークフリート』では初期のLPモノラルとしては平凡なレベルにまで改善しています。これは、周波数特性とダイナミックレンジが、1​​950年代の優れたチェトラ・オペラ・セットとほぼ同等のレベルにあることを意味します。ただし、その基準を『ニーベルングの指環』の音色と重厚感に当てはめることができると仮定した場合の話です。『ラインの黄金』の音質でさえ、海賊版の遠くから聞こえるノイズに比べれば(少なくとも記憶に基づけば)大幅に改善されています。しかし、この音楽において、これほど多くの重要な転換点やクライマックスが、このような圧縮と歪みによって損なわれているのは、実に残念なことです。ラインの乙女たちが初めて合唱で「ラインの黄金!」を歌う場面は、その残念な例です。後のオペラは、音源や年代をある程度許容すれば、十分に聴きやすい音質で、これらのアルバムは少なくとも音楽と演奏を公平に表現しています。

私自身の考えでは、もしフルトヴェングラーが、壮大なオーケストラと優れたスタジオ録音で、商業的に構想していた「ニーベルングの指環」を完成させていたら、そのオーケストラ演奏は、これまでに録音された演奏の中で、最も豊かで、最も成熟し、最も荘厳なものになっていただろう。この演奏にも、そうした特質が容易に読み取れ、多くの箇所でその存在感を否定することはできない。フルトヴェングラーのワーグナー・サウンド特有の、独特の暗く深みのある輝き、つまり、低音弦楽器と木管楽器の響きが鋭く響き渡り、「原始的」という言葉でしか表現できないような風格を醸し出すそのサウンドは、最低音域の濁りや最高音域の生命感の欠如にもかかわらず、確かに存在している。
才能豊かで経験豊富な指揮者たちと同様に、フルトヴェングラーは、あらゆる旋律的ジェスチャー、この音楽の場合はあらゆる動機的変奏を、非常に確固とした独自の形で形作っていました。そして幸運なことに、彼のオーケストラは(特に弦楽器において)十分な能力を備えており、かなりの部分で彼の決断に的確に従うことができ、その結果、しばしば単に中立的あるいは反復的に聞こえるものから、感情的な意味を引き出すような、ジェスチャーの的確な表現とフレージングに、何度も感銘を受けるのです。また、より大きな構成要素とその相互関係に対する彼の感覚は非常に確固としており、それはほとんど当然のことのように思えるほどです。そして、細部の演奏が音楽の展開を妨げることは決してありません。
テンポに関して言えば、フルトヴェングラーの演奏にはある種の静謐さがあると言えるでしょう。しかし、彼の『トリスタンとイゾルデ』が「遅い」という意味においても、これを「遅い」『ニーベルングの指環』と特徴づけることはできません(多くのセクションは単独で聴くとほとんど静止しているように聞こえますが、文脈の中で聴くと自然な動きと深い切迫感を帯びてきます)。そして、彼がテンポを抑制しているように見える箇所と、それがもたらす効果に注目するのは興味深いことです。例えば、『ラインの黄金』のニーベルハイムの場面におけるヴォータン、ローゲ、ミーメの会話は、確かに非常に熟慮された演奏であり、その結果、オーケストラの解説は魅力的な重みと決定的な意味合いを帯びています。しかし、これは声楽パートと小規模なオーケストラの挿入句の、実に会話的な扱いと組み合わさっており、中期ヴェルディの伴奏付きレチタティーヴォの優れた標準的な扱いと非常によく似ているため、この場面の全体的な効果は、ある種の重厚さと脅威を背景に、実際には軽やかさと自然さという印象を与えます。これは全く他に類を見ないものであり、私にとっては「ラインの黄金」全演奏のハイライトです。全体として、私は「ワルキューレ」の第2幕と第3幕、そして「ジークフリート」のほぼ全体、つまりサイクルの中核部分に最も感銘を受けました。言い換えれば、「神々の黄昏」の全体的なインパクトには、次の3つの理由で少しがっかりしました。1) このスコアの効果の多くは、本当に素晴らしいオーケストラの演奏、あるいは本当に満足のいく録音に大きく依存している。 2) 第二幕は素晴らしいものの、1937年のコヴェントガーデン公演のプライベート録音ほどの迫力はない。その録音ははるかに優れたキャストによるものだった(これは不公平な比較であり、ほとんどのリスナーには関係ないだろうが、私にはどうしても拭い去れない)。そして3) 自己犠牲がソプラノの力強い歌声で幕を開けなければ、この作品が持つ感情的なインパクトを十分に感じ取ることはできない。
RAI管弦楽団は、プロの賞賛に値するような見事な演奏でこの難題に挑んでいる。つまり、演奏の完成度の高さは驚くべきものだ。しかし、それは大規模なオペラハウスの標準的な演奏に過ぎない。金管楽器、特にホルンには深刻な弱点があり、演奏には美しさはあるものの、力強さや迫力に欠け、不安定なことが多い。金管楽器の和音は、真のバランスや正確なアタックで演奏されることはほとんどない。弦楽器の演奏は、多少の音程の問題はあるものの、ホルンよりは優れており、木管楽器は最も優れている。オーケストラの「出だし」は、機敏で気概に満ちている。それでも、テンポの変化が明確で安定したものに落ち着くまで、1、2小節かかる箇所が複数ある。

歌手の評価は、オペラごとに見ていくのがおそらく最善でしょう。『ラインの黄金』では、残念ながら最も重要な役を歌う歌手たちが、最も力強い貢献をしているとは言えません。このセットに添えられた解説では、このキャスティングは中央ヨーロッパ世代の最高の歌手たちで構成されていると示唆されています。これは、ある程度までしか真実ではありませんが、いずれにせよ、当時のワーグナー公演は、戦前の黄金時代を生き抜いた数少ないベテラン歌手たちと、第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受け、散り散りになった次世代の勇敢な歌手たちによって支えられていました。これは「国際的な」キャストではないため、当然ながら、当時の著名なアメリカ人歌手(例えば、ヴァルナイ、ハーショウ、テボム)やスカンジナビア人歌手(スヴァンホルム、ベルグルンド)は含まれていません。そして、当時活躍していた多くの優れたゲルマン歌手たち(特に男性歌手では、ホッター、シェフラー、ウェーバー、ベーメなど)も不在だった。
ヴォータン役はフェルディナント・フランツ。彼は基本的に軽めの声質の堅実な歌手で、(ヘルベルト・ヤンセンや他の同時代の歌手たちと同様に)ワーグナーのより重厚な役柄を担うようになったのは、そうした役柄が求められていたからである。その結果、高音域の音域は狭くなり、バス歌手ではなかったため、低音域の伸びやかさや存在感はあまりなかった。声の色合いはやや単調で、ダイナミクスの選択肢も限られていた。幸いなことに、これらの公演当時、彼はバリトン歌手としての本来の力強さと質をいくらか残しており、解釈の意図においては常に誠実で音楽的であった。しかし、『ラインの黄金』では調子が悪く、高音域でEやE♭に苦労し、唯一中程度の難易度の旋律の流れを頻繁に途切れさせている。それはかなりの苦戦であり、 彼がワルキールやジークフリートというはるかに厳しい試練にどう立ち向かうのか、疑問に思わざるを得ない。
『ラインの黄金』における真の主役は、登場人物の一人とはいえ、アルベリヒであり、グスタフ・ナイトはこの役を力強く演じている。 彼の声は、数年後のショルティ指揮の公演よりも美しく、伸びやかだった。 しかし、この公演での彼の演技は、劇的な迫力(重要な場面で驚くほど精彩を欠く)と音楽的な正確さに欠ける。 それでも、重要な役柄を見事に演じきっている。
重要な脇役陣の中では、フリック(ファフナー役で最高の演技を見せ、声は滑らかで生き生きとしている)とパツァークが素晴らしい演技を披露している。パツァークはテノール歌手で、ミーメ役に真の音色と美しさ、そして音楽的な鋭さをもたらしている。ルート・ジーヴェルトは、やや口達者ではあるものの非常に安定したエルダを演じ、その美しく深みのあるメゾソプラノに欠点は見当たらない。
不安定なスタートの後、ウィンドガッセンはローゲを演じ、歌唱力と音楽性は平均をはるかに上回る出来栄えだが、解釈はやや平板(個人的には逆の比率よりもこの組み合わせの方がずっと好ましい)。マラニウクはフリッカ役で表現力豊かな歌声を披露するものの、声がかすれて不安定なため、その魅力が伝わらない。グラインドルはファゾルト役で苦戦を強いられ、常に震えが感じられる灰色の音色で歌っている。グリマーはフレイヤ役として好演しているが、ポエルはドナー役で老けたような乾いた声を出しており、本来ドナーには正反対の資質が求められるはずだ。ラインの乙女役は実力派揃いだが、ロスル=マイダンだけが際立っており、アルベリヒとの擬似的な優しさを込めた小場面で真に味わい深い歌声を聴かせている。ユリナックは豪華なキャスティングだが、実際には高音域をかなり抑え、重要な2、3箇所で鋭い音程を出しすぎている。

幸いなことに、『ワルキューレ』ではフランツはより新鮮で、より響き渡る歌声を披露しており、彼の『ラインの黄金』から想像できた以上に優れた演奏を見せている。歌唱は依然としてやや堅実で予測可能ではあるものの、高音域がやや不安定に感じられるのはごく稀で、声域の限界内で、綿密に計算され、音楽的に正確な演奏を構築していることは明らかだ。しばしば力強い朗唱が聴かれ、特に「別れ」では驚くほど繊細な旋律と歌詞のニュアンスを歌い上げている。傑出した解釈とは言えないまでも、敬意に値する演奏である。
マルタ・メードルが演じるブリテンヒルデが登場する。メゾソプラノに完全に転向したとは言えないこの歌手は、1950年代にドラマティック・ソプラノの需要をいくらか満たし、今でも時折低音のキャラクター役を演じている。声の欠点をドラマティックな迫力とニュアンスを重視するファンからは、かなりの支持を得ている。私自身は、彼女の歌を心から楽しむことはなかなかできない。声は素晴らしい、いや、むしろ素晴らしいと言えるほどだが、ソプラノへの転向は技術的に成功しているとは言えず、実際、彼女の歌にはどんなジャンルに分類しようとも、胸声の重みが強すぎる。時折、彼女の本来の声の堂々とした大きさと魅力的な音色を垣間見せることもあるが、ほとんどの歌唱はまさに苦闘であり、聴いていて疲れてしまう。彼女は音楽家であり、歌詞の持つ意味合いに細心の注意を払っているが、解釈的な表現をほとんど感じられない。音符を歌おうとする必死さは、音楽性とは別物だ。彼女の最高のパフォーマンスは「戦争はなんて馬鹿げている」で、ここでは新鮮で自由な表現力を発揮し、実に表情豊かなフレージングを披露している。彼女とフランツは、この場面の大部分をうまくまとめている。
コネツニのジークリンデは、安定した実力派歌手で、豊かで丸みのある声はコントロールこそ完璧ではないものの、高音域では常に細心の注意を払っている。第3幕では、重要な場面でその歌唱力が発揮される。一方、ウィンドガッセンはジークムント役にふさわしい重厚さや英雄的な響きを持ち合わせておらず、ローゲとの重複は特に残念だ。とはいえ、彼は真に知的で表現力豊かな歌手であり、この公演では録音の中でも最もクリアで安定した歌唱を聴かせてくれる。フリックはフンディング役としては優秀だが、ラインの黄金のファフナー役ほど効果的ではなく、どこか実際よりも暗く、陰鬱な声色を無理に作り出そうとしているように感じられる。特筆すべきは、すべてのソリストの音楽的知性と、極めて的確で心に響く伴奏が相まって、第1幕は個々の要素の総和をはるかに超える素晴らしいものとなっている点である。
残念ながら、カヴェルティのフリッカは全く不十分で、彼女の明らかなスタイルセンスにもかかわらず、声はあちこちに飛んでしまう。この場面のオーケストラの演奏は実に素晴らしいだけに、残念だ。ワルキューレたちは全体的に出来が悪い。

『ジークフリート』では、経験豊富なルートヴィヒ・ズートハウスが主人公を演じています。これは、非常にプロフェッショナルな作品として評価できるものの、実際に楽しめるとは言えない演奏です。基本的に、彼は若いジークフリート役には全く不向きです。声は老けており、最も重要な中音域では、活気も芯もない、綿のような質感になっています。この音域で響きと力強さを得ようとする彼の努力は、声の広がりや狭まりにしか繋がらず、良い歌唱とは言えません。そのため、第1幕はまるでマラソンのようです。第2幕では、より叙情的な部分でリラックスして本来の実力に近いレベルで歌えるため、彼の音楽性が際立ちます。そして、「森の恋」の場面には、いくつかの美しい瞬間があります。最終幕では、再び問題が山積しますが、せいぜい言えることは、彼がそれらを回避し、すべての音符(装飾音符とターンを除く)を歌いこなす方法を見つけたということだけです。それ自体もかなりの偉業だが、道のりはまだ長い。
第1幕を共に担うのは、見事なパツァークだ。彼の存在には、ますます感謝の念が募る。時折、彼は長く続く、ビブラートのない、白く澄んだ音色で歌い、表現力を失ってしまうこともある。しかし、重要な場面では、彼は真に歌い上げ、小人という役柄を、率直で人間味あふれる形で、実に感動的に表現している。円熟した芸術家である彼は、シンプルな技巧の価値を知っており、純粋に音楽的な要求を的確にこなすだけで、幾度となく素晴らしい効果を生み出している。
フランツは着実に上達し、ミーメとの場面では堂々とした歌唱を披露する。放浪者の壮麗な和音(この歌曲集における金管楽器の最高の演奏)では、オーケストラの真の気品がそれを支えている。第11幕では、新たなアルベリヒ、アロイス・ペルナーシュトルファーが登場。彼の歌唱は、私がこれまで聴いた中で格段に優れている。これは、かなり「正統派」のアルベリヒ像と言えるだろう。特に個性的というわけではないが、鋭い発声で、執拗な高音の朗唱という難題にも難なく対応している。パツァークはジークフリートとの場面で素晴らしい歌唱を聴かせ、彼の歌声が途切れるのは惜しい。 グラインドルはファフナー役で再び精彩を欠き、鼻声で不安定な歌唱となっている。 シュトラッハローア(ワーグナーの開発した拡声器)はさておき、シュトライヒは森の鳥役で素晴らしい歌唱を聴かせている。
最終幕では、クローゼは全盛期をやや過ぎ、低音域ではやや空虚な響きを帯びているものの、それでもなお威厳のあるエルダを演じている。フランツはここでは力強く歌っているが、期待されるほどのレガートは持ち合わせておらず、ジークフリートとの対決では堂々とした歌唱を披露し、不安定な出だしから想像されるよりもはるかに堂々とこの歌劇を締めくくる。
最後の場面はもちろんメードルが登場し、彼女は意志の力で音楽に身を投じ、時には成功し、時には失敗するものの、決して手を抜くことはない。このセットのサウンドは、このサイクルの中で最も成功していると言えるだろう。そして、フルトヴェングラーは、理想とは言い難い主人公カップルにもかかわらず、この難曲の素晴らしさを力強く証明している。

『神々の黄昏』では、ズートハウスとメードルはいつもの調子で、彼は安定していて知性的だが、魅力的でも英雄的でもない。一方、彼女は明らかに不安定だ。プロローグの二重唱をそれなりにこなした後、ヴァルトラウテの場面でかなり苦戦する。その後、(幕ごとの休憩を挟んで)勢いを取り戻し、推進力のある第二幕へと進む。そして、その後も同様だ。「犠牲」の場面は乗り越えられるが、安堵感や広がりは感じられない。
幸いなことに、グラインドルはハーゲン役にかなり良い形で臨み、彼の劇的な知性もいくらか発揮されている。歌唱面では、せいぜい妥協の域を出ないものの、少なくともキャラクターと音楽は基本的なレベルで存在している。ポエルはまずまずの標準的なグンターを演じているが、やや小ぶりながらも十分な出来だ。ペルナーストルファーは今回も力強く、繊細さに欠けるアルベリヒを演じており、おそらくレコードよりも劇場で聴く方が効果的だろう。
ノルンの場面は非常に素晴らしく、3人の歌手全員が良い貢献をしている。ヴァルトラウテ役も兼任するクローゼは、場面の外側の、外向的な部分でやや苦戦しているものの、神々の苦境を静かに表現する場面では最も感動的だ。ユリナックは音楽性に富んでいるが、グートルネ役としてはやや軽めだ。男声合唱は、特にバスの典型的なクポの響きなど、いくつかの箇所でラテン音楽的な特徴を露呈している。一方で、テノールが正確な音程で持続的なB♭を歌うのは素晴らしい。

真のワーグナーファンなら、フルトヴェングラーの演奏を聴き、全曲または一部をセカンドバージョンとして所有するべきだろう。セラフィム盤という価格設定は、定価のアルバムを購入する余裕のない多くのコレクターにとって、ワーグナーの「ニーベルングの指環」を手に入れる絶好の機会となるだろう。声楽や演奏技術に多少の難点はあるものの、この圧倒的な作品の力強さと美しさは、十分に伝わってくる。

ワーグナー:「ニーベルングの指環」
RAI.の合唱団とオーケストラ・ローマ
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
セラフィム 6100、53.98 ドル (19 枚のディスク、モノラルのみ)。




さらばステレオ!
※モノラルを愛する人にはこのロゴの使用を許可?しまする




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